2023年8月28日月曜日

紅蓮の禁呪133話「冬の始まり・十」


 紺野家の最寄り駅では、斎が黒のリムジンとともに待っていた。
 彼は二人の姿を認めると、さっと後部座席のドアを開けて、言った。

「玄蔵さま、お久しゅうございます。竜介さま、お帰りなさいませ」

 二人はそれぞれ、久しぶり、と、ただいま、と返し、出迎えの礼を述べて車中の人となった。
 斎が運転席に乗り込むと、玄蔵はすぐに、まずは紺野家の本邸に向かってほしい、と頼んだ。
「英梨さんに挨拶しておきたいんだ」
 と、彼は言った。
「そのあとは自分の足で山を抜けて寺まで行くから、斎さんの手は煩わせないよ」
 玄蔵の言葉に、ルームミラーの中の斎は、
「おそれいります」
 と、笑顔を返し、車をスタートさせる。
 それから、改まった調子でこう言った。

「玄蔵さま。紅子さまのことは、わたくしも滝口も、日々ご無事を祈っているところでございますが、奥様はそれ以上に、我がことのようにお心を傷めておいでです。ですから、その……」

「斎さん、おじさんもそれはわかってるさ」
 斎の言わんとするところがわかった竜介は、そう言って彼を遮り、玄蔵に視線を移すと、

「ああ、もちろん。非難するつもりなんかない」

 と、玄蔵はうなずいた。
「寝泊まりは父のところでするから、さほど面倒はかけないつもりだが、念のため顔を出しておきたいんだ……紅子が世話になった礼も言っておきたいし」
 そして、こう付け加えた。
 それに何より、英梨さんとは全くの初対面だから、とりあえず一度は会っておいたほうがいいだろうしね。

 しかしながら――

 玄蔵の気持ちとは別に、紺野邸で彼を出迎えた英梨は、今にも土下座をせんばかりの平身低頭ぶりだった。
 無理もない。
 紅子が行方不明になる原因の一端に、己の娘が関わってしまっているのだ。
 当主の貴泰から、できる限りのもてなしをするよう言われている、と、なんとかして客間で茶菓などだけでも受けてもらおうとする彼女だったが、

「ありがとうございます。しかし、本日は挨拶だけと思っておりましたので……」

 と、玄蔵は丁重に辞退した。
 それでも納得した様子のない英梨に、彼は少し苦笑して言った。

「英梨さんはご存知ないかもしれませんが、わたしは紺野の家を出るとき、こちらの本邸の方々には本当にいろいろと迷惑をかけました。
 でも、たとえそんな負い目がなかったとしても、わたしは誰も非難する気にはなれなかったでしょう……娘がこちらでお世話になったことや、竜介くんと鷹彦くんが身を挺して娘を守ろうとしてくれたことへの感謝もありますしね。
 ですから、これ以上の謝罪は、どうかご勘弁ください。
 娘は今、たしかに大変な危難に巻き込まれて、心配な状態ではありますが……誰かの落ち度を責めるより、これから我々はどうするべきかということに、わたしは集中したいのです」

 では、父が首を長くして待っておりますので、これで。
 と、一礼して――
 玄蔵は、紺野邸を辞したのだった。


 屋敷の玄関を出たあと、玄蔵は中庭に向かった。
 寺への近道をするためだ。
 勝手知ったる他家の庭を進んでいると、後ろから近づいてくる気配があった。

「ありがとうございました」

 背後から、竜介の声が言った。
「母の気持ちは、いくぶん軽くなったと思います」
「同じ親として、いたたまれなくてね」
 玄蔵は前を向いたまま言った。
「いい人だな。貴泰くんが惚れたのもわかる」
 竜介は返事をしなかった。
 二人が玉石を踏んで歩く音だけがしばらく続いたが、やがて、背後から再び声が聞こえた。

「……俺ももうこの年齢(とし)ですから、親父の気持ちも理解はできるんです。寂しかったんだろうな、とか」

 共感はできませんけどね、と竜介は言った。
 玄蔵は、歩きながら冬枯れの庭を眺めた。
 山道に入る木戸が、もう前方に見えている。

「故人がその末期に何を思っていたかは、本人にしかわからん」

 と、彼は言った。
「それを、我々があれこれと勝手に当て推量した挙げ句苦しむことを、彼らは望んでいるだろうか」
 そして、ややあってこう付け加えた。

「……きみももう、楽になっていいんじゃないか」

 竜介が返事をする前に、彼らはちょうど木戸の前にたどり着いた。
 玄蔵は立ち止まり、竜介を振り返ると、
「見送りはここまででいいよ。ありがとう」
 竜介はしばらく複雑な顔で玄蔵を見ていたが、やがてふと笑って言った。

「おじさん、住職に向いてますよ」

 玄蔵もニヤリと笑う。
「わたしも年を取ったのさ」
 そう言って、彼は竜介に手を振ると、木戸を出て行った。




 玄蔵は記憶をたどるようにして山道を歩いた。
 木立を抜ける風は乾燥して冷たく、冬の到来を感じさせるものの、東京よりも暖かいと彼は思う。
 やがて懐かしい山門が木々の間にちらちらと見えてきた。

 帰ってきたんだな――

 我知らず歩みが速くなる。
 気がつくともはや木立は途切れ、山門へ続く石段が目の前に現れた。
 見上げると、山門のそばに人影がある。

 二つの人影。

 それが泰蔵と鷹彦だとわかるのに、さほど時間はかからなかった。
 向こうも彼の姿を認めたらしく、こちらへ降りてくる。
 どちらからともなく手を振りあうと、彼らは石段の途中で合流した。
 鷹彦が一礼して自宅へ帰っていくのを見送って、玄蔵は年を取った父親と石段を登って行った。

 山門をくぐり、懐かしい生家へと。


***


 翌日。
 玄蔵は墓地にいた。
 泰蔵が住職を務める寺の境内にある霊園、その最奥に、紺野家代々の墓がある。
 そこに眠る彼の母の墓参に来たのだった。

 彼が婿入りした一色家が紺野家と絶縁して、十四年。

 母が亡くなって初めての墓参だった。

 昨日、泰蔵が待つ実家へ帰る道すがら立ち寄ってもよかったのだが、初めての墓参に手ぶらではさすがに親不孝がすぎると思い、昨日は実家の仏壇に手を合わせるだけにとどめておいた。
 今際の際に立ち会えなかったことを詫びながら花や線香を手向け、墓に手を合わせる。
 すぐには立ち去り難くて、今日は一人で来たけれど、次の月命日には父さんと二人で来るよ、などと心の中で話しかけつつ、そのまま墓前にたたずんでいた、そのとき。

 近づいてくる足音もなく、ただ忽然と、人の気配が彼の背後に現れた。

 カミソリのような、その鋭い気配を、彼はよく知っていた。

 彼は振り返り、背後に立つ蓬髪の老人に言った。

「お待ちしていましたよ。黄根さん」

2023年8月15日火曜日

紅蓮の禁呪第132話「冬の始まり・九」

  竜介は電話を終えると、コーヒーでも淹れようと部屋を出た。

 すると、廊下にはすでに芳香が漂っていて、台所ではコーヒーメーカーが、湯気の立つセピア色の液体を抽出しているところだった。

 食器棚からカップを取り出していた玄蔵は、気配に気づいて振り返り、言った。


「竜介くん。ちょうどよかった、お茶にしないかね」


 否やのあろうはずもない。

「ありがとうございます。いただきます」

 ダイニングテーブルには秋らしい栗の焼菓子が用意されている。

 彼らは淹れたてのコーヒーが入ったカップを手にテーブルを囲んだ。

「虎光くんには遠来のところ、ろくなもてなしもできなくて、悪いことをしたな」

 玄蔵が言うと、竜介は頭を振った。

「気にしないでください。あいつも急いでましたから」

「ならいいんだが」

 竜介は卓上の菓子を食べながら、

「これ……もしかして、この雨の中わざわざ?」

 と尋ねると、玄蔵は、いやいや、と苦笑しながら顔の前で片手を左右に振った。

「君が来ると黄根さんが言ったので、昨日のうちに買っておいたんだ」

 道理で――と、竜介は声に出さずにつぶやいた。


「……だから、昨晩電話したとき、何も訊かなかったんですね」


 玄蔵はうなずき、言った。

「正直に言うと、紅子にとって必要なことだったと言われても……今もまだ、どこか割り切れない気持ちだよ」

「さっき、黄根さんの話を伝えるために鷹彦と電話で話したら、あいつ言ってましたよ」

 竜介はコーヒーを一口すすり、言った。

「『紅子ちゃんが生きて戻ってこない限り、日可理さんのことも涼音のことも、一生許さない』、って」

 玄蔵は同意も否定もしない。

 ただ、腕を組み、考え深げに卓上に視線を落とした。


「……日可理さんも涼音ちゃんも、被害者だ。わたしは、責める気にはなれんよ」


「俺も、同感です。でも……」

 と、竜介は続けた。


「赦す気にもまだなれない」


「……すべてに白黒つくまではな」

 つらいところだな、と、玄蔵は頭を掻く。

「紅子ちゃんをいつどうやって助け出すか、あのご老体、具体的なことは何も言わずに消えちまいましたからね」

 竜介が言うと、玄蔵も同意のため息をついた。

「あまりもったいをつけないでほしいもんだ」

 玄蔵の意見にうなずきながら、竜介は自分の中の黄根に対する感情が複雑に変化するのを感じていた。

 相変わらずどこかいけ好かないクソジジイだと思う一方、結果として、玄蔵とこうして穏やかに茶を飲んでいられるのは、あの老人の言葉のおかげなのだとも思う。

 玄蔵は自分と竜介のカップがどちらも空っぽなのを確かめると、コーヒーサーバーを持って来て、新しいコーヒーで空いた二つのカップを満たした。


「実は、今さっき、久しぶりに父から電話があってね」


 空になったコーヒーサーバーを流し台に置いて戻ると、彼は言った。

「東京はこれから大変なことになると聞いたが、お前、どうするんだ、と訊かれたよ」

「鷹彦から聞いたんでしょう」

 思ったより早かったな、と竜介は少し驚きながら、

「なんて答えたんです?」

「『どうもこうも、困ってますよ』と正直に答えたさ。どこか行くあてがあるでなし。そしたら――」


「師匠から、うちに一度戻って来ないか、って言われたんですね?」


 竜介がニヤッと笑いながら先回りをすると、玄蔵は苦笑した。

「そんなわけで、ありがたく父の言葉に甘えることにしたよ」

 竜介は安堵の笑みを浮かべた。

「よかったです。俺も同じことを勧めようと思ってましたから」

「ありがとう」

 と、礼を口にしつつ、しかし、玄蔵はあまり気乗りしない様子で、


「十七年前の騒動で、本家のほうに色々迷惑をかけてしまったことを考えると、どんな顔をして帰ればいいのやら……気が重いけどね」


 と、つぶやいた。

 当時紺野家の当主だった竜介の祖父母は海外に転地療養中、実母の美弥子は亡くなっているので、騒動に直接関わって、今も紺野家にいるのは、使用人である斎と滝口の二人だけだ。

「斎さんも滝口さんもあれこれ言うような人じゃないし、おじさんが気になるなら、菓子折りの一つも持って挨拶に行っておけばいいでしょう」

 竜介の言葉に玄蔵は「そうだな」と頷き、


「君にも、つらい思いをさせてしまったな。すまない」


 竜介は頭を振った。

「美弥子さんのことは事故ですから……それに、師匠やおかみさんにも、よくしてもらったし」

 それを聞いて、玄蔵は少しホッとした顔になる。

「そうか。……ああ、そういえば、やっと母の墓参りができるんだなぁ」

 そう言って懐かしそうに微笑する玄蔵に、竜介も自然と気持ちがほぐれるのを感じた。



 この家の玄関をくぐったときは、謝罪を受けてもらえるだろうかと、そればかりで他のことを考える余裕などなかったが、今こうして玄蔵と二人、台所でくつろいでいると、改めて家のそこここに紅子の気配を意識してしまう。

 何ともいえず居心地が悪い、と竜介は思った。

 彼女が今にもひょっこり台所に入ってきそうで――しかし、そのたびに彼女はここにはいないのだと思い出しては、どこか物寂しく、虚ろな気持ちになる。


 玄蔵は娘を送り出してからずっと、こんな気持ちと向き合って来たのだろう――


 そう思うと、竜介はいたたまれない気分だった。


 *  * *


 その後、一色家が経営している道場などの都合もあり、玄蔵が紺野家に出発したのは、竜介が一色家に到着して三週間後のことだった。

 玄蔵は道場の長期閉鎖について、とりあえず「改修工事のため」と生徒に告知し、竜介も細々とした事務仕事などを手伝って、三週間はあっという間に過ぎた。

 出発の日は、初冬にしては息が白く凍える寒い日だった。

 ただ、空は快晴だ。

 日が昇ってすぐ、彼らは家中の戸締まりを確認して、家を出た。

 虎光とはあいにく予定が合わず、二人は鉄路で紺野家へ向かうことになったが、大きい荷物は予め宅配便で送ってあるため、旅装は軽い。

「すまんな、竜介くん。仕事を手伝ってもらった上に、君まで電車移動になってしまって」

 玄蔵が詫びると、竜介は笑って言った。

「気にしないでください。俺、電車のほうが旅って気がして好きなんで」



 玄関の鍵を締め、門扉を外から閉ざしたところで、玄蔵は塀の向こうにたたずむ我が家をしばし感慨深げに眺めた。

 竜介がそんな従兄伯父を急かすこともなく、彼の気が済むのを待っていた、そのとき。

 雲のない空から、白いものがふわりと落ちてきた。

 雪である。

「降り出したな」

「そうですね」

 彼らは言葉少なにそう言い交わすと、どちらからともなく歩き出した。


 一色家の今の姿は、おそらくこれが見納めになるだろう。


 そんな予感を胸にいだきながら。

紅蓮の禁呪第131話「冬の始まり・八」

  黄根家の老翁は、虎光に向かって言った。

「お前の親父は政界に友人がいるだろう。わたしも秘書時代の知り合いに声をかけているが、お前からも親父に言っておけ。この国の中心を西に移せとな」

 続けて彼が口にした言葉に、その場の誰もが耳を疑った。


 まもなく、東京は雪に埋まり、人はほぼ住めなくなる――


 老人は、そう予言した。

「では、その前に、紅子を救い出すのですね?」

 玄蔵が身を乗り出すようにして尋ねると、朋徳は頭を振った。


「我々は待たねばならぬ」


 老人は何かの発作をこらえているかのように、眉間に深いしわを刻み、言った。

「また会おう……近いうちに、必要なときに」

 そんな言葉だけを残して。

 朋徳は、幻のようにかき消えたのだった。



 虎光はこの日、瞬間移動能力というものを生まれて初めて目の当たりにしたわけだが、さすがに異能を持つ親族を持っているおかげで、こういった現象にはそれなりに免疫があり、驚きのあまり大声を上げたりすることはなかった。

 それでも、黄根翁が消えてしばらくの間は、老人が座っていた辺りを凝視したまま固まってしまう程度には驚愕していて、我に返ったとき、彼は自失していたことをごまかすために咳払いを一つしてから、玄蔵に暇乞いをした。

 竜介も、予約を入れているビジネスホテルまで虎光に送ってもらうつもりだったので一緒に席を立った。

 すると、玄蔵が彼らに、今夜の宿は決まっているのかと尋ね、こう言った。


「よかったら、久しぶりにうちに泊まって行かんかね」


 虎光はこのあと、貴泰に今回の事の次第を報告しに行かねばならず、そのまま父親の家に泊まる予定だが、竜介には特に予定はないし、ホテルはキャンセルを入れれば済む。

 玄蔵にしてみれば、娘について聞きたいことや話したいことが山積しているのだろう。

 そう思い、竜介は彼の申し出を受けることにした。



 休むのは、竜介がこの家に寝泊まりしていたときに使っていたのと同じ部屋だ。

 使ったといってもほんの短期間だったから、私物など置いていたわけでもないのだが、部屋に入った瞬間、なんだか妙に懐かしい気持ちになった。

 スーツを脱いで部屋着に着替え、人心地ついたところで携帯を見ると、鷹彦からのメールが二通届いていた。

 一通目の着信時刻は今朝の十時ごろで、


「結界石の呪符を剥がして回るのに、足場が悪くて二時間くらいかかった。終わって家に戻ったら、日可理さんの意識が戻っていた」


 という内容。

 二通目はつい三十分ほど前の着信。


「志乃武くんが来て、無事に日可理さんの引き渡しが完了。二人は今日は近くのホテルで一泊し、日可理さんの体調を見て明朝帰京予定とのこと」


 竜介はほっと安堵の息をついた。

 これでとりあえず、気がかりが二つ片付いたわけだ。

 鷹彦へのねぎらいとこちらからの報告をするため、竜介は直接電話をすることにした。

 電話に出た鷹彦は、黒珠の者たちの企みと、それゆえに紅子が生かされているということを竜介が伝えると、さしたる感慨もなさげに――いや、むしろやや腹立たしげにこう言った。


「知ってるよ」


 同じ話を日可理さんから聞いた、と彼は続けた。

 日可理は迦陵から聞いたらしい。

「日可理さんが?」

 竜介は驚いて言った。


「じゃあ、彼女は黒珠に支配されていた間の記憶があるのか?」


「ところどころ曖昧だけどね」

 目が醒めて意識がはっきりしてくると、自分は取り返しのつかないことをしてしまった、皆さんにどうお詫びすればいいのかわからない、そう言って彼女は泣き出したのだと鷹彦は言った。

