2023年8月2日水曜日

紅蓮の禁呪10話「秘密」

  少し前に時間を戻そう。


 紅子が出かけた後の一色家では、玄蔵と竜介が、坪庭に面した奥座敷で向き合っていた。

 残暑の日差しが縁側に差し込んでいるが、その熱気は、奥にいる二人にまでは届かない。

 その座敷は仏間も兼ねているようで、部屋の隅には、こぢんまりとした仏壇が置かれ、位牌の他に写真が二枚、飾ってあった。

 片方は二十歳くらいの、うら若い美女。

 もう一方は、六十歳を過ぎたくらいの、上品な老婦人。

 紅子の母と祖母である。

 それら遺影の前にある小さな銀色の香炉には、先ほど竜介が上げたばかりの線香が数本、か細い燻煙を上げながら、ゆっくりと燃えていくところだった。

 二人とも正座し、改まった様子で居住まいを正していた。

 彼らは知っているのだ――これからどんな話を交わさなければならないかを。

「遅くなりましたが」

竜介が口火を切った。

「八千代やちよおばさんのこと、お悔やみ申し上げます」

 玄蔵は鷹揚にうなずく。

「ありがとう。義母ははも喜んでいるだろう」

「お葬式にも顔を出さず、すみませんでした。亡くなったことは聞いていたんですが」

「私はもう紺野家の人間じゃないんだ。当然だよ」

 玄蔵はそう言って皮肉っぽく笑った後、ふと懐かしいものを見るように、竜介の顔をしげしげと眺めた。

「変わらんなぁ、きみは。昨夜は頭髪とヒゲとで、一見ではだれだか分からなかったが」

 竜介は笑って頭をかいた。

「海外ではあのほうがいろいろ都合がいいもので、つい。いきなり呼び戻されて空港からここまで直行だったし」

 玄蔵は声を立てて笑った。

「相変わらずだな。ご両親には、お変わりはないかね?」

「はい」

「虎光とらみつくんたちも?」

「はい」

うなずいてから、竜介はこう付け足した。

「師匠も、元気です」

 玄蔵の頬がぴくりと動いた。

「不肖の息子がいなくなれば、寿命ものびるさ」

 冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、彼は竜介が言葉を挟もうとする前に話題を変えた。

「世間話をするために来たわけじゃなかろう。そろそろ本題に入ろうじゃないか」

 竜介は、玄蔵が「師匠」の話を避けるわけを知っていたので、何も言わずに相手の提案にしたがった。

 いや、むしろその方が、彼にとっては好都合だったのだが。

 世間話をしていたときとあまり変わらない口調で、彼は言った。

「紅子ちゃんには何も話しておられないようですね」

「……必要ないと思ったのでね」

玄蔵が答えた。

「あれには、何の力もない」

「魂縒たまよりは?」

 竜介の質問に、彼はかぶりを振る。

「それなら、まだ決まったわけじゃありません。とりあえず、魂縒を受けさせて下さい。もしかしたら……」

「紅子は、普通の娘だ」

玄蔵は竜介の言葉をさえぎると、かたくなにそう言い張った。

「第一、あれはまだ子供だ。きみのように鍛練を積んでもいない。無理だ」

「俺が何のためにここに来たかは、ご存じでしょう」

 玄蔵は、沈黙でそれに答える。

 竜介はため息をつくと、続けた。

「こんなことは言いたくありませんが、俺は紺野・白鷺両家の意向を受けて来ているんです。頑固も度が過ぎれば、後悔することになりますよ」

 穏やかな口調ではあったが、脅迫めいた、剣呑な言葉だった。

 玄蔵の表情が険しくなった。

「手段は選ばない、というわけか」

「紅子ちゃんの力が必要なんです」

竜介の、穏やかで真摯な口調は変わらない。

「それに、紅子ちゃんの命を守るためにも。連中が彼女を狙うのは、時間の問題です」

「一つ、聞きたい」

玄蔵が尋ねた。

「もし、『封印の鍵』になれなかったら、紅子はどうなるのかね」

「同じことです」

と、竜介は答えた。

「彼女が炎珠えんじゅの血を引く最後の人間であることに、変わりはありません。うちでお預かりします。ここにいるよりはずっと安全でしょう」

 玄蔵は苦笑した。

「そうしてまた、次代に望みを託すのかね……あの子の祖父がしたように?」

「おじさん、俺は……」

「いや、すまない」

玄蔵は、手で竜介をさえぎった。

「きみを責めるつもりはないんだ。ただ、運命というのは皮肉なものだと思ってな。……わたしは、炎珠の血を守るために、紺野の姓を捨てたのではなかったのだが――」

 彼はその先を言わずに口を閉じた。

 竜介もまた、つらそうに視線を伏せたまま、先をうながさない。

 お互い、わかりすぎるほどわかっていることだったから。

 玄蔵はそのまま、坪庭に目をやった。

 立ち枯れている一年草、色づき始めている木の葉、そんなものが目につく。

 まだ夏のなごりが色濃いように見えても、秋の気配は確実に忍び寄っている――そんなことを思った。

 どれくらいそうしていただろう。

 不意に沈黙を破ったのは、玄蔵だった。

 庭木を見つめたまま、彼は言った。

「竜介くん。きみには、すべて話そう」

 ゆっくりと視線をめぐらせ、竜介の顔で止める。

 最後に見たときは、まだ少年だった従兄甥の顔。

「紅子にはもはや、炎珠の魂縒はいらないのだよ」

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