あなたたちってばぁ、あたくしがぁ、どうしてここに先回りできたと思ってたのかしらぁ?
予知ぃ?
そんなものよりぃあたくしの耳のほうがぁずぅっと確実だわぁ。そう思わなくってぇ?
そうそう、あたくしが仕掛けたトラップぅ、うまくできてたでしょぉ?
難しいのよぉ、ちょっとした振動でぇ崩れるようにぃ斬っておくのってぇ――
半獣人の女は、そんなおしゃべりをとめどなく続けながら、再び、じわじわと間合いを詰め始めていた。
紅子も、その動きに合わせて後退する。
だが、その足の痛みは、さっきよりもずっとひどくなっていた。
かかとを地面に着けるたび、悲鳴を上げそうになる。
歩くことさえ、難しい。
もうダメかもしれない……。
弱気になりかけた矢先、彼女は、足元がほのかに明るいことに気づいた。
常夜灯が近くにあるのだ。
黒珠たちが苦手とする光が。
光源にもっと近づくことが出来れば、今の劣勢を少しは改めることができるかもしれない。
文字通り、わずかな希望の光が紅子の心に差しかけたが、それもまもなく絶たれた。
何かが、彼女の退路をはばんでいた。
硬質で、冷たくなめらかなそれがわずかに背中に触れる。
飛行機か、ヘリかはわからない。確かめているひまなどなかった。
なぜなら、数メートル向こうにいたはずの化け物が、彼女のすぐ目の前に忽然と現れたからだ。
紅子は、女の白い顔の中で赤い唇の両端が楽しげに吊り上がるのを間近に見た。
背後を振り返っている時間など、あろうはずがない。
いや、それどころか、死を覚悟するいとまさえなかった。
獣の爪が薄闇の中で白く翻るさまが、大きく見開いたままの紅子の両目に、まるでビデオのスローモーション再生のように映る。
と、そのとき。
真っ白になった頭の中で、何かが紅子にささやいた。
ひきつけろ。
限界までひきつけて、左に転がれ。
次の瞬間、十本の爪が斬ったのは、紅子ではなく、どういうわけか、その背後を塞いでいたものだった。
それは小型ヘリで、一瞬にして細切れのスクラップと化し、地面に崩れ落ちた。
わざとはずしたのだろうか――
いや、そうではなかった。
紅子が――紅子の身体が、紙一重で死の刃をかわしたのだ。
ヘリがプラスチックと金属片になってくずれ落ちるのと、獣が跳躍を終えるのとは、ほぼ同時だった。
おもむろに身体を反転させた半獣人は、細切れの肉片になったはずの少女がさっきより少し左にずれた場所にまだ二本の脚で立っていることに気づくと、面白そうに目を輝かせた。
紅子は、左の頬に二本、赤い血の筋が走っているほかは、無傷だった。
「あらぁ?あなたってばぁ、見かけによらずぅ、すばしこいのねぇ?」
半獣人が言った。
「あたくしの爪をぉ避けるなんてぇ」
見かけによらずというのが余計だが、そのときの紅子は、何も反応を示さなかった。
もっと正確に言うなら、示すことができなかった。
頭が……くらくらする。何も考えられない。
心と身体がバラバラになったような、奇妙な感覚。
目に映る景色は絶えず蜃気楼のようにゆらめき、焦点が定まらない。
何か別の「もの」が、彼女の心と身体を浸食しつつあった。
周囲には、容れ物を失ってこぼれ落ちたオイルや燃料の類が、胸の悪くなるような異臭を放っていたが、そのときの紅子は、それさえ気にならなかった。
一方、異形の女は紅子の微妙な変化にさしたる関心を払わなかった――相手の無力と、自らの勝利に絶大な確信を持つがゆえに。
女の唇には、相変わらず愉悦の笑みが浮かんでいた。
その体勢が、獲物を狙う獣のそれに変わっていく。
「でもぉ、あなたの右足ってばぁもうダメみたいだしぃ?」