「可哀想だとは思ったけど、だから何だとも思ったよ」

 彼は吐き捨てるように続けた。

「紅子ちゃんが”今”生きてるから何だってんだ?助け出しに行けないなら、そんな情報意味ねえだろ。俺は……」


 俺は、彼女が生きて戻って来ない限り、日可理さんのことも、涼音のことも、一生許さねえ。


 いつも陽気で、どちらかというと軽薄ともいえる末弟の重く激しい言葉。

 それにも竜介は驚いたが、


「……わかるよ」


 自分の口から、我知らずそんな共感の言葉がするりと出たことに、さらに驚いた。

 ずっと感じていた、喉の奥に刺さった小骨のような不快感の正体に今更のように気付かされる。

「だけど、」

 と、彼は続けた。

「黄根さんが言うには、すべてを終わらせて、紅子ちゃんの命も助けるには、これしか道がなかったんだそうだ」


「俺は納得できないね」


 鷹彦は憤然とした口調のままだった。

「雲の中にあるっていう黒珠の棲家まで、どうやって助けに行くんだよ?あの爺さん一人でか?」

「雲の中?」

 竜介がおうむ返しに聞き返すと、鷹彦はこう答えた。


「やつらの城は、浮いてるんだとさ。空中に」



 鷹彦との通話を終えるとすぐ、竜介は志乃武に電話をかけた。

 ひょっとするとまだ運転中かもしれないと思ったが、まもなく呼び出し音が途切れて志乃武の声が聞こえた。


「竜介さん……」


 その声はひどく憔悴して、同情せずにいられないほどだった。

「申し訳ありません、こちらからお電話すべきなのに」

「いや、それは気にしないでくれ」

 竜介は言った。

「今、一色家にいるんだけど、手に入った情報を共有しておきたいと思っただけだから」

 そうして彼が黄根の言葉を伝えると、志乃武は言った。

「すみません、日可理にも伝えたいので、少し待ってもらえますか」

 電話から彼の声が遠のく。

 ややあって、

「竜介様」

 不意に日可理の声に代わった。

「日可理さん?」

 竜介は少し驚きながら尋ねた。

「体調はもう大丈夫なのか?」

「はい、お気遣いありがとうございます。こうしてしばらくお話しができる程度には回復しておりますので……」

 しかしそう答える彼女の声はか細く、体調がまだ万全ではないことがうかがえたが、彼女は気丈に続けた。

「本当は、こちらから出向いて直接お詫び申し上げなければならないことは重々承知しております。でも、この機会を借りてまずは一言だけでもと思い、志乃武に代わってもらいました」

 そう言って、彼女は丁寧に詫びの言葉を口にした。

 日可理の声と言葉とは、たしかに竜介の耳を打ったけれど、それは今の彼には、自分の心の奥底にわだかまりがあることを意識させるだけで終わってしまった。

「……ひとまず、日可理さんが元の日可理さんに戻ってよかったと俺は思ってるよ」

 日可理からの謝罪が終わり、しばしの重い沈黙のあと、竜介は慎重に言葉を選びながら話し始めた。

「黄根さんが言ったことを信じるなら、今のこの状況は、すべてをうまく終わらせるために必要なことだったんだろう。そして、俺はそう信じたいし、君や志乃武くんとはこの先も良い友人でいたいと思ってる」

 でも、と彼は続けた。

「率直に言って、今回の件について俺の中ではまだ気持ちの整理がついていない。だから、日可理さんからのお詫びは確かに受け取ったけれど……心から受け入れるかどうかは、今日のところは保留にさせてほしいんだ」

 申し訳ない。

 そう付け加えると、ややあって、日可理から、


「……いいえ。もったいないお言葉です」


 と、変わらず気丈な答えが返ってきた。

「ところで、」

 と、竜介は話題を代えた。

「鷹彦から聞いたよ。黒珠に操られていた間の記憶があるんだって?」

 はい、と日可理は言葉少なに肯定する。

「黒珠の城に行ったときのことを、教えてくれないか」

 すると彼女はしばらく押し黙ったあと、

「……申し訳ございません、少々お待ち下さいませ」

 と、再び会話が途切れた。

 やがて、電話口に戻ってきたのは志乃武だった。

「竜介さん、すみません。日可理の体力が限界に来たようですので、ここからは僕が姉の言葉を伝えます」

 彼が言うには、日可理は黒珠の城について話すことに何ら異存はない、ただ、かなり長い話になるし電話では説明もしづらいので、自分の体力が回復した頃合いを見て、直接会って話させてほしい、とのことだった。

2023年8月14日月曜日

紅蓮の禁呪第130話「冬の始まり・七」

  玄蔵にこれから訪問する旨の電話を一本入れて、彼らはレストランを後にした。

 電話に出た玄蔵は、昨晩と変わらず淡々としていて、それが竜介にはやはり引っかかった。

「俺は何年も前に会ったきりだけど、玄蔵おじさんってわりとわかりやすいタイプの人じゃなかったっけ?」

 虎光が一色家へ向かう車中で尋ねるので、竜介はうなずいた。

「今はまあ、若い頃ほどじゃないけど」

 虎光は少し考えながら「ふうん」と相槌を打ったあと、

「じゃあ、やっぱりよほど覚悟を決めてるのか……」

「どうだろう」

 と、竜介は言った。


「俺には、何か隠してるように思えるんだがな」


 玄蔵の態度の意味を測りかねたまま、二人は一色邸に到着した。

 車を降りると、雨のせいだろうか、昼間だというのに気温が下がってきているようで、吐く息がかすかに白く、竜介は身震いを一つした。

 門をくぐると、インタフォンを鳴らすまでもなく、家主は玄関前の敷石の上に立って待っていた。

 道場に出るときのような作務衣やジャージではなく、改まった紬の着物に羽織姿である。

 竜介が紅子の護衛のため十四年ぶりにここを訪れたときと同じで、彼は奇妙な懐かしさを覚えた。


「やあ、虎光くんも来てくれたのか」


 玄蔵は穏やかな――彼らの訪問理由を考えると、穏やかすぎる――笑みとともに言った。

「遠いところをすまないね」

「いえ、こちらこそお時間いただいてすみません」

「ご無沙汰しています」

 と、竜介と虎光が挨拶するのもそこそこに、

「まあ上がりなさい」

 玄蔵は引き戸を開けると二人を玄関の中に招き入れた。

 竜介は困惑した。

 彼は土間に額をつけて許しを乞うつもりだったのだが、成人男性――うち一人は壁のような巨躯――が三人同時に立つと、もはや正座するような余地はない。

 仕方なく竜介は立ったまま頭だけでも下げようと、


「この度は、何と言ってお詫びをしたらいいのか……」


 と、言いかけた。

 だが、


「謝らなくていい」


 玄蔵は竜介を静かに遮った。

 そうして廊下に上がると、先に立って歩き出した。


「ついて来なさい」


 頭の中で描いていた段取りとはまったく違うが、相手の厚情を固辞するのも無礼だ。

 竜介は虎光と目顔でうなずき合うと、靴を脱いで玄蔵のあとに続いた。

 玄蔵は竜介がよく見慣れた仏間兼客間のふすまを開け、中に入るよう、二人を促す。

 そこには、先客がいた。

 黒の綿入り作務衣を着た、蓬髪の老人。


「黄根さん……!?」


 竜介が思わず声を上げると、床柱を背にあぐらをかいていた老翁がこちらを見た。


「来たか」


「どうして……ここに」

 虚を突かれた竜介が我知らずつぶやいた疑問に、彼はふん、と鼻を鳴らし、

「愚問だの」

 と、言った。


「すべてを見ていたからに決まっておる」


「じゃあ、紅子ちゃんが……さらわれたときも?」


「答えるまでもない」

 朋徳のその言葉が終わらないうちに、竜介は老人につかみかかっていた。

 彼の唐突な行動に、そばにいた玄蔵と虎光が驚き叫ぶ声が響く。

「竜介くん!」

「兄貴!?」

 しかし、竜介の手は次の瞬間、老人の胸ぐらの代わりに空をつかんでいた。

 朋徳は三十センチばかり向こうへ移動したほかは相変わらず悠然と座ったままだ。


「知ってただと!?」


 瞬間移動を使って自分を躱した相手をうらめしく睨みながら、竜介は怒鳴った。

「だったらあのとき、なぜ彼女を助けに入ってくれなかったんだ!?」

 その激昂に対し、朋徳は驚くほど静かに応じた。


「あの娘に、五つの魂縒が必要だからだ」


 厳かな声だった。

「すべてを終わらせ、なおかつあの娘の命を救うには、それしか道がなかったからだ」

 沈黙が降りた。

 それを最初に破ったのは、竜介だった。

「それじゃあ、彼女は……本当に、生きて……?」

 朋徳の頭が、縦に動いた。


「生きておる」


 その瞬間。

 不意に、竜介の視界に映る朋徳の姿がゆがんだ。

 虎光は、ぱたり、と何かが落ちる音を聞いた。

 外の雨音にも似た、水滴の音。

 見ると、兄の足元の畳に小さなシミが一つできている。

 竜介が差し出した手のひらに、一つ、また一つ。

 自分の頬を伝い落ちるしずくを、彼は驚き見つめた。


 涙――


 彼の心は、死んだも同然だった。

 紅子を失ったと思った、そのときからずっと。

 鷹彦と同じように泣きたかったのに、視界がわずかに滲んだだけで、声を上げて泣くことはできなかった。

 深すぎる絶望が、すべての感情を麻痺させてしまったのだろうか?

 自分はもはや心の底から何かを感じることなどなくなってしまうのだろうか?

 それもいい、と一度は思った。

 心躍る喜びがない代わりに、胸を掻きむしるような悲痛に暮れることもない。

 この世界がこのまま終わってしまうなら、なおさら。

 けれど――

 取り戻せるものなら取り戻したい、という思いもまた、心の片隅にあった。

 もしも、奇跡というものが起きて、紅子が生きていたなら――


 そして、奇跡は起きた。


 失われていた感情は蘇り、灰色だった世界は、色を取り戻した。

 あふれる感情にこらえきれずその場に座り込む竜介の背に、二つの温かな手のひらが触れた。

 虎光と、玄蔵だ。


「おじさん……申し訳ありません」


 竜介は嗚咽をこらえながら言った。

「これじゃ、立場が逆ですよね……」


「いいんだ」


 そう言ってうなずく玄蔵の目にも、光るものがあった。

「こちらこそ、すまん。電話で伝えたかったんだが……」

 言いながら、自分の義父にちらりと視線を投げると、

「その小僧には、己と向き合う時間が必要だった」

 また小僧呼ばわりをされたが、もう腹は立たなかった。

「はい……」

 竜介は素直にうなずいた。

「ありがとうございます」

 朋徳は皮肉に鼻を鳴らす。

「礼を言うのはまだ早い。本当の苦難は、これからだ」

 続けて、老人は警告した。


 今すぐ東京を離れろ、と。

紅蓮の禁呪第129話「冬の始まり・六」

  「身内に気をつけろ」という情報だけでも共有してくれていれば……と、虎光は思わないでもなかったが、口にはしないでおいた。

 たとえその情報を竜介から聞いていたとしても、魂縒を受けず御珠の気配を持たない、何も知らない涼音に黒珠が間接的にせよ接触してくるとは、おそらく思いもよらないだろう。

 いちからすべてやり直したとしても、今回と同じ結末を迎えるだろうことは想像に難くない。


 思いもよらない――そう、今回の出来事は「思いもよらない」ことの連続だった。


 日可理が黒珠に操られていたこと。

 その日可理によって涼音が利用されたこと。

 紅子が「連れ去られた」こと――

 すべてが俺たちの想定を外れていた、とハンドルを握りながら虎光はぼんやり考える。


 やつらが一枚上手だったということだろうか?


 走行車線を走る彼らの車を、右手から大きなトレーラーが追い越していく。

 その風圧で、彼らの車の窓が微震し、虎光は意識を運転に戻した。

 ルームミラーを確かめると、後続の派手なスポーツカーに乗った若いカップルが楽しそうに笑っていた。

 窓の外を流れる世界は何も変わらない。

 助手席に座る兄の横顔だけが、今まで見たこともないほど生気を失って青白い。

 おそらく、彼の中ではこの世のすべてがすでに崩れ始めているのだろう。

 それでも兄がわざわざ東京へ向かうのは、警告を軽んじたことへの報いを受けに行くつもりなのか、と虎光は推測した。

 報いと赦しはコインの裏と表のようなものだ。

 だが、虎光の目には、兄はすでに充分な報いを受けているように見えた。


 愛する人を失い、明日をも知れぬ世界を生きるという報いを。


 後続のスポーツカーは、走行車線で法定速度を律儀に守り続ける虎光の車にしびれを切らしたらしく、右手の車線に出て彼らを追い越すと、あっという間に雨の向こうへ消えて行った。


 この車だって、パワーじゃ負けないんだが――


 虎光はそんなことを思って苦笑する。

 と、その瞬間。

 頭の片隅に引っかかっていた小さな疑問が、ほどけて落ちた。

 眼の前が明るくなり、今脳裏をよぎった何気ない独り言が、今回の一件の全体像をあらわにしたのだ。

 自分は魂縒を受けてはいないが、師匠や兄弟から、五つの御珠の因縁について聞いている。

 その知識と、この直感が正しければ。

 いや、絶対に正しい。

「兄貴」

 慰めでも気休めでもなく、虎光は竜介に言った。


「紅子ちゃんは、生きてるかもしれない」


 竜介は最初、虎光の言葉の意味を測りかねた。

「そんなわけないだろう」

 紅子は黒珠にとって排除すべき致命的な存在だ。

 彼女の命についてはとうに絶望している彼にとって、虎光の言葉はただ空しいだけだった。

 魂縒を受けていない身で何がわかるのか、という苦々しい苛立ちを覚えながら、竜介は言った。

「彼女を生かしておいて、やつらに何のメリットがある?」


「メリットならある」


 虎光はフロントガラスに叩きつける雨の向こうを見据えたままで言った。


「黒珠は紅子ちゃんを使って、封禁の術を俺らに仕掛けるつもりなんじゃないのか?」


 それは竜介を絶句させると同時に、昨夜のできごとを否応なしに思い返させた。

 絶望と悲嘆で濁っていた竜介の脳裏が、にわかにくっきりと澄んでいく。

 龍垓の動きには、確かに訝しいところがあった。

 あの場で彼女の息の根を止められたはずなのに、なぜわざわざ連れ去るという回りくどいことをしたのか。

 迦陵も、それをとがめるどころか、協力していた節がある。

 彼らの間で、紅子を連れ去ることについて同意が成り立っていた――?

 紅子はすでに三つの御珠から魂縒を受けている。

 あと一つ、御珠から魂縒を受ければ、彼女は禁術を立ち上げることができる。

 そしてそれは、黄珠である必要はないのだ。


「ありがとう、虎光」


 竜介はハンドルを握る弟の横顔に言った。

「お前は最高の弟だよ」

 虎光は横目で兄を一瞥すると、にやりと笑う。

「今頃わかったか」

 竜介は思わず頬が緩むのを感じた。

 もう二度と心から笑うことなどないだろうと思っていたのに。

 窓の外は相変わらずの雨で、灰色に煙っている。

 だが、この空の下のどこかで、紅子がまだ「生きている」。

 ただそれだけで、今、その灰色がほんの少し、明るさを帯びたように見えた。



 昼前に東京入りした彼らは、雨で渋滞する首都高を降りると、駐車場の広いチェーンレストランを見つけて昼食を取ることにした。

 大雨のせいか、店内は空いていて、二人はすぐに窓際の四人がけテーブルに通された。

「腹が減って死にそうだ……」

 オーダーを終えた後、座席にぐんにゃりと背中をあずけてそうつぶやく兄に、虎光が尋ねた。

「朝飯は?」

「食ってねーよ。食欲なんかあるわけねーだろ」

「だよな。家を出るときも死にそうな顔してたもんな」

 虎光は苦笑しながらそう言うと、今の兄がずっとましな顔色になっていることを密かに喜んだ。

 今、紅子は黒珠の手中にあり、取り戻すすべも、そもそも居場所さえわからない。

 ただ、彼女がおそらく生きている――そのことだけが、竜介を支えているのだ。

 あとは、この希望がぬか喜びに終わらないことを祈るばかりだが――

「それで?どうやって探し出す?」

 誰を、という目的語を省略して虎光が尋ねると、


「居場所なら、たぶんわかる」


 運ばれてきた料理に早速箸をつけながら、竜介はこともなげに答えた。

 まさか、という顔をする虎光に、彼は続ける。

「正確に言うと、彼女の、というか黒珠の居場所を知ってそうな人を知ってる、ってことだけど」

「それって……」

 ピンと来たらしい虎光に皆まで言わせず、


「そう、黄根のじいさまさ」


「黄根家は……四国だったっけ。そういえば、本当なら今日行くはずだったんだよな」

 竜介はうなずき、苦笑した。

「ああ。神出鬼没の御仁だから、そこにいるとは限らないけど。一色家の用事が済んだら、チケット取り直して飛んでみるつもりだ」

「じゃあ、空港まで送るよ」

 そう言って、卓上の皿があらかた空っぽになっていることに気づくと、虎光は片手を上げてウェイターを呼び、食後のコーヒーを頼んだ。

 ウェイターが下がるのを待って、竜介が言った。

「それは助かるけど、いいのか?このあと親父さんと約束してるんだろ?」

「連絡入れとくよ。それに、あの人とはどうせ今夜別宅で顔を合わせるから、報告もそのときゆっくりするさ……あ、それと」

 思い出した様子で、虎光はこう付け加えた。

「一色家には、親父さんの代理ってことで俺も一緒に詫びを入れに行くからな。兄貴一人行かせて、俺だけ車の中でのほほんと待ってるわけにもいかんだろ?それに、二人のほうが少しでも礼儀を尽くした印象になるし、玄蔵おじさんの気持ちも和らぐかもしれないし」

