2023年8月3日木曜日

紅蓮の禁呪16話「作られた恐怖・一」

  今日の葬式のことを伝えるため、松居家に昨晩、電話を入れたときにも、紅子は春香の声を聞くことができなかった。

 電話口に出た彼女の母親によると、帰宅するなり「気分が悪い」と言って、部屋に閉じこもったままらしい。

 「松居」と書かれた表札の下の呼び鈴を押すと、家の奥のほうで返事が聞こえ、まもなく、春香の母親、咲子さきこが顔を出した。

 彼女は春香に歳を取らせて、少し太らせたような感じの女性だ。

 つまり、春香は母親似なのである。

「あら、紅子ちゃん、いらっしゃい」

 彼女は紅子を見ると、娘とそっくりの顔に親しげな笑みを浮かべた。

 ちょうど昼食の準備でもしていたのだろう、エプロンを着けている。

「こんにちは」

 紅子は会釈した。

「春香の具合、どうですか?」

「それがねぇ……相変わらずなのよ」

 咲子の表情がくもった。

「どこか痛いとか、熱があるってわけでもないから、病気ではないと思うんだけど。何を言っても『ほっといて』の一点張りで、誰にも会いたくないって」

「そうですか……」

「学校で、何かあったのかしらねぇ。紅子ちゃん、聞いてない?」

 紅子はそう言われて、昨日の部室でのことを思い出した。

 しかし、春香がそこにいたという確証はどこにもない。

 彼女の様子が何となくおかしくなったのは、それ以前のことだし、第一、バケツを蹴り散らかしたのは、野良猫か何かかもしれないのだ。

 どっちにしても、おばさんに話せることじゃないよなぁ。

 紅子は答えた。

「いえ、別に」

「そう……」

 咲子は一瞬、落胆した様子だったが、すぐに笑顔に戻ると、言った。

「ごめんなさいね、変なこと聞いちゃって」

 だが、無理に作られたその笑顔は、どことなく寂しげで、紅子は余計にいたたまれなくなり、

「それじゃ、春香に、お大事にって伝えて下さい」

と、いとまごいもそこそこに、友人の家を後にしたのだった。


 娘の友人の後ろ姿をしばし見送った後、咲子は家の中に入ると、二階に上がった。

 飾り文字で「HARUKA」と書かれた、可愛らしいドアプレートの下がっている部屋の扉を、二、三度、ノックする。

「春香……春香?」

 返事はない。

「紅子ちゃん、来てくれたわよ。本当に良かったの、会わなくて?」

「……いいの」

 扉の向こうから、低く、くぐもった声が聞こえてきた。

「あんな子……もう、友達でも何でもない……あんなウソつき」



 紅子が帰宅すると、家の中には竜介一人だけで、父親の姿はどこにもなかった。

「父さんは?」

 居間で新聞を読んでいた竜介は、そう尋ねられて紙面から顔を上げ、言った。

「おじさんならついさっき、用を思い出したって、出かけたよ」

「いつ帰るって?」

 彼は首をひねった。

「さぁて……聞いてないなぁ」

「ふ……ふぅん」

 紅子の不安そうな反応を見て、彼はくすりと笑う。

「俺と二人きりじゃ、落ち着かない?」

「ばっ……」

 図星を指された彼女の顔は、たちまち真っ赤になった。

「バカ言わないでよっっ!」

 そう叫ぶが早いか、どかどかと廊下を踏み鳴らしながら、自分の部屋へ向かう。

 その背中を、竜介の声が追いかけてきた。

「昼飯だけど、台所に用意してあるから、よかったらどうぞ」

 自室の扉を閉めると、紅子はイライラと制服を脱ぎ捨て、私服に着替えた。

 ああもう、しゃくに触るったら!

 何だってあいつといると、こんなに調子が狂うんだろう?

 手の内すべてを見透かされているみたい(実際、見透かされているんだろうけど)で、居心地が悪い。

 あの、いつも余裕だけは忘れないって感じの態度も、気にくわない。

 できれば、二人きりというシチュエーションは避けたい相手――だが、父親が出かけてしまったのでは、もはやどうしようもない。

 ばむっ、と、乱暴にクローゼットを閉じると、彼女はいやいやながら、階下へ降りた。

 空腹と……そして、竜介が一体どんな話をするのか、その好奇心には勝てなかったのだった。


 竜介が言ったとおり、台所のテーブルに用意されていた食事をそそくさとかき込んだあと、紅子は再び居間へ顔を出した。

 すると、

「話を始める前に、見てもらいたいものがあるんだ」

 竜介はそう言って、彼女を庭に連れだした。

 しかし、彼の足がどこへ向かっているか知ったとき、紅子の顔色がにわかに変わった。

「ちょっ……待ってよ、そっちは」

 彼女は、見えない壁にぶつかったように、立ち止まった。

 動悸が激しくなり、冷や汗が吹き出す。

「待ってったら!」

 ところが、竜介はその声がまるで聞こえていないかのように歩を進めると、庭の片隅かたすみに建つ、みすぼらしく古ぼけた土蔵の前でようやく足を止めたのだった。

 ジーンズのポケットから鍵を取り出し、入り口の錠前をはずす。

 紅子は凍り付いたように動かず、ただ、彼の動作の一部始終を見守っていた。

 何年も閉じられたままだったはずの引き戸。

 それはしかし、竜介がちょっと力を入れただけで難なく開き、深い闇が口をあけた。

 彼はゆっくりと紅子を振り返った。

「この奥なんだけど」

と、何でもないような口調で暗闇の中を指さす。

「どうかしたのかい?顔色が悪いぜ」

 日差しが暑いくらいの昼下がりなのに、紅子の全身には鳥肌が立ち、膝には震えが来ていた。


「あたし……行けない」


 紅子は、小さな子供がいやいやをするように、かぶりを振った。

「蔵には、近づいちゃいけない……いつ崩れるかわからないから」

「大丈夫だよ」

 竜介は彼女のそばまで引き返すと、断言した。

「別に、柱が腐ってるってわけでもないし。今すぐ倒れるなんてことはないさ」

「小さい頃から言われてるの!」

 紅子は強い口調で相手をさえぎった。

「中のものを壊したりするから、入っちゃダメだって!」

「でも、君はもう小さい子供じゃないだろ?中に入って暴れようってわけでもない」

「それは……そうだけど」

「それとも、」

 と彼は言った。

「中に入るのが怖い?」

 この一言は、またしても紅子の図星を突いていた。

 怖いもの知らずを自負する彼女の、唯一の屈辱。

 それがこの古ぼけた土蔵。

「……そうよ」

 紅子は、吐き捨てるように言った。

「怖いの。あの中に入るのが、怖いのっ!おかしいでしょ?笑っていいよ」

「別に、おかしくなんかないさ」

 竜介の口調は穏やかで、真面目だった。

「君のその恐怖が、作られたものだとわかってるから、なおさらね」

0 件のコメント:

コメントを投稿

紅蓮の禁呪144話「竜と龍・一」

   そのかすかな術圧を感じたとき、龍垓はわずかに頬を緩め、迦陵は眉を顰めた。  黒帝宮の前庭、迷宮庭園。  「庭園」とは名ばかりの廃墟である。  植栽に水を供給するために引かれた水路は虚ろにひび割れ、立ち枯れた植物たちの枝や根がはびこり、庭園を飾る列柱や彫像を痛めつけている。 ...