2023年8月1日火曜日

紅蓮の禁呪1話「序曲」

 人の一生のうち、その後の人生すべてを変えてしまう運命の日というものがあるとすれば、彼女にとっては、あの日がまさしくそうだったに違いない。


 それは、小学校に上がって最初の夏休みのことだった。

 午睡ひるねから目を覚ますと、家の中から人の気配が消えていた。

 彼女は、自分の守り役であり、早くになくなった母親の代わりでもある祖母を呼びつつ、彼女のいそうな場所をあちらこちらと見て回ったが、やはりどこにもいない。

 孫が寝入ったのを見計らって、少しのあいだのつもりで、つかいに出てしまったらしい。

 寝起きにひとりぼっち、という心細さに追い打ちをかけるように、突然、それまでうるさいくらい鳴いていた蝉セミが、一斉に鳴きやむ。

 そのとたん、家の中は水を打ったように静まり返り、少女は世界にたった一人で置き去りにされてしまったような寂しさに襲われた。

 泣き出しそうになるのをこらえるため、彼女は懸命に何か楽しいことを考えようと努めた。

 およそ子供の考える「楽しいこと」は、大人から見れば眉をひそめたくなるようなことが多いが、彼女が思いついたそれも、例外ではなかった。

 すなわち。

 危ないから近づいてはならない、と祖母から厳命されている場所へ、行ってみること。


 少女の家は、古ぼけてはいるが、東京近郊にしては広かった。

 どれくらいかといえば、庭の隅すみに、小さいながらも蔵があるほどだ。

 祖母から言い聞かされた話によれば、その蔵には死んだ祖父が大事にしていた品々が納められているらしい。

 中の物を壊したりしてはいけないからという理由で、今まで一度も中へ入ることはおろか、近づくことも許してもらえなかった。

 もっとも、近づくことが許されなかったのは、古くなった土壁が落ちて、怪我をするおそれがあるためだったようだが。

 とにもかくにも、幼い彼女にとっては、いわば家の中にある最後の秘境のような場所。

 「楽しいこと」とは、他でもない、その秘境探検に乗り出すことだった。


 鍵のありかは、祖母が出入りするのをこっそり見て憶えていた。

 果たして、鍵はその通りの場所にあった。

 蔵の入り口までやってくると、少女はドキドキしながら南京錠を外し、引き戸を開ける。

 錠前も戸も、普段から手入れされているようで、少しきしんだほかは、ほとんど音を立てなかった。

 そっと中を覗くと、そこは蝉の声がうるさくて蒸し暑い外界とは別世界のように、ひんやりと暗く、静かだ。

 蛍光灯は見あたらず、天窓から差し込む自然光だけが、地面のあちこちに頼りなげな明るい輪を作っている。

 意を決して中へ踏み込むと、つんと湿ったカビの匂い。

 左右には背の高い棚が並び、その棚の一段一段に、大小さまざまな形の木箱がきちんとおさまっていて、それがずっと奥まで続いている。

 木箱には一つずつ中身を示す文字が書かれていたが、いずれも達筆すぎる上に漢字も多く、小学1年生の彼女には読めるはずもなかった。

 開けてみたかったけれど、あいにく和紙の封印がかけてあって、破ればすぐに分かるようになっていた。

 ちぇっ、つまんないの。

 次第に退屈し始めた少女は蔵の最奥まで一通り見てしまうと、早々にきびすを返しにかかった。

 と、そのとき。

 誰かに呼ばれたような気がして、足が止まる。

「……だれ?」

 耳を澄ます。

 辺りを見回す。

 遠い蝉の声以外、何も聞こえない。

 誰もいない。

 それなのに、何かが――そう、誰か、ではなく、何かが、自分をしきりに呼んでいる。

 そんな気がする。

 彼女は、再び奥へ向かおうと一歩踏み出しかけて、ふと足元を見た。

 履いていたサンダルの立てる音が、不意に変わったからだ。よく見ると、なぜか地面が四角く掘られ、そこにベニヤ板がはめ込まれている。

 下は空洞らしく、歩くと明らかに足音が変わった。


 この下に、なにかある!


 少女は、下を見てみたいという、猛烈な好奇心に駆られた。

 もし、板のまわりに指を差し入れられるような溝みぞがなかったら、彼女は道具を探してでもその板を持ち上げようとしただろう。

 が、そうするまでもなく、薄いベニヤ板は、少女の力でも、難なく持ち上がった。

 それが彼女にとって幸いだったのか否かは別として。

 湿った土の匂いがむっと鼻をつき、彼女は顔をしかめた。

 中は真っ暗で、土を盛り上げて踏み固めただけの階段が、闇の奥へと消えている。

 ここだ。

 ここにいる。

 何がいるのか、それは彼女自身にも分からない。

 が、とにかく、「そこにいる何か」に会わなければ、という思いだけが、どんどん強くなっていく。

 それは今や、暗闇への恐怖さえも駆逐くちくしていた。

 行っちゃだめ。

 もう一人の自分が、頭の中でささやく。

 けれど、その声はあまりにも小さく、階段を下り始めた少女の足を止めることはできなかった。


 そして、そこには確かに、運命が待っていた。

 引き返す道のない、運命が。

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