「悪いな」

 竜介は申し訳なく思って言った。

「お前にまで、頭を下げさせて」

「よせやい。水くさいぜ」

 虎光は何かを払い除けるように片手をひらひらと振る。

「それより、そんなに急いで四国まで出張って会える確証はあるのか?うちのほうで黄根さんの行方を調べてからのほうがよくね?」

 竜介は「うーん」としばし考え、

「お前の言う通り空足を踏むことになったら、そのときは黄根さんの捜索を頼むよ」

 だけど、と彼は続けた。


「なんせ千里眼の持ち主だから、もしかしたら今もう手ぐすね引いて俺のこと待ってるかもしれないぜ……」


 そして、その言葉は奇しくも予言となった。

紅蓮の禁呪第128話「冬の始まり・五」

  荒れ狂う炎に焼かれても、独房には何の変化もなかった。

 炎が消えると、龍垓の姿も消えていた。

 壁も天井も、まるで何事もなかったかのようにしんと冷たく静まりかえり、一筋の煙も、何かが焼けた匂いさえ、残らなかった。

 紅子に唯一残ったものといえば、力を爆発させた反動だけだ。

 床に転がったまま、もはや指先一つ動かすことさえままならない。

 室内を炎で満たしたのに、呼吸が苦しくならないということは、どこかから酸素が供給されているのだろう。

 けど、むしろ酸欠で死んだほうがよかった、と頭の片隅で思う。

 死ねば、黒珠の者たちの思い通りにならずに済む。

 この手で竜介たちに封禁の術をかけるなんて、絶対にしたくない。

 天井の青白い幾何学模様が、目を閉じてもまぶたの裏でぐるぐると回り、意識を保つことが難しくなっていく。


 悔しい。


 みんな、あたしが死んだと思ってるかな。

 まだ生きてるのに。ここにいるのに。

 誰か、と叫びたかった。

 けれど、もうささやくような声にしかならない。

 誰か、助けて――

 そのとき、彼女の唇からもれた名前は、一つ。


「竜……介……」


 それはほぼ無意識だった。

 目尻から涙がこぼれた。

 胸が苦しい。

 こんなときに――こんなところで、ようやく思い知ったなんて。

 彼が、夢の中の彼と別人かどうかなんて、どうでもいい。

 彼が誰を好きでも、もうかまわない。


 ただ、あたしは、竜介のことが――


 二人の思いがようやく重なった。

 でも、もう遅い。

 全部、何もかも。


 もう、遅すぎる。たぶん、きっと――


 * * *


 竜介は、名前を呼ばれた気がして、ハッと目を覚ました。


「今、呼んだか?」


 隣でハンドルを握っている虎光に尋ねた。

 彼も竜介も、珍しくスーツ姿でネクタイを締めている。


「いいや」


 虎光は前を向いたまま、そっけなく答えた。

「夢でも見たんじゃね」

 竜介は、そうかもな、と口の中でつぶやくと、フロントガラス越しに外を見た。

 雨粒と闘うワイパーの動きがせわしない。

 昨夜から降り出した雨は、今や勢いを増し、土砂降りになっていた。

  両サイドの車窓が白く曇り、前方の景色しか見えないせいか、身体ではあまり加速を感じない。が、高速道路の案内表示は飛ぶように通り過ぎていく。

 そのうちの一つが、竜介に今自分たちがどの辺りにいるのかを教えてくれた。


「悪い。俺、ずいぶん寝てたんだな。次のサービスエリアで代わるよ」


「うん……いや、いいや」

 虎光はやや歯切れ悪く兄の申し出を拒んだ。

「俺のほうが慣れてるし。兄貴は無理しないで、寝てていいよ」


 腫れ物扱いされている。


 とは思うが、虎光のほうが紺野家と東京の間を何度も車で往来しているのは事実だ。

 自分が精神的に参っているらしいということも、幾分、自覚があった竜介は、弟に礼を言って再びシートに深く身を預けた。

 彼らが今乗っている車は、いつもの虎光の四駆だ。

 紅子を泰蔵のところに送るために使ってそのままになっていたのを、今朝、竜介が運転して紺野邸に戻したのである。

 昨夜、涼音を迎えに行ったとき、虎光は英莉が所有しているセダンを借りており、今朝の東京行きにも使ってくれてかまわない、と英莉から快諾を得ていたのだが、竜介が身支度を整えるために一旦自宅へ戻る必要があったため、虎光もどうせなら慣れた愛車がいい、ということでこの車での道行となったのだった。



 走り出して最初の一時間あまりは、竜介から昨夜のことを報告したり、虎光から涼音のその後の様子や、東京に着いてからの予定などを聞いたりしたところまでは憶えているのだが、そこから先が思い出せないということは、いつの間にか眠ってしまっていたのだろう、と竜介は思った。

 きっと、昨夜の眠りが浅かったせいだろう。

 目を閉じると、黒珠の王・龍垓や迦陵との生々しい命のやり取りや、小さな異形の魚を日可理に飲まされそうになったときの、喉元を通っていくおぞましい感触などが思い出されて、眠りに落ちては得体のしれない悪夢で目を覚ます、ということを明け方まで繰り返していた。

 それが今、雨音とタイヤが水を引きずる音で騒々しい車内で眠れるということは、騒音には、思い出したくないのに反芻してしまう記憶から、意識を逸らす効果があるのかもしれない。


 あるいは、すぐ隣に起きて活動している人間がいるという安心感だろうか――


 竜介は目を閉じて、徒然にそんな分析をしてみたりしながら、再び眠りが訪れるのを待ってみた。

 が、なぜか意識は冴える一方で、出発直前に紺野家の玄関先で待ち構えていた英莉に、深々と謝罪されたことが不意に脳裏に浮かび、苦い気分で目を開ける。


「昨夜のことでも思い出したのか?」


 虎光が横目でこちらをうかがいながら尋ねた。

「いや、今朝の」

 竜介が言いかけると、虎光は察した様子で、「ああ……」と前を向いたままうなずく。


「苦労するよな、あの人も。ま、こんな奇態な家の後添いに入るんだから、多少は覚悟してただろうけど」



 目を赤く泣き腫らした英莉に、竜介は顔を上げてくれ、と頼んだ。

「涼音を甘やかしすぎた俺も同罪だし、あの子も十分怖い思いをしたのを知ってる。だから、涼音のことを責めるつもりはない。もちろん、母さんのことも。むしろ、この本宅に累が及ばなくてよかったと俺は思ってるんだ」

 英莉は口を押さえて、こみ上げる嗚咽を飲み込みながら、頭を振った。


「ありがとう。でも、それだけじゃないの。連れ去られた紅子さんが気がかりで、私にできることがなさすぎるのが悔しいの」


 腫れた目から涙がこぼれる。

 その後は、英莉が一緒に一色家に謝罪に行くと言いだしたため、虎光と二人でどうにか思いとどまらせようと説得した。

 そのうち、出勤してきた滝口と斎が

「奥様まで東京に行ってしまったら、誰がこの家を差配するんですか」

 と口をそろえたおかげで、英莉もどうにか思いとどまり、竜介たちは出発することができたのだった。



「あの場では兄貴の対応が最善、てか、正直、優しすぎるくらいだと思ったよ」

 と、虎光が言った。

「あれってどこまで本心だったんだ?」


「本心って?」


 竜介がおうむ返しに尋ねると、虎光は、

「だって、兄貴は……」

 と言いかけて口ごもり、「いや、忘れてくれ」と会話を打ち切った。

 車内に沈黙が降りる。

 車の屋根を叩く雨音、ワイパーの規則正しい動作音、アスファルトを覆う水をタイヤが引きずる音。

 フロントガラスの向こうでは、雨にけぶる高速道路の単調な景色が、遠い一点からこちらへ、そして背後へ、あっという間に飛び退っていく。

 沈黙を破ったのは、竜介だった。

「うちに黄根さんが来たとき、言われたんだ」


 身内に気をつけることだ。


 己からは逃れられぬぞ。


「俺は、どっちの警告もまともに聞かなかった。そんな俺に、誰かを責める資格なんかない」


 どちらか一つでも聞いていたら、こんな最悪な局面にならずに済んだかもしれない。

 身内を疑うことはできなかったとしても、せめて、小賢しい理由をつけて己の心に従うことから逃げさえしなければ――

 けれど、自分で自分の心にはめた枷を外せなかった。

 外そうとさえ思わなかった。


 今日と同じ日が、明日も続くなどと、なぜ無邪気に信じることができたのだろう。

 失うことの痛みを、なぜもっと恐れなかったのだろう。


 己の中の一欠片にすぎないと思っていた、ほんの小さなピース。

 なのに、それがなくなったとたん、心がぼろぼろと崩れ落ちていく。

紅蓮の禁呪第127話「冬の始まり・四」

 「僕が今、東京の別宅に来ている理由は、竜介さんがお察しの通りです」

 志乃武は話し始めた。


「日可理が行方をくらませた昨日の朝からずっと、僕は彼女の気配を昼顔と夜顔に追わせていました。すると――竜介さんに連絡を入れたあとのことになりますが――深夜になってようやく、東京の別宅に出入りしていることがわかったんです。

 それで今朝、本宅からこちらへ来た……というのが、僕が今ここにいる経緯になります」


 彼が他の三人の反応を伺うように言葉を切ると、竜介が言った。

「で……別宅に日可理さんはいなかったんだね」

 志乃武はうなずく。

「ええ、僕が到着したときにはもぬけの殻でした。日可理の気配も再びつかめなくなってしまい、途方に暮れていたところへ、鷹彦さんから電話をもらって、それで……日可理が見つかった、と聞いたんです」

 そして、その状況は彼が予期していたよりもはるかに最悪だった。


 紺野家の結界が破られて、紅子が黒珠に連れ去られた。


 日可理は見つかったが、意識を失っているので紺野家で保護している。


 志乃武が鷹彦から電話で得た情報はこの二点。

 もっと詳しい状況を知りたかったが、電話でのやり取りでは埒が明かないし、日可理の容態も知りたかったので、物理的な距離の制約を受けない式鬼たちをとりあえず「飛ばした」のだと彼は言った。

「電話を受けた当初、日可理は紅子さんを守るために黒珠と闘って意識を失ったのかと……そうであってほしいと思っていました」

 志乃武はしばらく押し黙った後、再び思い切ったように言った。


「……今回の一件と、日可理は無関係ではないんですよね?」


 泰蔵は竜介と一瞬目を見合わせてから、迦陵に斬られてズタズタになった作務衣のたもとから、一枚の和紙を取り出した。

 黒々とした墨跡。

「志乃武くん、この呪符に見覚えはあるかね?」

 昼顔は呪符をまじまじと見つめたあと、志乃武の声で答えた。


「はい。……日可理が書いたものです」


 泰蔵が静かに言った。

「うちの結界石に貼られていたものだ。これを剥がしたら、消えていた結界が戻った」

「じゃあ、日可理がこれを……?」

「いや、」

 と、竜介はかぶりを振る。

「俺もさっき、虎光からの電話で知ったんだが、事実はもうちょっと複雑らしい」

 涼音は携帯で日可理から指示を受けて、この呪符と同じものを結界石に貼って回ったそうだ、と彼は言った。

 おそらく、日可理は体内にいる黒珠のせいで結界内に入れなかったのだろう。

 だから、結界や黒珠のことを何も知らず、かつ紅子を「招かれざる客」として嫌う涼音を利用した。

「でも、結界石のどれか一つに異常が起きても、碧珠の魂縒を受けた竜介さんたちはそれに気づくはずでは……?」

 志乃武の言葉に、竜介がうなずく。

「その通り。日可理さんもそのことを知っていたからこそ、彼女の呪符は完璧だったんだ」


 一枚だけでは何の影響もないが、すべての結界石に貼られたとき、初めて効力を発揮する呪符。


 その最後の一枚を貼り終えたとき結界は消え、涼音は捕らえられて人質となり、迦陵と龍垓は彼女を連れて紅子がいる泰蔵の家へ向かった。

 一方、日可理はその場に残り、呪符を剥がしに来るであろう「誰か」を待ち伏せた。

「これは俺の推測なんだが」

 と、竜介が言った。

「日可理さんの中に潜んでいた黒珠は、宿主の中に入って間もない頃は小さく気配も弱すぎて、ことによると、寄生されていた日可理さん自身さえ気づいていなかったんじゃないかと思うんだ」

 成長すれば、無論、気配は強くなる。

 けれど、その頃には寄生した黒珠が宿主を精神的に支配しているから、今度は宿主自らが黒珠の気配を隠してしまう。

「実は……僕がこの別宅に着いた時、結界がなかったんです」

 志乃武は打ち明けた。


「本宅と同じ呪符で守られていたはずなのに、全部はがされていました。おそらく、日可理が剥がしたんでしょう……自分が出入りするために」


「本宅には、おかしなところはなかったのかね?」

 泰蔵の質問に、昼顔は頭を振った。

「僕にはわからないような小さなほころびをどこかに作っておいて、そこから出入りしていたのかも……うちの結界は、日可理が管理しているので、細工は容易かったはずです」



 志乃武が話を終え、昼顔はもとの声に戻った。 

「私はこれにて失礼いたしますが、日可理さまのおそばには、引き続き夜顔が控えておりますので、皆様はどうぞお休みください」

 そう言って、式鬼は煙のようにかき消えた。

 食堂に残った三人はその後も、食事をしながら今夕に起きたことをひと通り報告し合い、明日の段取りを決めて味気ない夕食を終えた。


「……じゃあ、竜兄が明日俺にやってほしいことって、残りの呪符を剥がして回るのと、志乃武くんの応対と、本宅の留守番、でいいんだよな?」


 鷹彦は指を折りながら言うと、心細そうにこう付け加えた。

「でも俺、他の結界石の場所がうろ覚えなんだよなぁ……」

「なら、わしも一緒に行こう」

 泰蔵が言った。

「足場の悪いところもあるし、二人のほうがいいだろう」

「助かります、師匠」

 と、鷹彦が両手を合わせて大げさに泰蔵を拝むような仕草をするので、竜介も苦笑しながら師匠に礼を言った。

 泰蔵は礼には及ばないというふうに片手で二人を制すると、「さて、」とおもむろに立ち上がり、

「お前さん、明日早いんだろう?あとは片付けておくから、先に風呂に入って休みなさい」

 と、竜介を促したのだった。



 竜介が風呂から上がる頃、ポツ、ポツと何かが軒を叩き始め、その不規則な打音が、ザアザアという明らかな雨音に変わるまで、さほど時間はかからなかった。

「お風呂、お先にいただきました」

 風呂から出た竜介は、台所の片付けを終えて居間に移動していた泰蔵と弟に声をかけた。

「雨、降ってきましたね」

「おう、そのようだな」

 と、返す泰蔵の背後で、テレビの天気予報がしばらく雨が続くだろうと告げていた。気温もぐっと下がるようだ。

 鷹彦はちょっとうんざりした顔で言った。

「呪符も雨で流れりゃいいのに」

 泰蔵はそんな彼をまあまあとなだめる。

「先延ばしにしたいのはわしもやまやまだが、気がかりは早めに取り除いておかんとな」

「無理はしないでください」

 竜介が言うと、

「うむ。ま、せいぜい気をつけて行くよ」

 と、泰蔵は笑顔を作った。

「お前さんこそ、道中気をつけてな」

 竜介は、はい、とうなずく。

「それじゃあ、先に休みます」

 と、踵を返しかけたとき、泰蔵が思い切ったように言った。


「その……玄蔵には、すまんと、伝えておいてくれ」


 竜介が肩越しに振り返ると、老人は続けた。

「紅子ちゃんのことは、詫びる言葉もないと言っていた、と」

 そう言った泰蔵の顔は、彼をよく知る竜介と鷹彦さえも驚くほど、悲しく老け込んで見えたのだった。



 竜介が今夜休む部屋は、大人五、六人が余裕で並んで眠れるくらいの奥座敷だった。

 昔は檀家とその親類たちが法事のあとで精進落しの食事をしたりするための部屋だったのだが、今は麓に良い懐石料理の店があるので、本来の目的で使われることはほとんどなくなっている。

 鷹彦もここで休むはずなので、彼は二人分の布団を敷くと、照明を落として片方に横になった。

 常夜灯のオレンジ色の光を眺めていると、今夕あったすべてのことが、悪い夢だったように思われる。

 日可理からあの小さな異形の生き物を飲まされそうになったことについて、竜介は泰蔵たちに話していない。

 あのときの彼女の言動について彼女自身の意思と関わりがわからなかったし、この先も続くだろう紺野家と白鷺家の関係にとって、無駄に彼女の尊厳を傷つけるような話は一利にもならないと思ったからだ。

 が、それより何より、彼女と自分の関係について、余計な誤解や邪推をされたくないというのが最も大きな理由だった。

 今更だ、と自分でも思う。

 思うけれど、認めざるを得ない。

 そして、もう、自分の心に嘘をつきたくない。


 紅子に対する、この気持ちに。


 けれど、もう――手遅れだ。

 遅すぎた。何もかもが。

紅蓮の禁呪第126話「冬の始まり・三」

  式鬼たちの施術は、白鷺家にのみ伝わるものなのか、竜介たちにとって見たこともない不可思議な光景の連続だった。

 白い法円は、昼顔の微細な指の動きに合わせてしばしその模様を目まぐるしく変化させていたが、やがて何らかの規則にしたがって調整が終わったらしく、輝きをひときわ強くして静止した。

 その途端、黄緑色のメイド服を着た昼顔の姿が、その指先からほぼ一瞬で、デジタル映像のブロックノイズのようにばらりと解ける。

 法円は音もなくそのブロックノイズを吸い込むと、裏側から、小さく細長い、蛇に似た「何か」を吐き出した。

 「それ」は一般的な蛇とは明らかに異なる姿をしていた。

 鱗はなく、代わりに全身に輝く白い羽毛をまとっている。

 目は金とオリーブ色に輝き、小鳥のような翼で飛ぶ姿は、愛らしくさえあった。

 式鬼が変化したその生き物は、翼をはためかせてふわりと浮き上がったあと、日可理の顔めがけて勢いよく急降下し、わずかに開いたその口へ、するりと身を躍らせた。

 変化はまもなく訪れた。

 それまでぴったりと閉じていた日可理のまぶたが、突然、開いたのだ。


 だが――


 そこに彼女のあの澄んだ黒瞳を見ることはできなかった。

 得体の知れない、黒い粘液に塗りつぶされた目をカッと見開き、恐ろしい形相で日可理は吠えた。


「ウガァッ、グォオ!!」


 身体が弓なりに反り返り、夜具の上で跳ね回る。

 竜介たちはとっさに身構えたが、夜顔が着けた枷がその役目をしっかり果たしているおかげで、それ以上のことは起きずに済んだ。

 やがて、反り返った白い喉から、ゴボゴボという不気味な音が聞こえてきたかと思うと、その場にいる三人――と一体――が固唾を飲んで見守る中、突然、日可理の口から黒い塊がぬるりと飛び出した。

