部室長屋へ続く渡り廊下に出ると、雲一つない見事な秋晴れの空が広がっていた。
彼女は目を細めると、強い日差しを手でさえぎる。
校庭からは運動部員達のかけ声やボールを打つ音が聞こえてくる。
他にも、校内のあちこちで自分のパートを練習しているらしい吹奏楽部の楽器の音。
笑いさざめきながら、紅子とあるいはすれ違い、あるいは走って追い越していく生徒たち。
これまで気に留めてもいなかった、ありふれた放課後の光景。
それが今の彼女には、脆くも美しいガラス細工のように思えた。
こうして平凡な日常に浸っていると、一週間あまり前のあの事件がまるで悪い夢だったような気さえする。
だが、あれはまぎれもなく現実に起こったことなのだ。
あたしが黒珠を封じなければ、今見ているこの景色のほうが、夢のように消えてしまうんだ。
現音の部室は鍵がかかっていて、珍しくだれもいなかった。
仕方ない。
休学の件は今晩あたり春香に電話して、表向きの理由以外は何も喋るなって念押ししておこう。
もっとも、表向きじゃないほうの理由を喋ったところで、だれも信じやしないだろうけど。
と、紅子は心の中でつぶやいた。
春香にむりやり入部させられたクラブだけど、居心地は悪くなかったんだよね。しばらくお別れとなると、なんかちょっと寂しいなぁ……。
そんなことを思いながら、帰宅するべく昇降口にむかって歩き出した、そのとき。
「いい加減にしてください!!」
聞き覚えのある声が、校舎の裏手のほうから聞こえてきた。
「僕は何も知りません!!」
間違いない、藤臣の声だ。
しかし、「怒ったところを見たことがない」と、彼と同級の先輩たちに言わしめるほど温厚な性格で知られる彼が声を荒げるとは、いったい何事だろう。
紅子が校舎の影からそっと様子をうかがうと、あまり聞いたことのない出版社の腕章を着けた大柄な男が、長身の藤臣に覆いかぶさるようにして絡んでいるところだった。
すわケンカかと一瞬飛び出しかけた紅子だったが、よくよく見ると男の態度は穏やかで、絡むというよりは何事かを彼に頼もうとしているらしいとわかり、思いとどまる。
「な、頼むよ。いいじゃん、ちょっと協力してくれてもさぁ」
と、男は気持ちが悪いほど優しい声で言った。
「井出君のお父さんの話、聞かせてよ。井出君と親友なんでしょ、キミ。あの日の夜中に井出先生が発掘現場にいた理由、教えてよ。ホントは事故なんかじゃないんでしょ、あれ」
紅子のほうには背中をむけているので顔はわからないが、しかし、腕章と肩からさげた重そうな鞄やカメラがなければ、ただのちんぴらヤクザにしか見えないような風体の男だ。
「知らないって言ってるだろ、しつこいな!!これ以上、つきまとうなら、人を呼ぶぞ!!」
しかし、そう言ってその場を立ち去ろうとする少年の二の腕をつかむと、男はさらに食い下がった。
「じゃあさぁ、こうしない?キミ、バンドやってんでしょ。記事になりそうなこと教えてくれたらさ、ボク、音楽プロデューサー紹介したげるよ。それとも、芸能プロダクションがいい?いやいや、ホント。だから、ねっ、教えてよ。この通り」
と、空いている手で拝むような仕草をする。何のことはない、無償奉仕が期待できないなら買収というわけだ。
しかし、藤臣にとってこの申し出は、怒りを煽るものでしかなかったようだ。
「放せよ!」
彼は顔を真っ赤にして二の腕を振り払い、怒鳴った。
「僕は友達を売るようなマネはしない!!あんたみたいなクズと一緒にしないでくれ!!」
そのとたん、場の雰囲気が一変した。
紅子は藤臣に絡んでいる男の背中に、殺気がみなぎるのを感じた。
これはまずい。
「何だと」
男の声が一段低くなり、威嚇の響きをはらむ。
「もういっぺん言ってみろ」
「何度でも言ってやる。あんたはクズだ!!」
相手の顔からそれまでの気持ちの悪い愛想笑いが消え、ドスのきいた声に変わった瞬間、藤臣も頭の片隅では、「しまった」とは思っていた。
だが、怒りの衝動は止まらない。
彼の口はほとんど自動的に相手を面罵し続けた。
「カネとかコネとか、そんなものでだれでも言うことをきくと思ったら大間違いだ、このゲス野郎っ」
「ガキが!」
男は藤臣の胸ぐらをつかんで締め上げた。
「こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって。そこまで言うなら喋りたくなるようにしてやろうか、ああ!?」
男は使い慣れない穏便な取材方法などやめて、いつものやり方に切り替えたらしい。
丸太のような腕が巨大な拳を振り上げるのを見て、藤臣はとっさに強く目をつむり、歯を食いしばった。
ところが。
いくら待っても、頬に衝撃が来ない。
代わりに、締め上げられていた胸元がゆるむ気配がして、彼は恐る恐る目を開けた。
すると、目の前の大男は拳を振り挙げた姿勢のまま白目をむいており――そのまま、くたくたと地面に寝てしまったのだった。
突然の展開にいったい何が起こったのかわけがわからず、藤臣は足下の巨漢をしばし呆然と見下ろしていた。
が、しばらくして我に返り、倒れた巨漢のそのむこう側にすくっと立つ細い足に気づいた。
「一色!?」
「先輩、こんちは」
驚いている彼に笑いかけると、紅子は言った。
「今のうちに、先生を呼びに行きません?」
校内で寝ている不審人物がいる、という藤臣と紅子の知らせを受け、現場に駆けつけてきた教師たちはその風体かんばしからざる巨漢を見るや、すみやかに警察を呼んだ。
ものの十分と経たない内にやってきた二人の制服姿の警官は、発見者である紅子たちから簡単な事情を聴いたあと、まだ意識が朦朧としているらしい自称ジャーナリストを引きずるようにして警察署へ連れて行った。
走り去るパトカーを見送った後、紅子たちも教師たちから帰宅をうながされ、彼らは肩を並べて帰ることとなった。
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