2023年8月7日月曜日

紅蓮の禁呪第51話「白鷺家の双児・一」

  紅子が驚いて振り返ると、すぐそこに志乃武と瓜二つの美麗な顔があり、それはもの柔らかな笑みを浮かべて、彼女にうなずいて見せた。


 志乃武さんが、二人???


 紅子は混乱して志乃武のほうをかえりみた。

 彼はさっきと同じ場所にいて、竜介の傷の具合を調べている。

 その服装は、白のサマーセーターにブルージーンズ。

 対して、紅子のすぐ傍らにいる人物は女物の和服を着て、つややかな黒髪を肩先まで伸ばし、顔立ちもよく見れば鼻梁や頬からあごにかけての線が志乃武よりも繊細だった。

「彼女は白鷺日可理(ひかり)さん。志乃武くんの双子のお姉さんだよ」

 きょろきょろと二人を見比べている紅子の様子を見て、鷹彦が言った。

 双子――それでこんなに似ているのか。

 紅子が納得していると、日可理が言った。

「初めまして、一色紅子さま、ですね?」

 鈴を振るような美しい声は、明らかに女性のものだ。

「はっ、はい」

 返事をする紅子の声が裏返る。

 が、相手は意に介さない様子でにっこりほほえみ、

「竜介さまなら、ご心配はいりません」

 と言った。

「このかたの星は、とても強いのですもの」


 星?


 日可理の言葉の意味はよくわからなかったが、今目の前にいるこの二人には、どうやら事態を好転させる自信があるらしい。

 それだけわかれば、紅子には充分だった。

 また視界がぼやけそうになって、彼女はあわてて手の甲で目をこすった。

 なんだか今日はやけに涙腺がゆるい、などと思いながら。

 そんな紅子を日可理は静かに見守っていたが、そのどことなく謎めいた複雑な視線に紅子が気づく前に、

「紅子さん、代わりましょう」

 と、志乃武が言った。

 紅子が抱えている竜介の身体のことを言っているのだということはすぐにわかった。

 たしかに、彼女の膝はもう限界にきていた。

「ありがとうございます」

 礼を言う紅子にうなずくと、志乃武はほっそりした外見に似合わぬ力強さで、彼女の膝から自分の方へ竜介の長身を軽々と移動させた。

 彼は竜介の身体の熱さにわずかに眉をひそめると、

「日可理」

 と、姉を呼んだ。

 たったそれだけで、日可理には相手の言いたいことがわかるらしい。

 彼女は黙ってうなずくと、袂から小さな紙片を四枚取り出した。

 次いで、その細い身体が白い光に包まれる。

 それは竜介や鷹彦の放つ目の覚めるような青い光とは異なり、どこか柔和で、優美な輝きだった。

 紙片にはいずれも複雑な幾何学紋様とも文字とも見える模様があるのが、彼女自身が放つ光輝のおかげで見て取れる。

 日可理がその一枚を片方の手のひらに乗せて何事かささやくと、その紙片の上に白銀色に輝く円い紋様のようなものが現れた。  まるで投影装置か何かで空中に出現させた幻のような――だが、そんな装置はもちろん、どこにもない。

 あの光る円形の幻は何だろう、と思う紅子の脳裏に、ふっと、


 法円、という言葉が浮かんだ。


 そうだ、たしか、炎珠から与えられた昔の記憶の中に出てきた。

 術を使うときに現れる――ということは、日可理さんはこれから何か術を使おうとしている?