 大人の拳くらいはあろうかと思われる、口だけしかないナマズに似た異形。

 それを、夜顔が絶妙なタイミングで広げたタオルの中に捕らえる。

 次いで、あの白い翼を持った蛇がおもむろに日可理の口から顔をのぞかせた。

 蛇は汚れてまばらになった翼でどうにか空を舞うと、法円をくぐり、さっきの過程を逆に繰り返して昼顔の姿に戻った。

 一方、宿主から切り離された異形の魚は、黒珠の気配を放ちながら、どろどろに溶け始めていた。

 足掻くように鋭い牙を鳴らして蠢き、それは言った。


「……ジャ……邪マ者を消スのよ……」


 ところどころ歪んでいたけれど、それは確かに日可理の声だった。

 崩れかけた口で、怪魚は呪詛を繰り返す。


「あノ女……消シてヤる……邪魔者……わタくしノものよ……ワた」


 バチッ、という何かが爆ぜるような音とともに、呪詛の言葉は唐突に途切れた。

 竜介が横から手を伸ばし、夜顔が捕らえていたあのおぞましい黒い塊を握りつぶしたのだ。

 塊を握る彼は青い光輝をまとい、ちりちりと爆ぜる金色の稲光がその周りをせわしなく駆け抜ける。

 竜介が握っていた手を開くと黒い粘液が残っていたが、それもたちまち蒸発し、彼の手と夜顔の持つ布の上にただ黒いシミを残して、黒珠の異形は消えたのだった。

 紙のようだった日可理の頬に赤みが戻り、健康な寝息が聞こえるようになると、引き続き彼女の様子を見守るという夜顔だけを残し、昼顔と泰蔵たち三人は客間を出た。

 不気味なシミのついたタオルについては、竜介が

「洗面所に手を洗いに行くついでに、捨てておきます」

 と、引き受けたので、泰蔵は鷹彦と、少し影が薄くなった昼顔を伴って、先に食堂へ向かったのだった。



「あんなおっかない顔の竜兄、初めて見ましたよ……」

 鷹彦は食卓の椅子に身体を預けると、ようやく緊張が解けたのか、ため息をつきながら言った。

 その言葉に、泰蔵は十五年前のことを思い出しながら、

「そうかい」

 とだけ、曖昧に答えた。

 卓上には、結界が消える前に竜介と紅子が作っていた料理が、手つかずのままで放置されている。

 こんなときでも――いや、こんなときだからこそなのか――腹は減るもので、二人の目は皿の上をさまよいつつも、冷え切った料理に手をつける気になれずにいた。

 料理を温め直すために席を立つ気力が、疲れ切った彼らにはもはやなかったのだ。

 そんな二人の内心を察したように、昼顔が言った。


「お食事になさいますか?」


 否やのあろうはずがない。

「頼めるかね」

 泰蔵が言うと、昼顔はお安い御用とばかりに台所に立つ。

 卓上にはたちまちのうちに湯気の立つ皿が並んだ。

 さらに、飲み物をどうするか尋ねられたが、さすがに今は酒を飲む気にはなれない。

 泰蔵が温かい茶を所望すると、鷹彦もそれにならった。

 空っぽだった胃に食べ物が入ると、それだけで部屋の温度が数度上がった気がする。

 けれど、ときに安堵というものは、心の穴をことさら思い出させるようだ。

 黙々と食事をしていた鷹彦が不意に鼻をすすり出し、泰蔵はしばし年若い弟子の背中をなでてやらねばならなかった。

 ややあって気持ちが落ち着いたのか、鷹彦は小さな声で、すみません、とつぶやいてから、


「竜兄、遅いですね」


 と、無理やり空気を変えようとしてか、明るく言った。

「俺、ちょっと見てきましょうか」

「それには及ばんよ」

 泰蔵は苦笑して、鷹彦の肩の向こう、食堂の入り口を視線で示す。

 鷹彦が肩越しにそちらを振り返ると、ちょうど竜介が入ってくるところだった。


「いい匂いだな」


 先程の剣幕もどこへやら、彼は穏やかな口調でそう言うと、席についてさっそく料理に箸をつけた。

「悪いが先にいただいとるよ」

 泰蔵が言うと、竜介は食事をしながら、「気にしないでください」というようなことをもぐもぐと言った。

「虎光から電話が入ったので、明日のことを打ち合わせしてたら遅くなってしまいました」

 鷹彦は怪訝な顔をした。

「明日のことって?」


「一色家に詫びを入れに行くんだよ」


 と、竜介。

「えっ、じゃあ俺も一緒に行かなきゃ」

「いや、お前は師匠と一緒に留守番を頼む」

 竜介は昼顔が淹れてくれたお茶で料理を飲み下し、言った。

「虎光も父さんに状況を報告しに行くから、明日の朝、一緒に東京へ向かう。お前まで一緒に来たら、何かあったとき師匠一人でここと本宅のほうまで面倒を見ることになるだろ?

 それに、俺たちの留守中、いろいろとやってもらいたいこともあるしな」

「やってもらいたいこと?」

 鷹彦が鸚鵡返しに尋ねたが、竜介はそれに答える代わりに、式鬼に向かって言った。


「昼顔、志乃武くんが日可理さんを迎えに来れるのはいつ頃になるかな?」


「志乃武様は本日、東京の別宅にお泊りですので、明日の昼前にはこちらへうかがえるとのことです」

 昼顔の返答に満足気にうなずく。

「てっきり本宅だと思ってたから、助かるよ。予報だと今夜から雨になるらしい。気をつけて来るように伝えてくれ」

「ありがとうございます」

 昼顔は丁寧に頭を下げた。

「竜介様もどうかお気をつけて、と我が主(あるじ)が申しています。日可理がご迷惑をかけたお詫びを、竜介様にも直接申し上げたかったので、行き違いになるのは大変残念です、と」

「迷惑、か……」

 竜介は皮肉めいた複雑な顔でそうつぶやいた後、少し改まった調子で式鬼の主人に、


「志乃武くん、」


 と、直接呼びかけた。

「今回の件で君が知ってることを教えてくれないか」

 別宅に来てたのは、日可理さんの動きと何か関係があるんだろう?

 昨夜、電話をくれたときに、朝から日可理さんの姿が見当たらないと言ってたよね?


 その言葉に、泰蔵と鷹彦がハッと表情を固くする。

 昼顔はしばし沈黙してから、口を開いた。

 それは、志乃武の声だった。


「僕が知っていることは、あまり多くありませんが……知っている限りのことは、お話しましょう」

紅蓮の禁呪第125話「冬の始まり・二」

  巨大な黒い人造樹が鎮座する大広間。

 フード付きの黒い長衣をまとった「影」たちが、床にびっしりと張り巡らされた黒い樹根の間をせわしなく往来している。

 樹根のあちこちにある巨大な瘤(こぶ)――つるりとしているので卵のようでもある――の一つ一つを覗き込んでは、手のひらをかざして、何かのパラメータらしい複雑な模様を表示させ、「卵」の状態を確認しているようにも見える。

 そんな彼らの姿は、壁や天井に彫られた饕餮紋(とうてつもん)が放つ青白い薄明の中、まるで異形の神に冒涜的な踊りを捧げる、狂った巫祝のようだった。

 と、そんな息をつく間も惜しむかのように動き回っていた「影」たちが、突然、ぴたりと止まったかと思うと、一斉に広間の入り口にむかって膝をつき、頭を垂れた。


「かまわぬ。皆、作業を続けよ」


 そう言いながら広間に入ってきたのは、黒い鎧を着けた大柄な男。龍垓だった。

 「影」たちがもとの動作に戻る中、彼は樹根を避けながら人造樹の根元に歩み寄った。

 そこには人一人がすっぽり入れるくらいの大きな節穴が口を空け、様々な太さの管が内部に集中している。

「肘の具合はどうだ」

 龍垓は穴の上にかがみこむと、中で管に繋がれている小さな人影に声をかけた。

「迦陵?」

 内側に張り巡らされたクッション材に包まれて横になっていた迦陵は、うっすら目を開けると、


「これは……主上」


 と、重たげに身じろぎした。

「よい。そのまま」

「は……」

 龍垓に手で制されると、迦陵は素直に元通り横になった。

 普段は凶刃がぎらつく両手の甲も、今は体内に収めているのだろう。甲には小さな傷跡のようなものが見えるだけだ。

 いつもの剣呑な気配も鳴りを潜め、今の迦陵はただの小柄な少女のようだった。


「早く儀式を進めねばならぬときに……不覚を取り、申し訳ございませぬ」


 迦陵は、人造樹の根元に置かれたひときわ大きな「卵」に視線を注ぎながら言った。

 同じ大きさの「卵」は全部で四個。

 どれも他の「卵」に比べて多くの管が集中し、天頂部に饕餮紋が黒く刻印されている。

「伺候者のことか」

 龍垓は部下の視線を追って、言った。

「そう気に病まずともよい。汝一人の怪我を癒やすために黒珠の霊力を多少分けたところで、あれらを育てるのに何ほどの障りがあろうか」

「もったいないお言葉……」

「むしろ、治る怪我で安堵しておる。我にはもはや、汝しかおらぬのだからな」

 龍垓は続けて、小さくつぶやいた。


「乱荊も結局、あの神女の炎に焼かれてはどうにもならなかった……」


 人ならざる異形の彼らだが、炎珠の力によって受けた傷だけは、彼らにとってこの世で唯一致命的なものであるらしい。

「精々、養生に励みまする」

「うむ」

 そのとき、うなずく主人の顔を一瞥した迦陵がわずかに眉をひそめた。


「ときに……その頬は、いかがされましたか」


 それは龍垓の左頬にできた小さな火傷だった。

 赤黒くただれた傷は、彼の肌が白いせいでひときわ目立っている。

「おお……これか」

 龍垓は頬の傷を確かめるように触れると、にやりと笑った。


「さきほど、意識が戻ったと『影』が言うので、ちと様子を見に行った時にな。これほどの力があれば、封禁の儀にも期待が持てるというものよ」


 迦陵の眉間のしわが深くなる。

 だが、龍垓はそれに気づくことなく、

「邪魔をしたな」

 と立ち上がり、上機嫌のまま歩み去った。


「炎珠の力は、両刃の剣にございますぞ……」


 迦陵は遠のく背中にそうひとりごちると、動けない我が身の歯がゆさに、薄い唇を噛み締めた。


 あの神女からは、災いの匂いがする――


 それは、人ならざる者の予感か、あるいは自分たちを封印の憂き目に遭わせた炎珠への憎悪か。

 いずれにしても、迦陵は己の予感した災いの根を、その鎌で刈り取る機会を永遠に逸することとなったのだった。


 * * *


 虎光が涼音を連れて帰るのを見送って、泰蔵が食堂に戻ると、竜介は食卓の椅子に座って携帯を操作しているところだった。


「玄蔵に連絡するのかね?」


 泰蔵は竜介の隣に腰を下ろしながら尋ねた。

「はい」

 うなずく竜介の目尻は少し赤らんでいる。

「白鷺家への連絡は、鷹彦に頼んでおきました」

 泰蔵は、うむ、とうなずき、

「とりあえず、直接会う約束だけ取るのがいいだろうな……。玄蔵がどう出るかにもよるが」

 竜介は通話先を呼び出し始めた携帯を耳に当てながら、

「……そうですね」

 と、少し上の空で返事をした。

 泰蔵はその様子を見ながら、少なからず心配になった。

 一色家への連絡は、最も優先しなければならない仕事だが、最も気が重い仕事でもある。

 それを、竜介はあまりに淡々とこなそうとしている。


 紅子を失った痛みは、彼とて小さくないはずなのに――


  玄蔵はさほど時をおかず電話口に出たようで、竜介は型通りの挨拶を口にしたあと、

「実は、紅子ちゃんのことで、直接ご報告したいことがあります」

 と切り出した。

 泰蔵は、もしも玄蔵が電話口で取り乱しすぎて竜介が対応しきれないようなら、電話を代わろうと身構えていたのだが、通話は思った以上にスムーズに終わった。

「……はい。お時間をいただいて申し訳ありませんが……いえ。はい、ありがとうございます……それでは明日の午後、よろしくお願いいたします」

 そう言って携帯を切る竜介の顔は、心なしか少し気が抜けたようだった。

「ずいぶん、あっさり終わったな」

 泰蔵も愁嘆場を免れてほっとしたような、複雑な気分で言った。

 電話ではできないような話だと言われた時点で、話の中身については玄蔵もおおよその察しはついているはずだが――


「玄蔵のやつ……覚悟しておったのかもしれんな」


 泰蔵がそうつぶやくと、

「どうですかね」

 竜介は懐疑的だった。

「明日は、こんなに簡単には行かないでしょう」

 それもそうだ、と泰蔵も思い直す。


「すまんな。つらい仕事をさせて……」


「いえ、師匠が謝るようなことじゃありませんよ」

 竜介は言って、椅子から立ち上がった。

「それより、客間の様子を見に行きましょう。もう白鷺家と連絡がついているはずです」



 客間では、日可理は変わらず布団の中に静かに横たわっていたが、枕頭には鷹彦の他に客が増えていた。

 黄緑色のメイド服と、深緑色のメイド服。


 志乃武の式鬼、昼顔と夜顔である。


 二人――人ではないので、二体というべきか――は、眠っている日可理の額や胸の上に手をかざし、白く輝く法円の幾何学模様を見つめているところだったが、竜介たちが入ってくると法円を消して居住まいを正した。

 鷹彦は目を赤く腫らしていたけれど、比較的落ち着いた声で、志乃武と連絡が取れたことを報告し、式鬼たちを泰蔵に紹介した。

 昼顔と夜顔はまったく同じタイミングで静かに頭を垂れると、行儀よく交互に、泰蔵へは初対面の挨拶を、竜介には日可理を保護してくれた礼を述べた。


「それで、日可理さんの具合はどうかね」


 泰蔵が言った。

「医者を呼ぶこともできるが……」

 すると、式鬼たちはユニゾンで答えた。

「それには及びません」

「日可理様の中に潜んでいるものを、私どもが今から排除いたします」

 と、昼顔。次いで夜顔が、

「ただ、一つお願いがあるのですが」

「わしらにできることなら」

 泰蔵が少し緊張した面持ちで応じると、昼顔が口元にあるかなきかの笑みを浮かべ、言った。

「大きめのタオルを数枚、お貸しくださいませ。寝具を汚しては申し訳ないので」

 泰蔵がタオルを取りに席を外すと、式鬼たちはこれから始まるであろう日可理の「治療」の準備らしきことを始めた。

 昼顔は日可理の頭上に座って、彼女の額の上に再び白い法円を出現させた。

 浮かび上がる幾何学模様を、細い指先が繊細な動きで触れている。

 夜顔はというと、やおら日可理の両手両足を夜具から出し始めたため、竜介と鷹彦はぎょっとなった。


「あの、俺たち、席を外したほうがよくない?」


 鷹彦が腰を浮かせかけながら言ったが、夜顔は日可理の両方の手首と足首に白く輝く法円を嵌め込みながら、表情を微塵も変えずに

「いいえ。むしろ、ご同席をお願い致します」

 と答えた。

「これ――手足の法円――は万一に備えて日可理様の動きを制限するものですが、不測の事態もありえますので」

 ほどなく泰蔵が戻ってきて、夜顔にタオルを手渡すと、日可理の「治療」が始まった。

紅蓮の禁呪第124話「冬の始まり・一」

  首が痛い。

 首の後ろをちくちくと刺すような不快感とともに、紅子は目を覚ました。

 目を開けて最初に見えたのは、青白く発光する天井。光源は一つ一つが複雑な幾何学模様で、じっと見ているとなぜか頭がくらくらしてくる。


「……ここ、どこ……?」


 舌がもつれる。身体が重い。

 起き上がろうとしたとたん、今度は寝違えたような痛みがはしって、彼女は思わずうめいた。

 同時に、意識を失う直前の記憶がよみがえる。

 背後に迫る黒珠の気配から逃れるため、ひたすら森の中を駆けた。


 でも、木立を抜けた先では、竜介と日可理が――


 一瞬、何も考えられなくなった。後ろにいる黒珠のことすら。

 首の後ろに衝撃を感じて、その後の記憶はただ、闇ばかり。

 だとすれば、ここは――


「目が覚めたか」


 突然、紅子の視界の外で声がした。低く冷たい、男の声。

 同時に、首の後ろの不快感が強くなる。

 紅子は焦りと恐怖で冷たい汗が吹き出すのを感じた。

 紺野家の山で自分を追い詰めた、あの黒珠だ。

 首の痛みを堪えながら、鉛のような身体を引き起こそうともがく少女に、黒珠の男は言った。


「やめておけ。この房は炎珠の力を消耗させる術式が施してある。ムダに動けば辛くなるだけだ」


 言葉と同時に、男の顔が彼女の眼前に沈み込んできた。

 黒い巻き毛に縁取られた、神々しいまでの美貌。

 死と狂気に蝕まれたその黒瞳を見た瞬間、紅子は彼との対面が、紺野家のそれより以前にあったことを、唐突に思い出した。


 夢で見た、荒廃した迷宮式庭園。崩れかけた数多の列柱と尖塔に守られた巨大な城。


 その奥で行われていた、おぞましくも冒涜的な儀式。


 黒い粘液の中から生まれた男と、今、目の前にある顔とが重なる。

 相手も同じことを思ったらしい。瞳がわずかに大きくなった。

「そうか……」

 男の唇がゆがみ、冷笑を作った。


「我が復活の儀を至聖殿の小窓から見ていたのは……お前か。魂魄だけを飛ばしてここを探し当てるとは何者かと思っていたが」


 ただの夢だと思っていたか?

 それとも、余の霊力で跳ね返された衝撃で忘れたか。魂魄の記憶は脆いからな。

 そう誰にともなくつぶやく男が放つ圧倒的な力の気配に、紅子は肌が痛いほど粟立つのを感じた。

 だが、殺気はない。

 殺すつもりで捕らえたなら、紅子の意識が戻る前に亡き者にしているはず。

「なんで……」

 紅子はもつれる舌を懸命に動かした。

「あたしを……さっさと殺さないの」


「殺しはせぬ。せっかく手に入れた封印の鍵ゆえ」


 男はそう答えると、話をそらすかのように、

「そうだ、名乗るのを忘れていたな。我は黒珠の王、龍垓(りゅうがい)。近き未来、汝が花婿となるであろう者だ。見知りおけ」

 最後の言葉の意味がわからず、紅子は眉をひそめた。

「はな……むこ?」

「そう。お前が封禁の儀を生き延びればの話だが」


 封禁の儀。


 黒珠を封印して異形の怪物に変え、黃・白・碧の三支族がその術を怖れて炎珠の力を削ぐきっかけとなった、忌まわしい禁術。

 怖ろしい考えが紅子の脳裏をよぎる。

「まさ、か……?」

 龍垓は美しい顔にぞっとするような喜色を浮かべた。


「我らが味わったと同じ悪夢を、屈辱を、やつらにも味わってもらう」


 亡者の王は、底冷えのする声で、歌うように言った。 


「我らはこの世界を死の沈黙と氷で覆い、新たなあるじとして君臨する。人の世は終わりを告げるであろう」


 だが、封禁の儀を生き延びたなら、お前は生かしておいてやろうぞ。

 やつらの封印を保つには、次なる神女が必要ゆえ……。

 紅子は胃のあたりがむかむかするのを感じた。


「あんたの……思う通り、になんか……!」


 冷たい手足に血流が蘇る。

 鉛のようだった身体が、軽くなる。

 龍垓は、少女の目が赤く輝くのを見た。

 と、次の瞬間。

 冷たく青白い薄闇の牢獄を、一瞬にして荒れ狂う炎が支配した。


 * * *


 疲れと絶望で重い身体を引きずるようにして、泰蔵は竜介と一緒に自宅へ戻った。

 玄関で二人を出迎えた鷹彦は、一瞬、言葉が出てこなかった。

 まず、二人とも、恐ろしく顔色が悪かった。

 泰蔵の着衣は鋏でも入れたようにあちこちがすっぱりと切れ、切れ目からはところどころカミソリで切ったような傷がのぞいていた。

 竜介はもっとひどかった。

 喉元から下が血まみれだったのだ。


「竜兄、血が……」


 鷹彦がようやくそれだけ言うと、竜介は、

「もう止まってる」

 と答えながら、無造作に靴を脱ぎ捨て廊下に上がった。

 そのとき、鷹彦は兄が誰かを背負っていることに気づいた。

 むき出しの白い腕が、彼の背後から胸に、力なく回されている。

 彼は心臓に氷を押し当てられたような気がした。

「それより、鷹彦、ちょっと手伝ってくれ。彼女を休ませないと」

 そう言って、竜介が奥へ向かうとき、すれ違いざまにその背中にいる人物の顔がちらりと見えた。


 紅子ではなかった。


「日可理さん……?」

 なぜ、ここに?

