2023年8月3日木曜日

紅蓮の禁呪12話「困惑の日」

 「春香……春香」

 紅子は、机上でうたた寝をしている友人の肩を、先刻から何度か揺すっていた。

 が、かなり熟睡しているらしく、なかなか相手は目を覚まさない。

「ちょっと、春香ってば!」

 大声を出し、強く揺さぶって、ようやく彼女はぼんやりと目を開けた。

「ん……あ……何?」

「何、じゃないよ、爆睡しちゃって」

紅子は呆れた調子で言った。

「次の授業、休講になったから、みんなが早めにお昼にしようって。ほら、学祭の準備もあるしさ」

「ああ……」

 春香はとろんとした表情のまま、曖昧あいまいな返事をする。

 その目は、ただ開いているだけで、何も見ていないようだ。顔色もよくない。

 紅子は親友の様子がどことなくおかしいことに気付いた。

「春香?」

「な……に?」

 呼ばれれば、一応は返事をし、そちらに顔を向ける。

 だが、その視線は目の前の紅子を素通りして、どこかまったく別の場所を見ていた。

 やっぱり、変だ……たとえ極度の睡眠不足だとしても、こんなにぼんやりしているのは。

「どうしたのよ?なんか、ヘンだよ……気分でも悪いの?」

「気分……?」

 無表情な顔。抑揚よくようのない声。

「そう……あたし、気分が良くないの……」

そう言うと、彼女はゆらりと立ち上がり、夢遊病者のように、歩き出した。

「え?ちょっと、春香?」

 紅子があわててあとを追いかけようとすると、彼女はおもむろに振り返り、言った。

「保健室……行って来る」

「ついて行こうか?」

 友人の申し出に、春香はかぶりを振った。

「いい……一人で、大丈夫……」

 それだけ言うと、またきびすを返し、歩き出した。

 春香とは遠慮したり気を遣ったりするような間柄ではない。

 だから、紅子も変に気を回すようなことはしなかった。

 相手が「大丈夫」というのなら、そうなのだろうと思ったし、よく見れば、表情は寝惚ねぼけたように、とろんとしているが、足元はしっかりしているようだ。

 それでも、春香の様子が平生へいぜいとは違いすぎていた。

 奇妙な胸騒ぎが、紅子に友人のあとを追わせようとした。

 しかしその足は、別の級友に呼ばれたことで止まってしまい――そうして、それきりになってしまったのだった。


 紅子が級友たちと昼食を食べ終わってしばらくしても、春香は戻ってこなかった。

 心配した彼女が、保健室に友人の様子を見に行ったところ、そこには生徒は誰もいなかった。

 しかも、養護教諭に訊いてみたところ、

「一年の松居春香さん?さあ、来てないわねぇ」

 そんな返事が返ってきた。

 あまりに気分が悪くなったので、直接、家に帰ってしまったのだろうか?

 そんなことを考えながら、彼女は次に春香がいそうな場所として、部室へ向かった。

 扉を開けると、中には先客がいた。

 藤臣である。

 彼は開け放った窓の枠に腰を下ろし、紅子が入ってきたことに気付くと、ちょっとばつの悪そうな笑みを浮かべた。

 その右手には火のついた煙草たばこがあって、紫煙がそこから立ちのぼっていた。

「まずいところを見つかっちゃったな」

 未成年の喫煙は、法律で禁じられてはいるが、別段、珍しいことでもない。

 それが校内だったとしても、同じことだ。

 しかし、相手がそんな言葉を口にしたので、紅子もなんだか見てはいけないものを見てしまったような、居心地の悪い思いを味わった。

「す、すみません」

思わず謝っていた。

「すぐに出ていきますから」

 見たところ、ここにも春香の姿はなかった。

 それなら、もはや用はない。

 ところが、きびすを返そうとした彼女を藤臣の声が引き留めた。

「待った、待った。何か用があってきたんじゃないのかい」

「いえ、友達を捜してただけなので」

「ふぅん。今、急いでる?」

 紅子は一瞬、考えた。

「……いえ、特には」

「それなら、しばらくここにいてもらえないかな」

 思いがけない頼み事に、彼女は心中、いぶかしがりながら、

「はぁ……」

と、曖昧に返事をした。

 なんだろう。学園祭ライブのこと?

 しかし、藤臣の様子は何か大事な話を始めるというふうでもない。

 彼はおもむろに胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、紅子のほうに差し出した。

「吸う?」

 紅子はかぶりを振った。

「いえ、あたしは……」

「そう」

 藤臣は箱を戻すと、持っていた吸いかけの煙草を、傍らにあったジュースの空き缶の口でもみ消した。

「実はさっき、部長が来てたんだ」

 彼は吸い殻を缶の中に落とすと、ゴミ箱に向かって投げた。

 アルミ缶は部室の壁に一度ぶつかってから、狙った場所におさまった。

 紅子はおうむ返しに尋ねる。

「井出先輩が?」

「うん。あとで他の部員にも報せるけど……明日、親父さんの葬式なんだと」

彼はため息をついた。

「正直、参ってるんだ……あいつとは中学からのつきあいだけど、あんなふうに落ち込んでるところなんか見たことなかったから、何て言って慰めればいいのか、わからなくてさ。僕は肉親の死なんて経験したことがないし……結局、ありきたりなことしか言ってやれなかったのを、後悔してたところ」

 そう言ってから、彼はちょっと笑った。

「なぁんて……悪い、変な話をしちゃったな。情けないよな、後輩にぐちるなんて」

「あ、いえ……」

紅子はあわててかぶりを振った。

「言葉は、言葉でしかないから……ただ黙って傍にいてもらうほうがいいときもあるし。自分と一緒に悲しんでくれてる人は、態度や表情でわかるから……だから、センパイが思ってること、部長にもちゃんと伝わってると思います」

「ありがとう」

藤臣は、ふっと表情を和ませた。

「一色が来てくれて、よかった」

 紅子は照れてうつむきながら、春香のことを考えていた。

 保健室にも、部室にもいなかった……てことは、やっぱ、帰ったのか。

 かなり、様子おかしかったし。あとで電話してみるかな。

「……で、……なんだけど……どうかな?一色?」

「は?」

 上の空だった紅子は、いきなり名前を呼ばれて間の抜けた返事をした。

 それから我に返って慌てる。

「あっ、その、すみません。考え事してて……何でしたっけ?」

「しょーがないなぁ。こんなこと、何度も言わせないでくれよ」

彼は苦笑すると、紅子と視線を合わさないようにしながら、言った。

「卒業してからも、ときどき、こんなふうに二人で会いたいと思うんだ。……もちろん、一色さえよければ、だけど」

 その言葉が終わるか終わらないかというとき、突然、扉のほうで、何かがひっくり返ったような、ガタン、という大きな音が聞こえた。

「あたし、見てきます」

 紅子はそう言うが早いか、そちらへ向かっていた。

 心中ひそかに、助かった、と思いながら。

 だが、外には誰もいなかった。

 ただ、出入り口の脇わきに置かれていた防火用バケツが、ころころと転がっていた。

 まるで、たった今、誰かが蹴り散らかしたばかりのように。

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