 紅子がそんなことを考えているあいだにも、紙片には別の変化が現れていた。

 ゆっくりと回転する白い法円の下で、それは小さな白いヒルに姿を変えたのである。

 おぞましいヒルの化け物との対決がまだ記憶に新しいせいか、紅子は思わず、うぇっ、と声が出そうになるのを、両手で自分の口を押さえてこらえる。

 しかし、今目の前にいるそれが放つのは、黒珠の化け物とはまったく逆の神々しいような輝きで、彼女は自分の中の嫌悪感がぬぐい去られていくのを感じた。

 日可理は四枚の紙片すべてをヒルに変えると、それらを一匹ずつ、竜介の傷の上にそっと降ろした。

 最初、四匹のヒルたちは自分が今どこにいるのかを確かめようとするかのようにうごめいていたが、まもなく毒牙の痕を見つけると、それぞれそこに吸いついた。

 日可理はその様子を確かめ、彼らの小さな法円にほっそりとした人差し指を置いていく。

 まるで機械か何かを調節しているみたいだ、とそれを見た紅子は思ったが、その見方はあながち間違いではない。

 このとき、日可理はまさしく術の調節を行っていたからだ。

 法円は彼女の指が触れるたび、その精密な幾何紋様を変えた。

 そうして四つの小さな法円の紋様すべてが同じになったとき、いったん日可理は顔を上げると、志乃武にうなずきかけた。

 志乃武は姉にうなずき返し、そばで固唾をのんで見守っている鷹彦と紅子に言った。

「解毒の術を立ち上げます。すみませんが、法円を踏まないように少し後ろに下がっていてください」

 紅子は仕方なく、鷹彦の肩を借りて、言われたとおりに移動する。

 と、まもなく、彼女が座っていた場所を含めて、竜介の周囲に白く輝く法円が出現した。

 それと、日可理の手の下にあった四つの小さな法円が一つにまとまるのとは、ほぼ同時だった。

「術式開始」

 誰にともなく彼女がそうつぶやくと、法円の紋様の一部が扇状に黒く染まり始める。

 ちょうど、作業の進捗を示すゲージのように。

 誰も一言もしゃべらず、日可理の手元で広がっていく扇形をただ見守っている。

 いつもべらべらと軽口の多い鷹彦も、そういえばさっきからずっと押し黙ったままだ。

 むしろ、今この場で最も深刻な顔をしているのは、彼かもしれない。

 法円の黒い扇が円盤に変わった頃、日可理が再び静かに宣言した。

「浄化」

 すると、竜介の腕に吸い付いていた小さな匍匐ほふく生物たちの輪郭がぼやけ、まるで砂像が崩れるように白い光の粒子となって舞い上がった。

 ゆるやかに回転する法円がその光の粒を吸い込んでいく。

 一方で、法円の幾何紋様はめまぐるしく変化し続けていたが、やがてすべてのヒルたちを吸い込んでしまうと、その変化はぴたりと停止し、回転も止まった。

 そのとたん、法円の輝きがひときわ明るくなり、黒い円盤が内側から螺旋を描きながらものすごい速さで消え始める。

 キィン、という耳鳴りのような音が辺りを満たす。

 が、目の前の光景に心を奪われているからか、紅子はそれを耳障りとは思わなかった。

 法円がもとの白い輝きを取り戻すと、日可理は小さく息を吐きながらつぶやいた。

「術式終了」

 竜介の周囲と日可理の手元、大小二つの法円が幻のようにかき消え、同時に日可理の身体を包んでいた白い光輝も消えた。

 辺りを照らすのは、やや勢いの弱まってきた炎だけにもどった。

 紅子がもとの暗さに慣らすために何度か目をしばたたかせていると、また日可理の声が聞こえた。

「まだしばらく熱は残るかもしれませんけれど、お命にかかわるようなことはないでしょう」

「あの、それって……」

 紅子が言いかけた言葉を、鷹彦が奪うようにして言った。

「竜兄が助かるってこと!?」

 笑顔でうなずく日可理を見て、二人はほぼ同時に、大きな安堵の息をついた。

「よかった……」

 気がつくと、声をそろえてそう言っていた。

 紅子は竜介の顔をのぞきこんだ。

 その表情は相変わらず苦しげだったが、紙のように白かった頬と唇にはわずかに赤みが戻り、浅かった呼吸も、深くゆったりとしたものに変わっている。

 快方に向かっているのがはっきりとわかる。


 もう大丈夫、なんだ……。


 そんな実感がわいたとたん、この日一日の疲労がどっと押し寄せてきて、紅子は身体の力が抜けるのを感じた。

「よかったなぁ、紅子ちゃん!!」