 てっきり、紅子だと思ったのに。

 じゃあ、彼女はどこへ……?

 呆然と立ちすくむ鷹彦を、奥から竜介が呼んだ。

「鷹彦、ここを開けてくれ」

「今行く」

 そう答える鷹彦の背中に、泰蔵が尋ねた。

「涼音の姿が見えんようだが?」

「ダイニングにいますよ」

 肩越しに返事をして、兄のところへ向かう鷹彦を見送ってから、泰蔵はダイニングへ向かった。



 ダイニングの椅子に所在なげに腰をおろした涼音の目は赤く腫れ、首についた刃の痕も痛々しかった。

 彼女は泰蔵が入ってきたことに気づくと、一瞬、顔を上げ、何か言おうと口をもごもごさせたが、すぐまた視線を床に落とした。

 泰蔵は彼女の隣に腰をおろすと、結界石のそばで拾った携帯電話を取り出して見せた。

 涼音の顔が明らかに青ざめ、こわばる。

 泰蔵は静かに言った。


「竜介がお前さんのだと言っていたが、間違いないかい?」


 涼音はまた口をもごもごさせるだけで返事をしなかったが、その視線は携帯に釘付けになっている。

 泰蔵は涼音の手を取ると、その手に携帯を握らせてやった。

「履歴を見ればわかると思うが、虎光くんから着信があって、わしが出た。ここまで迎えに来てもらうよう頼んでおいたから、ぼちぼち到着するだろう」

 ありがとうございます、というようなことを口の中でぼそぼそとつぶやきながら携帯を受け取る涼音の手をつかんだまま、「それとな、」と泰蔵は言葉を続けた。


「虎光くんには、お前さんを叱るなと言ってある。だから……本当のことを話しなさい。

 虎光くんにだけでいい、あったことを、そのまま、話しなさい。いいね?」


 噛んで含めるようにそう言ってから、泰蔵は涼音の手を放した。

 涼音は受け取った携帯を大事そうに胸の前で両手で握りしめると、大きくうなずき、うつむいた。

 ジャージの膝に、しみがいくつもできていた。


 と、そのとき――


 竜介が日可理を休ませに行った客間のほうから、いきなり、怒号が響いた。

 「嘘だろ」とか「なんでだよ」という言葉が聞こえてくる。

 鷹彦の声だった。

 泰蔵がやりきれない気持ちでそれを聞いていると、涼音が言った。


「ご……ごめんなさい」


 ぱた、ぱた、と水滴が落ち、彼女の膝に新しいしみを作った。

「ごめんなさい……ぼく、ぼく本当に知らなかったんだ……こんなことになるって」

「泣かんでいい」

 泰蔵は涼音の肩に手を置き、言った。

「泣かんでいいんだ……」

 そう言う彼の頬にも、伝い落ちるしずくが一筋、光っていた。

 泣いても、叫んでも、もう何も変わることはないのだと、わかっていても。

紅蓮の禁呪第123話「結界消失・七」

  誰かに肩をつかまれた。一瞬、周囲の音がゆがんだ。


「竜介、よせ!!」


 聞き覚えのある声で我に返ると、竜介は紅子が消えた闇に向かって、あたうる限りその手を伸ばしていた。

 何か叫んだらしく、口の中は乾ききり、喉がひりひりと痛んだ。

 風が止まり、世界はほぼ静止している。

 喉元に食い込んでいた刃はいつの間にか離れて、コマ送りで動くその切っ先からは赤い小さな粒がいくつか、ゆっくりと落ちていくのが見えた。

 振り返らなくとも、誰が自分の肩をつかんでいるのか、竜介にはよくわかっていた。


 泰蔵である。


 自分と自分が触れているものの時間を五倍に引き伸ばす、それが竜介の師匠の異能だった。

 ただしそれは、「通常時間」で二秒間しか保たない。

 すなわち、泰蔵が「時間を引き延ばしている世界」の時間は最大十秒。


「お前が、ここで死んでどうする!?」


 ぜいぜいと荒い息の合間を縫うように、泰蔵は言った。

 おそらく、その異能を最大限使ってここへ駆けつけてくれたのだろう。

 もし彼が引き留めてくれなかったら――自分の首はその肩を離れて、今頃、地面に転がっていたかもしれない。

 だが、このときの彼は、礼を言う代わりにこう吐き捨てた。


「俺の命なんて!!」


 泰蔵に向き直ると、その腕を掴み返す。

「師匠なら、間に合ったはずだ!!なんで紅子ちゃんを取り戻してくれなかったんです!?」


「触れることができなかったんだ!!」


 遮るように泰蔵が怒鳴った。

 彼がこの場に到着して最初にしたことは、無論、紅子を取り戻すことだった。

 ところが、彼の手は、紅子や彼女を抱えている黒珠の男を素通りしたのだ。

「そんな……」

 泰蔵の手短な説明を聴いて、竜介はそう答えるのがやっとだった。


 もう、打つ手はないのか――


 絶望が重くのしかかる。

 紅子が消えた空間をもう一度確かめるように、竜介は振り返った。

 視界の端では、迦陵が相変わらずスローモーションを演じ続けている。


「時間切れだ。通常時間に戻るぞ」


 泰蔵のこの言葉が終わるか終わらないかというとき、竜介は突然、動いた。

 迦陵の最大最強の武器は両手の甲から伸びる鎌だが、それは片刃で、エッジは迦陵自身の腕のほうを向いている。

 だから、攻撃するとき迦陵は腕を自分の胸に引き寄せてから外へ薙ぎ払う格好になり、必然的に背中はがら空きだ。

 通常時間であれば、恐るべき俊敏な動きがそういった隙をすべてカバーしてしまうのだが、引き延ばされた時間の中なら、その無防備な背中に、渾身の蹴りを入れることなど造作もなかった。

 ほぼ同時に、また音がゆがみ、世界はもとの速度を取り戻す。


「がッ!?」


 小さな怪物は初めて苦悶の声を上げ、重量を感じさせない軽い音とともに、地面に倒れ伏した。

 間髪を入れず、竜介はその背中にまたがる。


 木の枝をへし折るような、ぞっとする音が二回。


 と同時に、迦陵が獣のような低い唸り声を上げた。

 竜介が膝を使って、この怪物の両肘を砕いたのだ。

 傍らに立って様子を見ていた泰蔵は、痛そうに眉をひそめたが、何も言わなかった。


「さっきの男を呼べ。紅子を連れて戻ってこいってな」


 竜介は迦陵の首に両手をかけ、冷ややかな声で言った。金色の稲光が爆ぜる。

 小柄な死神は、顔の半分を地面に押し付けられ、狭められた気道からぜいぜいと苦しげな呼吸をしている。

「早くしろ。丸焦げになりたいか?」

 単なる脅しでない証拠に、両手に稲光を集中させると同時に、力をこめた。迦陵の首の骨がみしみしといやな音を立てる。

 ところが。

 黒衣の怪物は、横目で竜介を見上げると、にやりと嘲笑った。

 そのとき――


「なんだ、白鷺家の嬢ちゃんじゃないか」


 泰蔵の声が聞こえた。

 竜介はハッとして、叫んだ。


「師匠!彼女の目を見ちゃだめだ!」


「なぜここに――」

 いるのか、と泰蔵は言おうとしたのだろう。

 だが、その言葉はそれきりぷつりと途切れた。

 代わりに聞こえたのは、あの鎧の男の声だった。


「碧珠の男……迦陵を放せ」


 竜介が慌てて視線だけ振り向けると、そこには白い光輝をまとった日可理がいた。

  着衣は泥で汚れ、髪はひどく乱れている。

 竜介と鎧の男の力がぶつかり合った衝撃に巻き込まれて意識を失ったところを、黒珠に完全に乗っ取られたのだろう。

 彼女は右手をゆっくりと高く持ち上げた。

 懐剣だろうか。

 逆手に握られた刃が、その手の中でぎらりと光った。


「でないと……このじじいが大怪我をするぞ……!!」


 言葉が終わるが早いか、刃が勢いよく振り下ろされる。

 日可理の顔に表情はない。文字通りの操り人形だ。

 泰蔵はといえば、彼女の顔を瞬きもせずまっすぐ見据えたまま、身じろぎ一つしない。

 おそらく日可理の術にかかって、動けないのだろう。

 竜介は心中で舌打ちした。


 次の瞬間、彼は泰蔵と日可理の間に入り、彼女の右手首を掴んでいた。


 刃は、泰蔵の左肩に突き刺さる寸前で止まり、ややあって、彼女の手を離れた。

 カツン、という硬い音を立てて地面に落ちた短刀を、身体の自由を取り戻した泰蔵が拾い上げる。

 と、葉擦れのような音と、迦陵の気配が遠ざかっていくのを、竜介は背中で感じた。

 両肘を砕かれた迦陵に、もはやその刃を振るう術はなかったらしい。

 複雑な安堵が彼の胸に去来した。


 危難は去った。


 が、同時に、紅子を失ってしまった――おそらく、永遠に。

「久方ぶりに、たいそう愉快だったぞ……」

 日可理を操る男の声が嘲笑った。


「礼として我が名を教えてやろう……我こそは黒珠の王、龍垓(りゅうがい)。見知りおけ……」


 そう言い終えると。

 日可理はうつろな目を閉じ、その場に力なくくずおれた。

 まさに、傀儡の糸が切れた人形のように。



 悪夢のような宵だった。

 けれど、竜介にも泰蔵にも、喪失の痛みに浸る暇が与えられることはまだなかった。

 どこかで携帯電話の呼び出し音が鳴っていることに彼らが気づいたのは、例の忌々しい呪符を剥がすため、結界石のそばに来たときだった。

 泰蔵が「お前か?」というように竜介を見たので、彼はかぶりを振る。

 竜介はその背中に日可理を背負っていた。

 いつまた黒珠に操られて暴れるかわからない状態だから、紺野邸に連れて行くことはできないが、こんなところに放り出しておくわけにもいかない。

 志乃武には追々連絡するとして、ひとまず泰蔵の家で様子を見ることに決めたのだった。

 泰蔵はとりあえず呪符を剥がし、結界を復旧させると、音が聞こえてくる辺りを見渡した。

 周囲が暗いおかげで、呼び出し音に合わせて発光する物体はすぐ見つかった。

 結界石からほど近い草むらに落ちていたそれを泰蔵が拾い上げると、竜介はハッと息を呑んだ。


「涼音の携帯です」


 なぜ、こんなところに?

 おそらく同じ疑問が同時に二人の脳裏をよぎったが、その答えを探るには、彼らは疲れすぎていた。

 泰蔵は代わりに携帯のフリップに表示されている名前を読み上げた。

「虎兄……虎光くんかな?」

 通話ボタンを押したとたん、携帯から離れている竜介にまで、虎光の怒鳴り声が聞こえてきた。


『涼音、今どこだ!?心配したんだぞ!!』


 泰蔵は苦笑しながら送話口に向かって言った。

 「あー……すまんな、わしだ、泰蔵だよ。涼音ちゃんならわしの家だ」

 とたんに虎光の声は通常のボリュームに戻り、恐縮と当惑が入り混じったそれに変わった。

『も、申し訳ありません、師匠!大変失礼しました!あの、でもどうして涼音がそちらに?というか、どうして師匠が涼音の携帯を……?』

「実は、結界が破られてな……涼音ちゃんは黒珠に人質にされたんだ。……いや、無事だ。

 ……うむ、怖い思いをしたと思うから、あまり叱らんでやってくれ。

 ときに、そちらは何事もなかったかね?」

『こちらは特に何も……じゃあ、涼音は今、そこにいるんですね?』

 泰蔵は一瞬ためらってから、答えた。

「いや、ここにはいない。わしと竜介は今、うちから一番近い結界石にいるんだ。この携帯は、そこに落ちとったんだよ……。

 ……あいにく、理由はわしらにもわからん。詳しいことは本人から聞いてくれんか。あとで鷹彦に送って行かせるよ」


『全員無事なんですよね?』


 虎光が念押しするように尋ねた。


『……紅子ちゃんも?』


 泰蔵はしばし答えをためらった。

 長い夜になりそうだ――そう思いながら。

紅蓮の禁呪第122話「結界消失・六」

  凄まじい爆風のような力が、竜介の身体を柵の向こうへ吹き飛ばした。


「くそっ!」


 思わぬ不意打ちに思わず毒づく。

 トンボを切って着地したあともなお、衝撃の勢いで彼は後方へ押しやられた。

 足の滑った跡を地面にわだちのように残し、彼の身体がようやく止まったのは、崖まであと数十センチという際どい場所だった。


 下から吹き上げる風が、冷たく彼の頬を撫でる。


 だが、竜介は木立のほうへ固定した視線を動かさなかった。

 自分をここまで弾き飛ばした力の主は、一体何者なのか。

 と――

 木立のあいだで、闇がゆらりとうごめいた。

 闇は言った。


「ほう……崖から落ちたものと思ったが、持ちこたえたな」


 まず男の顔が白く浮かび上がり、ついで首から下が現れた。

 それは、がっしりとした長身を漆黒の鎧で包んだ、黒い巻毛の青年の姿をしていた。

 ギリシャ彫刻もかくやと思われる、美丈夫。

 だが、その輝く美しさに反し、眼窩に収まる二つの黒い瞳に宿るのは、底なしの闇と狂気だった。


 ――寒い。


 竜介は自分の吐く息の白さに気づき、この寒気が心理的な理由だけではないことに奇妙な安堵を覚えた。

 凍えるような冷気は、目の前の男から漂ってきていた。

 白い霜が、黒い男の足元を、周囲の草木を、見る間に白く染めていく。

 夜に覆われつつある静かな森に、ミシミシと不穏なささやきを響かせながら。

 しかし――

 それより何より彼を圧倒し、戦慄させていたのは、男の全身から放たれる、凄絶な黒珠の力の気配だった。

 彼はこのとき、生まれて初めて、無意識の底から湧き上がるような、本能的な恐怖というものを感じていた。


 足が、動かない。

 拳に力が入らない。


 恐怖に固まる竜介が何も仕掛けてこないと見て取ると、黒珠の男は早々に興味を失った様子で、意識を失っている紅子のほうへ視線を移した。

 男の大きな黒い影が、少女の上に沈み込む。

 その途端。


「彼女に触るな――!!」


 呼吸が戻った。

 それまで麻痺したように言うことをきかなかった足が、全身が、嘘のように軽々と動いた。

 鮮烈な青い光輝に包まれた身体は、柵を踏み台に、たった一度の跳躍で鎧の男に肉薄した。

 右の拳に乗せた金色の稲妻が炸裂し、周囲を真昼の明るさに変える。

 彼の拳は、男の白い左頬に吸い込まれた。

 だが、次の瞬間、男を守るかのように青白い鬼火をまとった黒い稲妻が忽然と現れ、金色の稲妻と拮抗した。


 世界は光と闇にわかれた。


 落雷に似た、耳を聾する轟音。

 反発し合う二つの力が生んだ凄まじい衝撃波が、周囲の草木を同心円状になぎ倒す。

 音と衝撃波に脅かされ、ねぐらを追われた小動物や鳥が、警告の叫びを上げながら一斉に逃げ出して行く。

 第一撃を跳ね返されたものの、竜介は瞬時に体勢を立て直した。

 紅子の上にかがみ込もうとしていた男もまた、元通り立ち上がると、こちらの様子をうかがっているようだ。

 あれだけの光と轟音でも、紅子が意識を取り戻す様子はない。

 ただ、男の足元を中心に白い霜で覆われた地面が、紅子の周囲だけ黒く、それだけが彼女を守護する力の存在と、彼女の生命がまだ無事であることを示していた。

 どうにかして鎧の男を紅子のそばから引き離し、彼女を連れてこの場を離れねばならないが、それは難易度の高いミッションだった。

 竜介の放ついかなる打撃も、男の周囲を固める黒い稲妻が無力化してしまう。

 幾度となくぶつかり合う、金と黒の二つの稲妻。

 放電で発生するオゾンの匂いが鼻につき始めた頃、


「もうよい」


 黒衣の男は青白い鬼火のむこうから退屈そうに言うと、左手を無造作に持ち上げた。

 膨れ上がる力の気配。

 次の瞬間、それまで防御一辺倒だった黒い稲妻が、轟音とともに竜介めがけて「落ちて」きた。

 竜介は頭上に両手を広げ、金色の稲妻でそれを防いだ。


「ぐぅぅ……っ!」


 凄まじい術圧で身体が地面にめりこみそうになるのを、歯を食いしばって耐える。

 落雷の衝撃が辺りに土埃を巻き上げ、夕闇の乏しい光を遮る。

 視界はほぼゼロ。

 だが、竜介には見えていた。

 黒珠の男の強すぎる力の気配が、土埃の向こうから、はっきりと「自分はここだ」と告げていた。

 その気配を頼りに、一気に間合いを詰める。


「むっ!?」


 懐中からせり上がってくるような攻撃に、鎧の男は思わずのけぞり、後退した。

 大振りな鎧のせいで、動きが重い。

 竜介が稲妻を溜めると、男は防御のために間合いを取った。


 紅子との間に、距離ができる。


 その一瞬を、竜介は見逃さなかった。

 素早く紅子のそばにかがみ、その冷えた身体をすくい上げる。

 しかし――

 すべては一瞬の出来事だった。

 視界に鋭い刃が飛び込んできた。

 見覚えのある、三日月型のブレード。

 その切っ先が描く弧の先には、自分の首があることを、竜介は即座に見て取った。

 速い。

 回避行動――後ろへ跳ぶ――が間に合わない。

 全身が、死の予感に冷たく粟立つ。

 それでも彼は足掻いた。

 「夢」の中で、彼女を命に代えても守ると決めた。

 それが今でなくて、いつだというのか。

 首にひんやりとした何かが食い込む感触。

 竜介は自分に治癒能力を与えてくれた何者かに、心から感謝したいと思った。

 意識さえ残っていれば、多少の傷はどうにかなる。

 どんな難局だろうと乗り切ってみせる――そう思った。

 そう思えた。

 そのとき。


 突然、両腕に感じていたすべての重さが消えた。


 暗幕を垂れたような空中に、紅子の身体が浮きあがる。

 次いで目に入ったのは、彼女をつかむ黒い甲手をはめた腕と、ぞっとするほど美しい顔。

 それは紅子を連れてかき消すように闇に消えた――嘲笑だけを残して。

紅蓮の禁呪第121話「結界消失・五」

  最初は、空中にぽっかりと口を開けた闇が、二つに分かれたように見えた。

 片方は卵型、もう片方は――人の形に。

 豊かな漆黒の巻毛に縁取られた白い顔は、首から下に同じく漆黒の鎧をまとっているため、闇の中で小さく浮いて見えた。


 堂々とした長躯の、それは男だった。


 秀でた額と頬骨、すっきりとした鼻梁、引き締まった顎――ギリシャ彫刻のように完璧なバランスで整えられたその美麗な容貌は、しかし、彼の全身から放たれる闇の気配と、闇よりもなお昏い、狂気を孕んだその瞳によって、見る者に底冷えのするような恐怖を与えた。