たしかに、紅子の足の痛みは、もはや限界に達していた。
それでも立っていられたのは、やはり分厚いガラス一枚をへだてたような、茫漠とした意識のおかげだったのだろう。
「そんな役に立たない足ぃ、切り落としてあ・げ・る♪」
異形の女はそう言って、自分の長い爪の一本を、つうっ、と舐める。
その舌が、獣のそれのように長い。
相手が襲撃のタイミングを測っているのがわかっても、紅子は動けなかった。
彼女を侵食している「もの」がそうさせなかった。
だが、意識が半ば麻痺しているおかげか、恐怖もほとんどない。
ただ「何か」を待っている。
待っているのが自分の意志なのか、それとも自分を侵食した「もの」なのか。もはやその境目さえ曖昧になっていた。
そして――
「それ」は来た。
獣の刃が、再び、今にも彼女を引き裂こうとした、そのとき。
これまでになく巨大な稲光が、闇を引き裂いた。
その天なる電光は、自らの至近にあって最も背の高いものに吸い込まれた。
紅子のそばに立つ、常夜灯に。
周囲に何か可燃物がなければ、その恐るべき力は常夜灯の電球を吹き飛ばし、支柱を黒こげにする程度で終わったろう。
けれど、このときは違っていた。
地面にぶちまけられ、気化した燃料が、すぐ近くを漂っている。これに引火しないはずはなかった。
稲妻は、一瞬にして巨大な火柱を生み出し、紅子の姿を呑み込んだ。
彼女を迫撃せんとしていた半人の獣は、強烈な光と熱を至近距離からいきなりあびせられて悲鳴をあげたものの、とっさに身体をひねることで、どうにか傷はまぬがれた。
その人外の反射神経がなければ、半獣人とてまるこげになっていたことだろう。
着地して見れば、彼女の獲物がいた場所は、既に火の海と化していた。
一瞬の沈黙の後、半獣の女はクスクスと笑いだし、それはやがて、けたたましい哄笑へと変わっていった。
恨みの重なる一族の末裔、唯一の目障りだった封印の鍵。
それが、死んだ。
たった今。
目の前で。
なんとあっけない幕切れだろう。
「チョーうけるぅ」
女は悪意のこもった笑いに身をよじりながら独言した。
「炎珠がぁ、こともあろうに火に焼かれて死ぬなんてぇ。あたくしとしてはぁ、もう少しぃ楽しみたかったのにぃ。残念だわぁ」
言葉とは裏腹に、全く残念そうではない声音で彼女は言い、またケラケラと笑う。
その笑いは、勝利の確信で満ちていた。
しかし――
彼女の勝利は、ほんの数秒で終わった。
聞こえるはずのない声が、その確信を砕いた。
「そんなに残念がらなくても、あたしはまだ死んでないよ」
半獣の女は、反射的に声のほうを振り返る。と同時に、炎でできた大蛇が彼女を襲った。
獣は炎のあぎとをすんでのところでかわすと、
「どういうことなのかしらぁ」
体勢を立て直し、首にまとわりつく髪をうるさそうに払いのけながら言った。
唇の笑みは相変わらずだったが、その目には剣呑な光が宿りつつあった。
「あなたってばぁ、ちゃぁんと力が使えるんじゃなぁい。力が使えないふりでだまそうなんてぇ、チョー感じ悪い」
女の視線の先には、落雷で起こった炎があった。そのの向こうで揺らめく、小さな人影。
「だましてなんかないよ」
燃えさかる炎の中から、人影は可笑しそうに言った。
「あたし、まだ自分じゃ火をともすことはできないけど、操ることならできるの――こんなふうに」
その最後の一言が終わるや否や、炎はまるで生き物のように揺れながら左右に分かれ、人外の獣の前に声の主の姿をさらした。
紅子はそこにいた。
天を焦がす真紅の、その中に。
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