 と、鷹彦が背中を思い切り叩いてくれなかったら、彼女はそのまま意識を失っていたかもしれない。

「いやー、ありがとう、日可理さん。志乃武くんも!!」

 鷹彦はそう言いながら、彼らの手を両手で握り、振り回すようにして感謝の意を表した。

「いえ、元はといえば、僕たちが遅れたのが原因ですから。これくらいではお詫びにもなりませんよ」

 志乃武は相手の少々大げさな感情表現に苦笑しつつ、少し申し訳なさそうに言うと、竜介を抱えて立ち上がった。

「さて、それでは急いでここから撤収するとしましょうか」

「志乃武さんは、鷹彦さまと一緒に、先に竜介さまを車へ」

 日可理が言った。

「わたくしは、紅子さまのおけがを見てから参ります」

 それから彼女は紅子に向き直ると、

「おけがは、頬と……右のおみあしで、すべてでしょうか?」

と尋ねた。


 お、おみあし?


 紅子は日可理の丁寧すぎる言葉づかいに当惑しつつ、

「はい、それで全部……です」

 と答えた。

 頬の傷は見ればわかるけれど、足のことまで気づいてくれていた。

 そのことが、素直にうれしい。

 そんなことを思っていると、日可理の美しい顔がすぐ間近に来て、紅子はドキッとした。

 日可理の身体を包む、甘くすがすがしい香りが紅子の鼻をくすぐる。


 なんで女の人なのにドキドキしてんだ、あたし!


 相手が美人すぎて、頬の傷をあらためているだけだとわかっていても、見つめられるとなんだか落ち着かない。

「大変な一日でしたね」

 と日可理がいたわりをこめて言った。

「怖い思いをさせてしまって、本当に申し訳ありませんでした」


 きれいなだけじゃなくて、優しい人なんだ――


 紅子は温かな気持ちになった。

 が、その一方で、

 ぅわー、こんな上品な人にどういう言葉遣いすればいいかわかんないよー!

 とも思う自分がいる。

「いえ、あの、でも、えっと、日可理さんたちが悪いんじゃないし、そんなに謝る必要ないですよ」

 つっかえながら紅子がそう言うと、日可理はふっと微笑んだ

「頬の傷は痛みますか?もう血は止まっているようですが」

「あ、えと、そっちより、足が……」

 すると、日可理の視線が顔からそれて、紅子は少しほっとした。

「これはまた、ひどく腫れてますね……可哀想に」

 そう言い終わらないうちから、日可理の身体が再び白い輝きを放ち、紅子の足首に触れる手の先に白銀色の法円が現れた。

「わたくしの力は竜介さまと違って、ケガそのものを治すことはできませんが、痛みを取り除くくらいはできますから」

 その言葉通り、法円の白い光が紅子の足の痛みをみるみるやわらげていく。

 やがて、日可理は法円を消すと、言った。

「ゆっくり立ってみていただけますか?」

 紅子は右足をかばいながら、恐る恐る立ち上がる。

「痛……くない?」

 さっきまでの激痛が嘘のように消えていた。

 体重をかけると、さすがに鈍い痛みがくるけれど、歩けないほどではない。

「信じらんない……!ありがとう、日可理さん!」

 立ち上がり、和服に付いた土ほこりを払い落としていた日可理は、礼を言う紅子に笑みを返すとゆっくりかぶりを振り、言った。

「わたくしはおいためになった筋を治したわけではありませんから、お医者さまにかかるまではご無理なさらないでくださいましね?」

 紅子が深くうなずいたそのとき、向こうから鷹彦が戻ってきた。

 彼は紅子が立っているのを目にするや、驚きの声をあげた。

「あれ?紅子ちゃん、足は?」

 紅子が、日可理が痛みを取り除いてくれたことを伝えると、彼は実に悲しそうな表情でぽつりとつぶやいた。

「せっかく、紅子ちゃんを抱えて運べると思ったのに……」

 この言葉に日可理は苦笑し、紅子は不機嫌そうにむっつりと黙り込んだ。

 彼女に本気で怒る気力が残っていなかったのは、このときの鷹彦にとって幸いだったといえる。

 さもないと、彼は本日二度目の足蹴をくらっていただろうから。


 ともあれ――

「車にどうぞ」

 という志乃武の声に促され、残る三人は車に向かって足を踏み出した。

 長かった一日が、ようやく終わる。

 その場のだれもが、そう思っていた、そのときだった。

 緊迫した声が、響き渡った。


「おい、そこのあんたら!!ここで何してんだ!!」

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