 鷹彦は彼が現れた瞬間、気温が十数度下がったような気がした。


 だが、それは気のせいではなかった。

 吐く息が、白い。

 足が震えるのは、寒さのせいだけではなさそうだが――

 首筋が、びりびりと痛む。

 これまで感じたことのない痛みだ。


 生まれて初めて、今すぐこの場から逃げ出したいと思った。


 逃げ出さなかったのは、紅子の前で恥をかきたくないというプライドと、涼音が腕にしがみついていたからだった。

 その涼音も、今さっきまで泣いていたのが嘘のように静かだ。

 恐怖からか、それともその美しさに圧倒されているのか、まるで魅入られたように男を見ている。

 迦陵の動きを警戒していたはずの泰蔵でさえ、こちらに注意を奪われがちになっている。

 周囲を圧倒する、この存在感。

 ――何者なのか。

 鷹彦がそう訝ったとき、視界の端で迦陵がその膝を折り、言った。


「主上」


 男はそれに対し、ふむ、と鼻を鳴らしただけで、紅子の方へ一歩、踏み出した。

 鷹彦は、男が自分や紅子と同じ<壁>の中にいることを思い出し、急いで<壁>を消す。

 すると、それを待っていたかのように、紅子は大きく斜め後方へ跳躍した。


「紅子ちゃん!?」


 再度<壁>を作るつもりだった鷹彦は、驚いて彼女を呼んだ。

 紅子の移動先は、男や迦陵と間合いを取るには最適の位置だったが、鷹彦や泰蔵とも距離が開いてしまう。

 戻れ、と言おうとした。

 が、振り返った紅子の顔――正確には、その目――を見た瞬間、声が喉に引っかかったまま、出てこなくなった。


 闇に輝く、赤い瞳と、奇妙に感情の消えた顔。


 まるで、見知らぬ少女のような――

 と、そのとき、視界の端で男が動いた。

 鷹彦はとっさに自分と涼音、それと泰蔵を囲む風の<壁>をめぐらせたが、男はこちらには目もくれず、紅子の方へ滑るように動く。

 迦陵もまたそれに習い、紅子の背後に回り込む。が、紅子のほうが一瞬速かった。

 普段とは明らかに違う、獣じみた身のこなしで、彼女は二人の黒珠の包囲を突破すると、そのまま夜の奥へと姿を消したのだった。



 紅子は闇の中を疾駆していた。

 どこへ向かっているのかは、わからない。

 わかるのは、すぐ後ろにあの黒い鎧の男がいて、自分は逃げなければならない、ということだけ。

 自分の意志とは無関係に、ただ身体が勝手に動く。

 飛行場のときと同じだ。

 視界がめまぐるしく変わり、突然目の前に太い樹幹や岩が現れたかと思えば、次の瞬間には消えている。

 怖くて目を閉じたいが、それさえできない。

 背後の強烈な気配に、首筋がひりつく。

 男はおそらく、その気になれば今すぐ追いついて、紅子を殺すことなど造作もない。

 それなのに、一定の距離を保って追跡をついてくるのは――


 疲れてスピードが落ちた頃を見計らい、狩りを楽しむつもりか。


 男の他に追ってくる気配がないところを見ると、迦陵は泰蔵が引き止めているのだろう。

 もしかすると、逆に泰蔵は紅子を追うつもりが、迦陵に足止めを食らっているのかもしれない。

 いずれにしても、一人でこの状況をどうにかする必要がある。

 直接対決は、彼我の力の差がありすぎて不可能。

 なら、体力が尽きる前にどうにかして捲くか――

 と、そのとき。

 紅子は、自分の身体が何度か突然の跳躍や進路変更などを複雑に繰り返しながら、どこへ 向かっているか気づいて、一筋の光明を見た気がした。

 碧珠の魂縒のときに通った、結界石のある場所。

 竜介は、泰蔵の家から一番近い結界石へ行ってみると言って出て行ったのだ。

 背後から迫る圧倒的な力の気配の持ち主を、竜介がどうにかできるという根拠などない。

 ただ、自分一人だけよりは二人のほうがいい。

 紅子の身体はにわかに速度を上げ、追跡者を引き離す。


 二人なら――もっと正確に言えば、竜介となら――どうにかなる。


 根拠のない直感。だが、紅子はそれを信じた。

 竜介の気配をめがけて、闇の中を進む。

 木立が途切れ、紅子は見知った場所に出た。

 空から降り注ぐ星あかりに、闇が薄らぐ。

 竜介は、たしかにそこにいた。

 だが、紅子は彼の名前を呼ぶことはできなかった。それは喉の奥に張り付いたまま、声となることはなかった。

 彼は一人ではなかった。

 そこには日可理がいて――


 二人は、口づけを交わしていた。


 * * *


 日可理の一連の行為は、竜介をまったく混乱させていた。

 なぜ彼女がこんなところにいるのか、なぜ結界を復活させる邪魔をするのか、なぜ――

 かすかに黒珠の気配がするのか。

 際限なく湧き上がる疑問。


 とりあえず、何とかして術を解かなければ――


 焦る彼を、日可理はさらに恐怖の中へ突き落とした。

 歯列を割って、何かが口の中に侵入してきたのだ。

 それは舌よりも小さく平たく、無味無臭だが、気味の悪いぬめりがあった。

 得体のしれない物が、うねうねと蠢きながら喉の奥へすべりこんでいく感覚に、ぞわりと肌が粟立つ。

 次いで首筋に走る痛痒感と、猛烈な吐き気。

 と――


 木立の奥から、忽然と人の気配が出現した。


 草木を揺らすことなく現れたその気配の主が誰であれ、竜介の助け手となったのは確かだった。

 その瞬間、気配に気を取られた日可理の術への集中が乱れ、彼を縛っていた力がゆるんだのだ。

 発作的に日可理を突き飛ばすと、術による縛りが完全に解けた。

 小さな悲鳴と、どさっ、という何かが地面にぶつかる音。

 だが、彼にはむろんそちらを振り返る余裕などない。

 力を使うまでもなく、彼の胃は痙攣じみた拒否反応とともに、食道に入り込もうとしていた正体不明の異物を逆流させた。

 地面にできた小さな胃液だまりでうごめくそれは、一見して小さな魚のようだった。

 黒い鱗をぬめぬめと光らせながら、いまだ息絶えることなくのたくっている、細長い、正体不明の生き物。

 彼は口の中に残る不快な感触や胃液の味を消そうと唾液を吐き、口元を手の甲でぬぐいながらそれを踏み潰すと、周囲の闇に視線を巡らせた。

 自分を救ってくれた気配の主がいたはずの場所に。

 そのとき、


「どうしても、わたくしのものにはなってくださらないのですね……」


 背後から、日可理の弱々しいつぶやきが聞こえたが、彼の心は自身でも驚くほどひんやりと静かだった。

 否、彼の心はその瞬間、実際には激しく波立っていた。

 ただそれが、日可理のことではなかっただけだ。

 彼は、気配の主が鷹彦か泰蔵であることを期待していた。

 しかし――

 闇の中で見つけたのは、その両者のうちの誰でもなかった。

 地面に倒れ伏している、小柄な人影。


 紅子だった。


「紅子ちゃん!?」

 竜介は驚いて叫んだが、返事はない。

 意識を失っているらしい。

 彼は小さく舌打ちすると、急いで彼女に駆け寄ろうとした。

 いつから見られていたのだろう。日可理との関係を誤解しただろうか。

 いや、それよりもなぜたった一人でこんなところに?鷹彦と泰蔵は何をしているのか――

 焦燥が彼の視野を、思考を狭める。

 彼はもっと警戒するべきだった。

 怪しむべきだった。


 なぜ、あの小さな怪魚を吐き出した今も、まだ首の後ろがひりつくのか。


 なぜ、こんなに息が白く、凍えるように寒いのか。


 肌が粟立つのは、この突然の寒さのせいだけなのか。

 紅子の白い顔が、すぐそこに見えていた。

 かすかに眉をひそめているように見えた。

 その細い身体に、あともう少しで手が届くと思った、次の瞬間――

 見えない力が、竜介を弾き飛ばした。

2023年8月13日日曜日

紅蓮の禁呪第120話「結界消失・四」

  三人は玄関の引き戸をわずかに開けて、隙間から外の様子をうかがった。

 玄関から山門までの石畳には、来訪者の足元を照らすために陶器でできた庭園灯が一定の間隔を置いて並んでいる。

 その明かりの中に、たしかに涼音がいた。


 それと、もう一人――


 周囲の闇に溶けてしまいそうなほどの漆黒の髪と、黒衣に身を包んだ、小さな人影。

 それはまさしく影のように涼音の背後にぴたりと寄り添って、左手で彼女を拘束し、右手の甲から伸びた三日月状の刃を、その喉元にぴたりと押し当てていた。


「迦陵(がりょう)……」


 紅子は我知らずその名前をつぶやいていた。

 視界の端で、鷹彦が隣で頭を抱える。

「まじかー」

「知っているのかね」

 二人のつぶやきを聞きとがめ、泰蔵が尋ねると、鷹彦が答えた。

「知ってるも何も、白鷺家でやりあったやつですよ。竜兄から聞いてませんか?」


「話は聞いているが……ずいぶん小さいな」


 竜介がどういう話をしたのか紅子には知るよしもないが、言葉だけではあの見た目と戦闘力のギャップを伝えきれなかったのだろう。

「学校の帰りを狙われたのかな」

 紅子が再び外の様子をうかがいながらひとりごちる。

 すると、鷹彦は青い顔をして、こう言った。


「それか、うちに何かあったか……」


 それは言外に、迦陵が英莉や虎光がいる向こうの屋敷を襲った可能性を示唆していた。

 虎光は確かに体格はいいが、竜介や鷹彦のような異能を持っているわけではない。迦陵が相手ではひとたまりもないだろう。

 恐ろしい光景が脳裏をよぎり、紅子は全身の血の気が引くのを感じた。

 と、そのとき。


「三たびは言わぬぞ」


 体格に似つかわしくない、迦陵の低い声が響いた。


「この娘の命が惜しくば、神女を出せ」


「時間切れか」

 泰蔵は苦い顔でつぶやいた。

「わしが出る。鷹彦と紅子ちゃんはここで」


「あたしも、行きます」


 紅子は泰蔵の言葉をさえぎって言った。

「迦陵は気配であたしがいることはわかってるはずです。あたしが出て行かないと、涼音はたぶん……」

 瞬殺、という言葉を飲み込む。涼音のことは好きになれないが、そういうのは避けたい。


「俺っちも賛成だな」


 と、鷹彦。

「あいつに時間稼ぎは通用しないっすよ、師匠」

「わかった」

 泰蔵はうなずいた。

「それじゃ、鷹彦は障壁を紅子ちゃんの周囲に張ってくれ。紅子ちゃんは念のため、鷹彦のそばを離れないように」

 鷹彦が「了解っす」と返事をするそばから、紅子は目の前で水のような波紋が広がって消えるのを見た。

 手を伸ばしてみると、透明だが重いカーテンのようなものが手に触れる。

 守られるだけというのは、なんとも歯がゆい。

 碧珠の魂縒が終わったら、もっと自在に力を使えるようになるだろうと思っていたのに、期待ハズレもいいところだ。

 でも、落ち込んでいる暇はない。


「出るぞ」


 泰蔵が引き戸を開けた。



 外に出てみると、夜風が冷たかった。

 低く押し殺したうめき声が、断続的に耳に届いてくる。涼音が、嗚咽の発作を必死にこらえているのだ。

 彼女は夕闇の中で青く輝く泰蔵と鷹彦の姿を認めるや、必死で声を振り絞った。


「……すけて、助けて……っ!」


 薄明かりに氷のような光を放つ迦陵の刃と、その刃先から少しでも遠ざかろうとして、必死に反らせている涼音の喉が痛々しくも白い。

 涼音の背後から刃を構える黒衣の迦陵は、影とほとんど見分けがつかない。ただ、凄まじい力の気配だけが、否応なくその存在を紅子たちに教える。


「炎珠の神女を連れてきたぞ」


 泰蔵は初見の黒珠に声をかけた。

「その子を放してやってくれまいか」

 こんな説得に耳を貸す相手だと思っているわけではないが、ひとまず定石を踏んで様子をうかがう。

「よかろう」

 拍子抜けするほどあっさりと、迦陵の声は言ったが、

「ただし」

 と、続けた。


「ただし……神女の周囲にある邪魔な<壁>を消してからだ」


 奇妙なほど易しい条件だった。

 何を考えているのか――だが、涼音の命を握られている以上、従うしかない。

 泰蔵はまず鷹彦に目配せをし、鷹彦が渋い顔で紅子の周囲の障壁を消す。

 目に見えない障壁のはずなのに、それが「ある」ことを示す術圧が消えたとたん、紅子は心もとない気分を味わった。

 と、ほぼ同時に、


「おじい!鷹兄ぃ!」


 突然、涼音がつんのめるようにしてこちらへ向かって駆け出した。

 迦陵が彼女を解放したのだろうか?

 と、次の瞬間、涼音の背後で、黒い死神がその鎌を大きく振りかぶる。

 次に起こるはずの惨劇から、紅子が目を逸らそうとした、そのとき。


 涼音の姿はかき消え、迦陵の刃は空を切った。


 いったい、何が起きたのか?

 涼音の姿をあわてて探せば、視界をめぐらせるまでもなく、彼女は紅子の目の前にいた。

 正確に言うと、こちらに背を向けたまま立っていた泰蔵が、いつの間にか涼音を抱えていたのだ。


「鷹彦。涼音を頼む」


 泰蔵の能力を知っているらしい鷹彦は驚いた様子もなく妹の身柄を受け取るが、対する涼音は――紅子も同じく――何が起きたかわからず、ただ呆然としている。

 意外だったのは、同じ混乱を味わっているものが、あともう一人いたことだ。

 迦陵である。

 攻撃をかわされた小さな黒衣は、しかし即座に体勢を立て直すと、つぶやいた。


「瞬間移動……いや、違うな」


 その顔は相変わらず無表情だったが、抑揚のない声に、ほんのわずかな驚きのようなものが混じっている。

 「違う」とは、何が違うのだろう。

 独言を聞きとがめた紅子が訝しく思うよりも速く、迦陵は再び動いた。


 黒衣が闇に溶ける――


 動きが速すぎて、紅子にはそうとしか見えない。

 次に彼女の目が黒衣をとらえたとき、それは泰蔵に肉迫していた。

 迦陵の右手と左手の甲からのびた刃が、それぞれ泰蔵の腹と首に吸い込まれ――だが、その動きは寸前でぴたりと止まった。

 泰蔵は己の身体の前で両腕を交差させ、二枚の刃をそれぞれ左右の親指と人差し指でつまむようにして止めていた。

「やはり」

 迦陵が言った。


「時を引き伸ばしたか」


「目がいいな」

 泰蔵が無表情に応じる。

 同時に、迦陵の刃から、ミシッ、という嫌な音が聞こえた。

 とたんに迦陵は刃を手の甲に収め、ひらりと間合いを取る。

 体勢を整え、三度、機をうかがうつもりなのだろう。

 それにしても、「時を引き伸ばす」とはどういう意味なのか?

 紅子は説明を求めて傍らにいる鷹彦に視線を送ったが、彼のほうはといえば、泣きながら「ごめんなさい」を繰り返す涼音をあやすのに手一杯で、こちらに気づく余裕はなさそうだった。

 平凡な生活ではありえないほどの恐怖と、命の危機を味わったのだ。

 無理もない。

 そんなことを思って苦笑した、そのとき。

 紅子は突然、凄絶な危機感に襲われた。

 動悸と強烈な目まい。

 夜闇に沈む周囲の景色が、さらに暗くなる。


 この感覚、前にも……?


 気づいたときには、身体が前方へ跳んでいた。

 が。

 いつの間にか鷹彦が再び張り巡らせていた<壁>にぶつかり、したたかに肩を打ってしまった。


「紅子ちゃん!?大丈夫!?」


 彼女の突然の奇行に驚いた鷹彦が声を上げる。

 痛みに呻吟しつつも、返事をしようとした紅子の声はしかし、喉の奥で止まった。

 自分が今までいた場所の空中に、黒い「裂け目」が浮かび、そこから獣のような鋭い爪を持つ手が二本、ぬっと突き出ていた。

 手は裂け目の両脇をつかみ、闇を押し広げていく。


 そして――


 凄まじい力の気配とともに、それは――あるいは「彼」は――現れた。

紅蓮の禁呪第119話「結界消失・三」

  夜になると山はその表情を一変させると人は言う。

 気むずかしく、容易に人を寄せ付けない、と。

 けれど、竜介はまるですべてを見通せるかのように身軽だった。


 薄暮の山道を、風のように駆ける。


 泰蔵の家から最寄りの結界石は、乾の滝へ向かう道にある。

 数日前、魂縒のときに通った場所だ。

 常人なら昼間でも半刻近くかかるだろう険しい山道を、彼は夕闇の中、ものの十分ほどで走破すると、目的地近くで歩を緩めた。

 呼吸の乱れもなく、気配を消した彼は木立の影と同化する。

 そのまましばし周囲を伺っていたが、何も起きない。


 てっきり、待ち伏せされてると思ったんだが――?


