2023年8月6日日曜日

紅蓮の禁呪第44話「遠雷」

  カーステレオから流れる軽快な音楽に合わせて、その若いトラックドライバーはふんふんと鼻歌を歌っていた。

 運転しているのは、4トントラック。

 銀色の車体の横に運送会社のロゴが大書されている。

 今積んでいる荷物を配送センターに下ろしたら、明日から二日間は非番だ。

 彼はダッシュボードに固定している小さな家族写真をちらりと横目で見た。

 写真の中で微笑んでいるのは、彼と同じ年ごろの女性と、二歳くらいの男の子。

 家でのんびりしたいけど、そうもいかないよな。

と、彼は思った。

 たまにはどこか連れてってやらないと……どこがいいかなぁ。

 通り慣れた道は思ったより空いていて、彼は脳内で子供が喜びそうな近場の公園や遊園地を検索しながら、のんびりとハンドルを切った。

 空模様が少しあやしい。

 配送センターにはあと15分もあれば着くだろうが、積み荷を降ろしたりなんだかんだで1時間はかかる。

 帰りぎわに雨に降られたらいやだな。

 前方の信号は青だが、同方向の歩行者信号はすでに赤になっていた。

 もうすぐこの信号も黄色に変わるだろう。

 今のうちに通過しちまうか。

 彼はアクセルを踏み込んだ。

 と、そのとき――

 トラックの鼻先に、黒っぽい「何か」が飛び出してきた。


「うわっ!?」


 とっさにブレーキに踏み換える。

 タイヤが悲鳴をあげた。が、間に合わない。


 ぐしゃり。


 何かがつぶれたような、いやな音が聞こえ、フロントガラスの全面がどす黒く染まる。

 前方が全く見えない。

 それだけでも運転者がパニックを起こすには充分だが、それだけでは終わらなかった。

 次の瞬間、フロントガラスに張り付いた黒い液体の中に、無数の黄色い目が開き――

 その黒い液状の化け物は、ガラスを割って内部へ侵入してきたのだ。

「ぎゃああああっ!!」

 運転者を失ったトラックはそのまま左回りに大きくスピンしていく。

 スピンのせいで重心が大きくくずれた車体はそのまま右を下にして倒れると、四車線道路をふさぐように滑ってから、ようやく止まった――まわりの車を何台も巻き込んで。

 事故のせいでふさがれた道路に、長い車列ができるのにさほど時間はかからなかった。

 事故現場からおよそ1キロ。

 その車列の中に、ワゴンタイプのドイツ車が一台あった。

 色は、人目を引くパールが入った白色。

 運転席には、車以上に人目を引きそうな青年が座っていた。

 白磁のような肌に映える、黒々とした眉、やや明るい茶色の瞳を縁取る長いまつげ。

 男っぽいあごのラインや高い鼻梁がなければ女と見まがうばかりの美しさである。

 彼はサイレンを鳴らし赤色灯を明滅させながら自車のそばをすり抜けていくパトカーや救急車を横目に見ながら、すらりと長い人さし指でハンドルをトン、トン、と小突いていた。

 長い信号待ちなど、手持ちぶさたなときに彼がよくやる癖だ。

 と、助手席側のドアが開き、ほっそりとした和服姿の美女がするりと車内にすべりこむ。

 彼女と運転席の彼とは、同じ年くらいで、しかも驚くほど顔が似ていた。

「やはり、事故だったわ」

 美女はシートベルトをかちりと締めながら言った。

「1キロくらい先で、横転した大型トラックと、巻き込まれたらしい車とで道が完全にふさがれているの」

 彼女は渋滞の理由を探るために、事故現場近くまで行って来たのだった。

 それを聞いた運転席の青年は、ヘッドレストに頭をあずけて、ふぅ、とため息をついた。

「まるで計ったようなタイミングの悪さだ」

「現場から、弱いけれど彼らの気配を感じたわ」

 青年は、ふふん、と鼻で嗤った。

「僕らに直接しかけるほどの力はまだないから、普通の人間を襲ったわけか」

 なかなか頭がいいね。

「迂回しましょう」

 美女は細い指先でカーナビを操作し始めたが、まもなく険しい顔でその手を止めた。

「だめ……最短ルートでも約束に1時間近く遅れてしまう」

「なら、一刻も早く行動を起こさなきゃ。日可理、つかまって」

 青年はそう言うや否や、相手の返事も聞かずに車をUターンさせ、渋滞のせいでがらがらに空いている対向車線を猛スピードで走り出した。

 日可理、と呼ばれた美女は反転する車内で大きく揺さぶられ、小さく悲鳴を上げてシートベルトにしがみついたが、やがて走行が安定すると、車窓からどんどん暗くなっていく空を見上げた。