 訝しみながら、慎重に結界石に近づくが、相変わらず辺りは静まり返ったままだ。

 石には、一枚の紙が貼りついていた。

 墨跡も鮮やかに、漢字と幾何学紋様が描かれた和紙。青白い燐光を放っている。

 呪符だった。

 石そのものが破壊を免れていることに彼は一瞬安堵したが、次の瞬間にはむらむらと怒りが湧いてきた。


「くそっ、いったい誰がこんな……」


 苦々しくそう一人ごちながら、目の前の呪符をはがそうと手を伸ばした、そのとき。

 突然、闇の中から二本の腕が現れ、彼をうしろから羽交い締めにした。

「誰だ!?」

 とっさに振り払うと、


「キャッ!」


 という、小さな悲鳴。

 聞き覚えのある声に、驚いて背後をかえりみれば――

 最初に彼の目に飛び込んできたのは、季節外れな桜色の着物だった。

 薄暮に浮かび上がる、白い顔。

 そこには、日可理がいた。


「竜介さま……やっと、お会いできた」


 彼女はいつになくなまめかしい吐息とともに彼の名前を呼ぶと、その胸に飛び込んできた。

「日可理さん!?ちょ、ちょっと待ってくれ。どうしてここに?」

 竜介は当惑しながら日可理の肩を掴むと、自分から引き離した。

 いつもほとんど化粧気のない彼女が、今日はめずらしく口紅を塗っている。

 血の気のない白い顔の中で、真紅にきわだつ唇。

 そのどこかうつろな表情は、見知らぬ女のようだった。

 心臓が警鐘のように鼓動を打つ。

 彼女の使う呪符は、目の前のこの怪しげな呪符同様、和紙に墨で書かれていた。

 身内に気をつけろ、という黄根の忠告が脳裏をよぎる。


 気を許すな。


 竜介は日可理からさらに一歩後退して、結界石に近づいた。

「どうして……?」

 日可理は竜介の質問をおうむ返ししながら、彼が後退したと同じだけ間合いを詰める。

 それまで無表情だったその唇が、きゅうっと笑みの形を作った。


「無粋なことをお尋ねになるのね」


 竜介はそれに対して答えず、後ろ手に結界石に貼られた呪符をはがそうとした。

 結界を復活させ、紅子たちのところに早く戻りたかった。

 日可理がどういう意図で結界を消したにせよ、これ以上のことはできないだろう――そう高を括ってもいた。


 その思い込みが、一生の不覚となるとも知らずに。


 竜介の手が呪符に触れたとたん、日可理は驚くような素早い身のこなしで竜介の間合いに入ると、その手を捉えた。

 あっと思った次の瞬間、潤んだ黒い瞳が彼の間近にあった。


 日可理の顔が、白く輝く。


 ほんの一瞬だった。

 一瞬で、竜介はみじろぎどころか、視線さえ動かせなくなっていた。まるで全身が生きた彫像にでも変えられてしまったかのように。

 背中を冷たい汗が伝い落ちる。

 じりじりするような沈黙の中、彼女の動きはひどく緩慢だった。唇に笑みを浮かべたまま、ゆっくりと竜介の胸に両手を当てて頬をすり寄せる。


「わたくしたち、もっと早くこうしているべきでしたのに……」


 そう言いながら。

 桜色の袖からのびた白い腕が、白蛇のように竜介の胸をすべり、上がっていく。

 肩へ、そして首筋へ。

 日可理の顔が近くなる。

 鼻腔をくすぐる、甘い吐息。


 やめろ。


 日可理が何をしようとしているか気づいたとき、竜介は叫ぼうとした。

 だが、表情を変えることさえできないまま――

 柔らかな、けれど驚くほど冷たい感触が、彼の唇を奪った。


 * * *


 竜介と鷹彦がダイニングを出てすぐ、泰蔵は紅子の手を借りて、慌ただしく戸締まりや屋内の消灯の確認を始めた。

「わしらに気配を消すすべがない以上、こんなことは気休めにしかならんが……ま、やらんよりはいいだろう」

 日はすでに落ちて、窓から入る光はない。

 代わりに、泰蔵の身体が放つ青い光が辺りを照らしている。


「さてと、あとは玄関だな」


 彼は紅子について来るよう身振りで示すと、先に立って歩き出した。

 二人が廊下を歩いて行くと、玄関にいた鷹彦が気づいて振り返った。

 闇の中に浮かぶ、もう一つの青い輝き。

「行ったか」

 玄関の明かりを消しながら、泰蔵は鷹彦にそう声をかけた。

「はい、一番近い結界石の様子を見てくるそうです」

 鷹彦の返答に、紅子は魂縒のときに通った道を思い出しながら言った。


「ここから一番近い結界石って、乾の滝に行くとき見たあれだよね?」


 鷹彦は「そうそう」とうなずいてから、

「しっかし、やつらはどうやって結界を消したんだ?結界石のどれか一つにでも何かあれば、結界が消える前に俺らにわかるはずなのに」

 いかにも腑に落ちないという風に頭を抱えた。

 泰蔵もそれにふむ、と鼻を鳴らして同意を示し、


「わしらは結界をいささか過信していたな。まさかこんなふうに仕掛けられるとは」


 苦いものを含んだ口調で言いながら、彼は上がり框に腰を下ろして靴を履き始めた。

「お前さんたちも靴を履いておきなさい。何かあったとき、裸足では困るだろう」

 そう促されて、紅子は自分のスニーカーを履いた。

 が、紐をしっかり結び直そうとして、指が震えていることに気づく。


 ――心細い。


 竜介がいない。たったそれだけのことで、膝を抱えてうずくまりたいような気持ちになるなんて。


「そんな顔しないでくれよ、紅子ちゃん」


 鷹彦が、青い光輝に包まれた手を紅子の肩に置いて、言った。

「大丈夫。師匠と俺っちがついてる」

「……うん、ありがとう」

 そう言って、紅子が笑って見せた、そのとき。

 泰蔵が口に人差し指を当て、鋭く「シッ」と言った。

 たすけて、という微かな声と、すすり泣き。

 その場にいる全員が、知っている声だった。


 涼音の声だ。


 同時に、彼らの身体に現れた異変があった。

 首筋の痛痒感である。


「出てこい。炎珠の神女」


 聞き覚えのある声が、響き渡った。少女の姿をした、黒衣の死神。

「出てこねば、この娘を斬る」

紅蓮の禁呪第118話「結界消失・二」

  一時間ばかり前に時は戻る。

 紅子を送り届けた後、そのまま玄関先で帰ろうとした竜介と鷹彦に、泰蔵が言った。


「孫娘と水入らずというのも悪くないが、竜介はともかく、鷹彦がうちに来るのは久しぶりのことだし、どうだ、二人もうちで飯を食って行かんか」


 竜介たち兄弟は一瞬顔を見合わせてから、礼を言ってその申し出を受けた。

「お言葉に甘えます」

「とはいえ、大したものは作れないがな」

 と言いながら台所に立とうとする泰蔵のあとを、紅子が追いかける。


「手伝います」


 続けて竜介が、

「俺がやりますから、師匠は座っててください」

 泰蔵は相好を崩した。

「すまんな。冷蔵庫の中身は好きに使っていいから」

「わかりました」

 竜介はうなずくと、弟を呼んで冷蔵庫から出した二本の缶ビールを渡し、言った。

「帰りは俺が運転するから、お前、料理ができるまで師匠の相手をしててくれ」

「りょーかーい」

 食卓の椅子に腰をおろした泰蔵は、竜介の言葉を聞きとがめると言った。

「歩いて帰ればいいだろう。車ならうちに置いておいて、明日また取りに来ればいい」

「それが、実はそうも行かないんです。実は……」

 竜介は苦笑して、黄珠の場所がわかったことを伝える。

「明日の早朝の便で発つので、空港まで鷹彦が送ってくれることになってて」

「そうか、それじゃ仕方ないなぁ」

 泰蔵は落胆の表情を見せたが、


「でもまぁ、黄珠が見つかったのは何よりの朗報だ。お前さんと一緒に飲むのは、帰ってからの楽しみに取っておくよ」


 と、すぐに笑顔に戻ったのだった。

 一方、紅子は彼らの話を背中で聞きながら、先に何か簡単なつまみを作ろうと冷蔵庫を開けた。

 そこには、とても年寄りの一人暮らしとは思えない量の食材が詰まっていた。

 しかも、あまり日持ちのしそうにないものもちらほらある。


 あたし、もしかしてものすごく食べると思われてる――?


 食事の支度が始まってから、紅子は竜介に冷蔵庫の中身のことを話した。

「この前ここに来たとき、あたしそんなに食べてた?」

 すると、彼はくすっと笑って言った。


「そうじゃなくて、師匠は最初から俺と鷹彦も夕食に誘うつもりだったんだよ」


 ええっ、と紅子は小さく声を上げた。

「竜介たちにこのあと予定があったら、どうするつもりだったんだろ」

「ああ、それは大丈夫。俺たち、ここに来るときはあとに予定を入れないようにしてるから」

 特に、師匠の奥さん――初江おばさんが亡くなってからはね、と彼は言った。

「今日も予め滝口さんに夕飯はいらないって言ってある」

「そうなんだ……」

 紅子は肩越しに、ダイニングテーブルのほうをちらりと見た。

 鷹彦とビールを飲んでいる泰蔵は楽しそうだ。

 八千代の死後、家で留守番をしながら一人で食事をする機会が増えた紅子には、泰蔵の心中がよくわかった。

「あたしの父方のおばあちゃん、初江さんって言うんだね」

 湿っぽくなりそうな気持ちを振り払うように、紅子は言った。

「どんな人だったの?」

「しっかり者で気っ風の良いおかみさん、て感じかな」

 と竜介。

「怒るとおっかない人で……そういえば、八千代おばさんと少し雰囲気が似てたよ」

「へええ。会ってみたかったなぁ」

「あとで師匠に写真を見せてもらいなよ」

「そうだね。頼んでみる」



 久しぶりに賑やかな食卓に、泰蔵は上機嫌だった。

 昏睡から醒めずに心配していた紅子も無事に意識を取り戻し、黄珠の場所もわかった。

 良いニュースばかりだ。

 おまけに、テーブルの上にはさっき、「料理ができるまで、こちらどうぞ」と紅子が持ってきてくれたつまみの盛り合わせがある。


 ことと次第によっては一生会えないかもしれないと思っていた孫娘に、手ずから酒肴を給仕してもらう日が来ようとは――


 感無量である。

 こんなにビールをうまいと思ったのは、いつ以来だろう。

 泰蔵は空いたグラスにビールを注ごうとして、中身が空なのに気づいた。

 もう一本のほうも空っぽなのを確かめ、少しペースが早すぎたかと苦笑する。

「鷹彦、悪いが冷蔵庫からもう一本……」

 取ってきてくれないか、と言いかけて鷹彦を見れば、彼は何やら浮かない表情で台所を眺めていた。


 何だ?


 泰蔵が訝しみながら視線の先を追うと、そこにあったのは談笑しながら並んで料理をしている、竜介と紅子の後ろ姿。

 なるほどな――

 泰蔵は声に出さずにつぶやいた。

 竜介と紅子の二人に関していえば、この前は随分派手な喧嘩をしていたのが、仲直りしたようでよかったとは思っていたのだが。


 何やら、ことは複雑になりつつあるようだ。


 とはいえ、紅子が誰を選ぶにせよ、竜介と鷹彦がそれを理由に決裂するようなことはあるまい。

 それよりもずっと厄介なのは、と泰蔵は思う。

 紅子が選んだ相手に対して、黄根の御仁がどう反応するか――


「おい、鷹彦」


 泰蔵が肩に手を置いて呼びかけると、鷹彦はびくっとして振り向いた。

「えっ、あっ!」

 目の前の空いたグラスを見て慌てる。

「すみません、すぐに新しいのを……」

 と立ち上がりかける彼を制して、泰蔵はカップボードから焼酎の瓶を取り出して見せた。


「そろそろこういうのに切り替えんか」


「いいすね。俺、氷取ってきます」

 鷹彦は台所へ行くと、冷凍庫から氷を取り出しながら竜介と紅子に何やら話しかける。

 何と言っているのかこちらまでは聞こえてこないが、三人が笑い合うのを泰蔵は微笑ましく眺めた。

 黄根が何をどう思うにしても、それはまだ先のこと――そう思いながら。


 未来のことを心配してもきりがない。誰もがそう思っていた。


 なぜなら、未来は思いもかけない形で、ある日突然その姿を現すのだから。

 そして――

 本当にその瞬間は、何の前触れもなく訪れた。

 紅子はその違和感を、一瞬の停電のようだと思った。

 室内は変わらず明るく、照明器具の不具合はない。

 ただ、空気が変わった。


 結界が、消えたのだ。


 紺野家の結界は、一度にすべての結界石を破壊しない限り消えない。そして、結界石のどれか一つにでも異変があれば、竜介と鷹彦にわかる。

 そのはずだった。なのに――

 予想だにしなかったことが突然現実となり、呆然とする四人の中、真っ先に行動を開始したのは竜介だった。


「師匠、鷹彦と紅子ちゃんを頼みます」


「お、おう」

「鷹彦、紅子ちゃんの周りに〈壁〉を作ってくれ」

 そう言うや、足早に玄関に向かい始める兄の後を、鷹彦は慌てて追いかける。

「了解、って、どこ行くの!?」


「ここから一番近い結界石!何かわかったら、携帯に連絡する!」


 竜介は肩越しにそう叫び返すと、靴を履くのももどかしく、玄関を飛び出した。

 たそがれ時も終わりに近づく、闇の中へ。

紅蓮の禁呪第117話「結界消失・一」

  同日、紅子たちが泰蔵の家に着く頃。

 涼音は紺野邸から見て南西の方角にある森にいた。

 電話の相手から渡された、なんだかわからない模様が描かれた紙を「石」に貼ってまわるためだ。

 本来ならまだ部活の時間だが、用事があるからと嘘をついて休んだ。

 「石」は六個もあるらしい。どれくらいの距離を移動することになるかわからないので、通学カバンなど余計な荷物は自室に置いてきたが、そのためにはちょっとしたスリルを味わわねばならなかった。

 家族――今、家にいるのは虎光と英莉だけのはずだ――に見咎められたとき、いつもより早く帰宅した理由についてうまい嘘をつける自信がないので、なるべく二人に出くわさないよう、庭を周って濡れ縁から自室に入ったのだ。

 再び無事、自宅の門を出たとき、涼音の心臓はドキドキと早鐘を打っていた。

 よく考えてみたら、こんなふうに家族の誰にも内緒で何かをする、ということが自分には今まで一度もなかった。


 誰にも知られてはならない、秘密のミッション。


 ややあって気持ちが落ち着いた頃、

 さて、ここからどこにどう行けばいいんだろう――

 そう考えた瞬間、見計らったように携帯に着信があった。

 見慣れた番号。


『最初は、一番楽な場所から始めましょう』


 そう言って、涼音が大嫌いないつもの声は、道案内を始めたのだった。

 まるで涼音が今まさに見ている景色が見えているかのように、的確な道案内。

 声の言う通り、最初の「石」は家からさほど遠くない平坦な木立の中にあって、すぐに見つかる「楽な場所」にあった。

 四つの側面に牙をむく怪物の顔が浮き彫りになった、気味の悪い石の柱。

 電話の声に言われるまま、封筒から出した和紙の短冊を一枚出してその石柱に近づける。

 すると、墨で模様が描かれた紙は、吸い付くように石柱に貼り付いた。

 そこには、涼音が知っている世界とは相容れない、異質な何かによる力が確かに存在していた。


 何か冷たく不快で、恐ろしい力が。


 涼音は得体のしれない罪悪感に襲われたが、電話の声に急かされて、気がつくと次の石柱の場所へと向かっていた。

 楽だったのは、この最初の一枚だけだった。

 残りの五枚を貼って回るのはかなり――いや、相当に骨の折れる仕事だった。

 石柱と石柱の間隔は、直線にしておよそ五、六百メートルくらい。全行程を足してもほんの三、四キロメートルというところなのだが――

 問題は、その間を結ぶ道が、密生する木々にほとんど埋もれた獣道だということだ。

 アップダウンの厳しさもさることながら、土から張り出した木の根に足を取られ、生い茂る枝が行く手を遮る。


 まるで森が、涼音に先へ進ませまいとしているかのように。


 晩秋の日没は早い。

 空にはまだ明るみが残っているというのに、木々に阻まれて日差しの届きにくい山中はどんどん暗くなっていく。

 街灯もない山の中で迷子になるなんて御免だ。なんとかして、真っ暗になる前にすべてを終わらせなければ。

 涼音は必死になって、文字通り道なき道を進んだ。

 つまづき転び、木の枝に引っかかれ、膝や頬に血をにじませながら。

 そして今――封筒の中に残っている和紙は、あと一枚。

 だが、もう辺りは暗く、足元が見えない。

 涼音は肩で息をしながら携帯に話しかけた。

「最後の一枚は、明日でもいいだろ?」


『だめよ』


 電話の声は冷たかった。

『一日延ばせば、その分、あの二人は今日より親密になるのよ』


 あなたはそれでいいの?


 涼音の脳裏を、紅子の顔がよぎる。

 竜介と見つめ合っていたときの横顔。

 彼のことが好きなのかと訊かれたときの、あからさまにむっとした顔。

 涼音はかぶりを振り、疲れた足を闇の中に踏み出した。


 こんなことで、本当に紅子を竜介から引き離すなんてできるのだろうか?


 そんな疑念が頭をもたげる。

 けれど、他に方策などあるはずもない。

 親密になっていく二人をただ眺めるしかない無力さをただ味わうより、たとえ気に入らなくとも、電話の声に唯々諾々と従うほうが、そのときの涼音にはずっとましに思えたのだ。

 自分のしていることの意味さえ知らずに。



 最後の石柱は、木立の中で埋もれていたこれまでのものと違い、ひときわ開けた場所にあった。

 石柱のそばは切り立った崖で、その向こうには街の灯がちらちらと瞬いている。

 が、疲れ切った涼音はそんな夜景などには目もくれず、石柱に近づくために、柵代わりに置かれている丸木を乗り越えて崖のほうへ出た。

 封筒から、最後の紙片を取り出す。黒々とした墨書。


 これでおしまい。家に帰れる。


 早く終わらせて、帰りたい。

 そう思うのに、なぜか身体が動かない。


『どうかなさって?』


 電話の声が言う。

 こちらを気遣っているのではない、いらついた声。

『早く終わらせておしまいなさいな』

 涼音は荒い呼吸を縫うようにして訊いた。


「ねえ、これって……本当に意味あるの?」


 一瞬の沈黙の後、相手はくすくすと笑いだした。

『今更、何を言うかと思えば……』

 冷たい嘲笑。

『意味があるかどうかは、その最後の一枚を使ってみれば、すべておわかりになってよ』

 声の言う通りだった。

 涼音は手の中にある紙片に目を落とす。

 これで、わかるのだ。

 この一時間あまりの自分の行動に、意味があったのか否かが。

 それなのに、身体が言うことをきかないのはなぜだろう。


 してはいけないことをしようとしている――そんな気がする。


 山中を歩き回ったせいではない、もっと冷たい、いやな汗が背中を伝い落ちる。

『さあ』

 耳元で急かす声。

 本当に、いいの?