 低く垂れ込める雲のせいで、日暮れが早い。

 日可理の脳裏を、一人の青年の面影がよぎり、彼女は眉をわずかにひそめ、祈った。

 どうか……どうか、ご無事で――


 ***


 それよりも少し前。

 紅子たちを乗せた垂直離着陸機は、一時間弱のフライトを終えて小規模な飛行場のヘリポートに着陸していた。

「じゃあ俺、このまま東京にもどるんで、あとよろしく」

 虎光は兄たちをヘリから降ろすときに機内のスピーカーを通してそう言うと、操縦席から降りずに再度飛び立った。

 ティルトローターとジェットエンジンの爆音が完全に聞こえなくなると、辺りは気味が悪いほどの静寂に包まれた。

 三人が降り立った場所から少し離れたところに、ヘリや小型機を収納しておくハンガーや管理事務所らしい建物が見えるほかは、ほとんど何もない。

 管理事務所のそばは駐車場らしく、車が何台か停まっていた。

 車が置いてあるということは、それを運転してきた人間がどこかにいるはずだ。

 それを証明するように、建物にはいくつか明かりのついた窓も見える。

 なのに、人の気配というものが、そこにはなかった。

 空を覆う灰色の雲のせいだろうか、それとも秋の早い日没のせいなのか、周囲の景色がどれもまるで影絵のようにぼんやりと精彩を欠いている。

 雲は雷をはらみ、遠くの空が時折、青白く発光していた。

 不快に湿った風と地鳴りのような遠雷をつとめて気にしないよう、紅子は口を開いた。

「ここからどうやって白鷺家に行くの?」

「迎えが来てるはずなんだがな」

 携帯電話を取り出して操作していた竜介が画面から目を上げずに答えた。

「ちょっと待ってくれ。連絡してみる……っと」

 と、彼が言ったまさにそのとき、その手の中にあった電話が鳴った。

 通話の邪魔にならないよう、鷹彦も紅子も口を閉じている。

 すると、必然的に聞こえてくるのは竜介の話し声だけになった。

「はい。ああ、日可理さんか」

 電話に出た彼の口元に親しげな笑みが浮かぶのを、紅子は見た。

「今、着いたところなんだけど……うん……事故渋滞?」

 彼の表情がわずかに曇る。

「わかった。いや、こっちは大丈夫だから。……ああ、そうしてみる。……じゃあ、またあとで」

 彼は電話を切ると、二人にむかって言った。

「迎えはちょっと遅くなるそうだ」

「がーん。んじゃ俺らそれまでここで立ちっぱですか」

 鷹彦がどこぞの古典絵画のように両手を頬に当て、おおげさに嘆いてみせる。

「人の話は最後まで聞けよ」

 竜介は苦笑した。

「ここの責任者に話は通してあるそうだから、建物の中で待たせてもらうくらいはできるだろ。しかし……参ったな」


 今日は、雲が厚い……。


 暮れなずむ西の空を眺めながら、彼は誰にともなくつぶやいた。

 それを聞きとがめた紅子もまた、ひどくゆううつな気分になる。

 雨がまだ降っていないというだけで、あとはあの黒珠の化け物に襲撃された日の状況とあまり変わらない。

 このまま、何も起こりませんように。

 竜介と鷹彦のあとに従い、祈るような気持ちで、管理事務所のほうへ足を踏み出す。

 雷鳴が、いつの間に近くなっていたのだろう、低くとどろいた。

 それはこう言っているように聞こえた。

 もうすぐ、闇の時間がやってくる、と――

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