 自分の心に尋ねてみても、答えは返ってこない。


『早く』


 身体が震えているのは、冷え込んできたから。

 息が整わないのは、疲れているから。

 怖いからじゃない。怖くなんかない。

 涼音は心の迷いを振り切ろうとするかのようにかぶりを振ると、目の前の岩を見た。

 震える手を、ゆっくりとのばすと――


 最後の一枚が、手を離れ、その奇妙な石柱に吸い付いた。


 一秒、二秒。

 何も起こらない――目に見えるような、劇的な変化は、何も。

 拍子抜けした涼音が、思わずその場に座り込みそうになった、そのとき。


「ご苦労さま」


 すぐそばで、声が聞こえた。

 涼音は反射的に電話を耳に当てたが、それはすでに切れており、ツーという信号音だけになっている。

「あなたのすぐ後ろですわ」

 慌てて振り返って見れば、背後の雑木林から、声の主がまさしく姿を現すところだった。


「どうして……?」


 いつの間に。いつから、そこにいたの。

 そう尋ねようとした、涼音の声はしかし、そこで途切れた。

 姿を現した電話の相手。彼女は一人ではなかった。

 その背後の闇がふくれあがり、二つの影を生む。

 一つは涼音と同じくらいの、小さな影。

 それは昨日、封筒を渡しに来た黒衣の少女だった。

 そして、もう一つは――


 見たことのない、男だった。


 背が高く、黒い巻毛に縁取られた白い顔は、息を呑むほど美しい。

 それは黒い甲冑のようなものを着ている彼の出で立ちの異様さを、帳消しにして余りあった。

 が、涼音はなぜか、彼の美しさに凍てつくような恐怖を感じた。

 一歩、二歩と、思わず後退しようとして足下を確かめれば、地面はあとほんの数メートル先でぷっつりと途切れている。

 そこから先にはただ、闇が広がるばかり。


「なぜ逃げるの?」


 笑いを含んだ声がすぐ耳元で聞こえた。

 驚いて涼音が振り向くと、そこには大輪の白菊のように美しい顔があった。

 涼音の大嫌いな顔。

 それが光輝を放った瞬間――

 涼音の意識は、闇に飲み込まれてしまったのだった。

紅蓮の禁呪第116話「心の迷宮・十」

 紅子は自室に戻る途中、約束通り英莉に風呂から出たことを伝えるために台所に寄った。

「なかなか上がってこないから、様子を見に行こうかと思っていたところよ」

 滝口と夕飯の支度をしていた英莉はそう言って作業の手を止めると、エプロンで手を拭いながら紅子のそばにやってきた。
 遅くなったことを謝ると、
「何かあったの?湯あたりしてない?」
 大丈夫です、と紅子はかぶりを振った。
「ちょうど……竜介、さんに会ったので、泰蔵おじいさんのところへ移る日取りの話とかしてて遅くなったんです」
 竜介をさん付けで呼ぶことには、まだ慣れない。
 英莉は、そうだったの、と安堵の笑みを浮かべてから、少しためらいがちにこう尋ねた。

「変なことを訊くけど……あの子、お酒臭くなかった?」

 紅子が眉をひそめてうなずくと、英莉は苦笑した。
「ごめんなさいね、不愉快だったでしょ?」
「気にしてません」
 英莉と滝口におやすみなさいを言って、紅子は台所を後にした。
 気にしてないなんて嘘だ。さっきからむかっ腹が立って仕方ない。
 夢は、結局ただの夢だったのだ。

 現実の竜介と夢で見た彼は別人だ。

 でも――
 と、頭の中にいるもう一人の自分は必死に彼を弁護する。
 お酒を飲まずにいられないような理由が、何かあったのかも――
 浴室の前でのことを改めて思い返す。
 あんな夢を見た直後だったから、竜介のことを意識しすぎて自分の態度がおかしくないかどうかということにばかり気を取られていたが、そういえば、彼もいつもより口数が少なくて、どこかぎこちない感じだったような――?
 そんなことを考えながら廊下を歩いて行くと、紅子が使っている客間の襖にもたれる人影が見えた。
 校名の入ったジャージ。

 涼音だ。

 風呂で充分温まっていたはずの身体が、つま先からすうっと冷えていくのを紅子は感じた。
 英莉や竜介から、あたしの部屋には近づくなと言われているはずなのに、いったい何の用だろう。
 凉音は部屋のはるか手前で立ち止まったままの紅子の姿を認めると、襖にもたれていた身体を起こした。
「オマエに訊きたいことがあるんだ」
 廊下の向こうから、涼音が言った。
 相変わらずお前呼ばわりかと思いつつ紅子が黙っていると、彼女はしばしためらってから、こう続けた。

「……竜介のこと、どう思ってる?」

 唐突で不躾な質問。
 そもそも機嫌がよくなかったところへ、心の最奥部に土足で踏み込むようなことを訊かれ、紅子は精神的不快指数が跳ね上がるのを感じた。

「あたしが竜介のことをどう思っていようと、あんたには関係ないでしょ」

 その時の紅子に可能な限り穏便な返答だったのだが、凉音は引き下がらなかった。
「関係なくないから訊いてるんだけど。好きなの、どうなの?」
「答えたくない」
 ぴしゃりと拒絶すると、涼音の顔が険しくなり、紅子は思わず身構える。
 だが、彼女はこちらへ近づいては来なかった。
「わかった。もういい」
涼音はくるりときびすを返すと、肩越しに抑揚のない声で言った。

「さよなら」

 * * *

 涼音は自室に戻ると、廊下に人の気配がないことを確かめ、襖を閉めた。
 次いで、勉強机の上の充電器に立てかけてあった携帯電話を取り上げる。
 相手はワンコールで出た。
「さっきの件だけど」
 涼音は言った。

「明日、学校が終わってから、やるよ」

 相手の返事を待たず、それだけを言って電話を切る。
 充電器の隣には、B5サイズの白い封筒。
 あの奇妙な黒い少女から受け取ったものだ。
 帰宅直後に思いがけず目撃した光景が、凉音の脳裏によみがえる。
 ひとけのない廊下で見つめ合う、竜介と紅子。

 あんな目で、竜介が誰かを見るなんて――

 涼音は何かを振り切ろうとするかのように頭を振ると、封筒を手早く通学鞄に入れた。
 その先に待つのが、戻れない道だと知らずに。

 * * *

 翌日。
 泰蔵の家までは、山越えではなく車で行くことになった。理由は簡単、紅子のスーツケースを運ぶ必要があるからだ。
 紺野家の結界を一旦出ることになるので、午後の早い時間に移動することが決まった。
 同行するのは竜介と鷹彦で、運転は鷹彦。
 昼食後、英莉と虎光に手伝ってもらって荷物を玄関先まで運び出すと、待っていた竜介と鷹彦がそれらを前庭に停めた車――虎光の四躯――のトランクに詰めていく。
 なんだか懐かしい光景だ。
 竜介が笑って言った。

「東京を出発したときを思い出すね」

 車は屋敷を出ると、一旦市街地に出た。
 車窓を流れる景色を眺めながら、紅子は涼音の下校前に紺野家の屋敷から離れることができてよかった、と思った。顔を合わせてまたトラブルになるのは御免だ。
 ただ、昨夕の態度や、なぜあんな質問をしたのかは、あの後もずっと気になっていた。
 誰にも相談できない話だから、余計に頭にひっかかる。

 ひっかかることといえば、もう一つ。

 隣に座っている竜介は、運転席の鷹彦と他愛のない冗談を言い合ったりして笑っている。
 昨夕、酒の匂いをさせていたことなどすっかり忘れたかのようだ。
 些細なことなのに気になるのは、それがやっぱり竜介らしからぬ行動に思われるからだろう。
 理由を知りたい。
 英莉も酒を飲んだ理由については何も弁解しなかったのは、逆に「彼が飲みたくなるような何かがあった」という証拠では――?

「紅子ちゃん、なんか怒ってる?」

 信号で車を停止させたとき、鷹彦が運転席からこちらを振り返って訊いた。
 紅子がずっと黙ったままなのが気になったらしい。
 隣を見ると、竜介も困ったような笑みでこちらを見ている。
 夢の中で見た、あの表情で。

「怒ってない」

 紅子が窓の外に視線を戻して言うと、竜介の声が追いかけてきた。
「女の子の『怒ってない』は信じるとあとでひどい目に遭うって相場が決まって」

「意識が戻って、これでよかったのかなって考えてたの。それだけだよ」

 彼の言葉を遮るようにして紅子が言うと、車内は一瞬、沈黙に包まれた。
 運転席の鷹彦が身じろぎして、斜め後ろの竜介と何か目配せをする気配。
 ややあって、信号が青に変わり、鷹彦が車を発進させると、それが合図だったように竜介が口を開いた。

「実は、そのことで昨日、黄根さんから連絡があってね。黄珠の場所がわかったんだ」

 紅子は驚いて竜介を振り返った。
「本当!?」
 彼はうなずいた。
「明日、受け取りに行く。移動は昼間にしたいから、帰るのは明後日だな」
 黄珠の場所がわかった。
 目の前が少し明るくなった気がする。
 酒の件はまだ少し気になるけれど、それでも今は素直に、夢の中の竜介の言葉を信じて戻ってきてよかったと、紅子は思ったのだった。
 一方、竜介は朋徳の言葉を思い出していた。

 取りに行くがいい。貴様らにその時間があれば、だが――

 時間なら、まだある。
 誰もがそう信じていた。

紅蓮の禁呪第115話「心の迷宮・九」

  時間は少し戻る。


 虎光の部屋を出たあと、竜介は台所に寄ってグラスを片付けると、ちょうどやってきた滝口に夕食はいらないことを伝えて自室に戻った。

 泰蔵と連絡を取るために机の上の携帯を取ると、着信が一件あった。


『竜介さん、僕です……少し困ったことが起きてしまいました』


 留守番サービスに吹き込まれていた志乃武の声は、珍しくせっぱ詰まっていた。

『すみませんが、折り返し僕の携帯に連絡をください。できれば、至急で。お願いします』

 着信時刻は今から三時間ほど前。

 ちょうど、黄根老人を出迎えていた頃合いだろうか。


 家の電話にかけてくれていたら、斎さんか滝口さんが取り次いでくれたろうに――


 至急、と言うわりには回りくどいやり方に、竜介は眉をひそめた。

 他の人間に知られたくないことなのだろうか?

 ややこしい問題でなければいいが――

 志乃武の携帯を呼び出すと、相手は電話を握りしめて待ちかまえていたかのように、たった一回のコールで出た。

 竜介が連絡が遅くなったことをわびると、その言葉をほとんどさえぎるようにして志乃武の憔悴した声が早口で言った。


『そちらに、日可理から何か連絡は入ってませんか』


「日可理さんから?いいや」

『実は三日くらい前から、日可理の様子がおかしくて』

 曰く、話しかけても上の空で、ぼんやりしていることが増えた。

 どこか具合が悪いのかと尋ねても、別にどこも悪くないという返事。

 さらに、行き先も告げずに忽然と屋敷からいなくなったかと思うと、いつの間にか自分の部屋に戻っていたりする。


『どこへ行っていたのかと訊いても、笑うだけで答えないか、逆に、自分は今どこかに出かけていたのかと聞き返してくるんです。……どうも記憶がときどき飛ぶらしくて、そのことを僕に不安そうに相談してきたかと思うと、次の瞬間には無表情になって自分の部屋に戻ってしまったり』


 日可理はあまり冗談を言ったりふざけたりするたちではない。

 それに、彼女の表情はとても嘘をついているようには見えなかった、と彼は疲れた声で言った。


『実は今日、病院で詳しい検査を受ける予定だったんですが……朝の九時ごろ部屋まで迎えに行ったら、中はもぬけの殻で、それきりまだ何の連絡もないんです』


 部屋に携帯がないので、持って出ているはずなんですが、何度呼び出しても留守電のままで――

「わかった。もし日可理さんから何か連絡があったら、知らせるよ」

 竜介はそう言って携帯を切ると、ため息をついた。

 元から浅かった酔いは完全に醒めている。

 そのせいだろうか、室内の気温が一度低くなったような錯覚に襲われて、彼は身震いを一つした。

 心配は心配だが、さしあたって今の自分にできることなどないに等しい。

 とりあえず、あとで一度、日可理さんの携帯にこちらからかけてみるか。

 何かの拍子につながるかもしれないし――

 そんなことを考えながら机の上に置いた携帯を眺めていると、ほとほととふすまを叩く音がした。


「竜介さん、ちょっといい?」


 英莉の声。

 竜介は一瞬、まずいなと思ったのだが、返事をしないわけにもいかない。

「どうぞ」

「夕食はいらないって、滝口さんから聞いたけど……」

 ふすまを開けて顔をのぞかせた英莉は、そう言って部屋の空気をひと息吸ったとたん、すべてを察した顔になった。

 しばし気まずい沈黙の後、彼女は小さくため息をついた。


「……黄根さんがいらしてたことは、斎さんから聞いています。でも、お酒で憂さを晴らすのはあまり感心しませんよ」


 改まった口調は、英莉が腹を立てているときの癖だ。

 昼酒の原因を黄根への心理的わだかまりによるものと彼女は思っているらしい。

 その誤解に、竜介は妙な安堵を覚えた。


「ごめん、母さん」


 神妙な顔で謝ると、英莉はふっと口元を緩めた。

「あまり心配させないでちょうだい」

 竜介も笑顔を返す。

「ところで、紅子ちゃんは?」

「ご飯を食べ終わって、お風呂に入りたいって言うから、お風呂場まで送って行ったところよ。長湯しないように言っておいたから、あと20分くらいで出てくるんじゃないかしら」

「思ったより元気そうでよかった」

 英莉もにっこりしてうなずいた。

「ホントにね。黄根さんがいらしたと聞いたときは、正直言って何が起きるかヒヤヒヤしたけど、お孫さんが心配だったのね」

 それだけのために来たわけじゃなさそうだったけどな、と竜介は心中でつぶやいてから、

「黄根さんが来たこと、紅子ちゃんには?」

「まだ言ってないわ」

「俺から話すから、しばらく伏せておいて」

 英莉はうなずき、

「それと、紅子さんを泰蔵さんのところへ送っていく日取りだけど……」


「紅子ちゃんの体調さえよければ、明日でどうかな」


 竜介は言った。色々な意味で、あまり日延べをしたくない。

「師匠には俺から連絡しておくよ」

「お願いね。他の人たちには、黄根さんの件と一緒に、私から伝えておくわ」

 英莉は踵を返しかけてから、思い出したように「そうそう、」と付け加えた。

「もし休むなら、せめてお風呂に入ってからにしなさいな。身体が冷えたままだと眠りが浅くなるわよ」



 ふすまを閉めた後、竜介は再び携帯を手に取った。

 泰蔵は思ったよりすぐに電話に出て、紅子が意識を取り戻した知らせを喜んだ後、明日の夕刻以降ならかまわない、と返答した。

『家政婦さんが来てくれるのは早くても明後日以降になるだろうが、まあ孫と二人で食事作りも悪くない。なんとかするさ』

 朋徳が来ていたことは話さず、竜介はただ

「急なことですみません」

 とだけ謝った。

 電話を切って時計を見ると、英莉がここに来た時刻から30分近く経っていた。

 英莉に勧められたからというだけでなく、この長過ぎる一日の締めくくりに風呂でゆっくり身体を温めてから休むというのは、なかなかいい考えに思われて、竜介は浴室に向かうことにした。

 浴室はさすがにもう無人になっているだろう。

 そう思っていたのだが――

 浴室の引き戸に手をかけようとしたそのとき、いきなりそれがガラリと開き、中から小柄な人影が出てきた。

 温かな湿り気を含んだ空気と、せっけんの匂い。


 紅子だった。


 竜介も驚いたが、むこうもかなり驚いたようだ。大きな瞳がさらに大きく見開かれてこちらを見ている。

 彼女の頬が上気しているのは、風呂上がりだからだろうか?

 廊下は静かだった。

 静か過ぎた。

 がんがんと早鐘を打っている自分の心臓の音だけが、耳元に響いている。

 相手にも聞こえるのではと思えるほど、大きく。

 どれくらい、そうやって互いの顔をまじまじと見つめ合っていただろう。


 何か話さないと。


 この心臓の音を消さないと。

 そう思いながらも、言葉が何も浮かんでこない。

 口蓋に貼り付いた舌をどうにかはがし、


「……意識が戻ったんだな。よかった」


 できる限り、いつもどおりに。できる限り、さり気なく。

 紅子も我に返った様子で、竜介の顔から目を逸らすと、

「うん」

 素っ気ない返事だけが返ってきた。

「体調はどう?」

「元気だよ」

 会話が途切れた。

 ほんのわずかな沈黙が、ひどくいたたまれない。

「あの……」

 二人はほぼユニゾンで言った。

「何?」

 竜介が訊くと、紅子は落ち着きなく視線を泳がせる。

「いや、その……そこ、どいてくれないと、あたし出られないんだけど」

 彼は苦笑した。

「悪い」

 そう言って、出入り口をふさぐように立っていた自分の身体を一歩退き、紅子を廊下に出してやる。

 湿った髪から立ちのぼる、甘い香り。

 彼女はこちらをちらりと一瞥して、「で?」と言った。

「竜介は何言おうとしたの?」

「師匠のところへ移る日取りだけど」


「早いほうがいいんでしょ。明日でもいいよ」


 紅子は即答した。

 こういう決断の早さは助かる。

「師匠が、明日の夕方以降なら構わないって」

「じゃあ、それで」

 そう言って踵を返す間際、彼女はすん、と鼻を鳴らし、あからさまに顔をしかめた。横目でこちらをひと睨みしたかと思うと、


「お酒くさい」


 それだけ言い捨てて足早にその場を立ち去る。

 竜介は一瞬、その手をつかみ、引き留めたい衝動にかられた。

 引き留めて、なぜ自分がこんなときに酒など飲んだのか、その理由をすべて話せたら。

 この気持ちをすべて、吐き出すことができたら――

 嫌われているくらいでちょうどいいなどと思っていた少し前の自分を思い出し、竜介は一人、苦笑する。

 脱衣室には、紅子の甘い香りがまだ、かすかに残っていた。

紅蓮の禁呪第114話「心の迷宮・八」

 「紺野涼音、だな?」

 その少女――少なくとも、涼音にはそう見えた――は、そんなふうに、声をかけてきた。

 ぎりぎり肩にかからない長さに切りそろえられた、まっすぐな黒髪と、抜けるように白い肌、赤い唇がそう思わせたのかもしれない。

 一瞥して、変な子、と涼音は思った。

 身長は自分と同じくらいなのに、顔立ちや言葉遣いが奇妙に大人びている。

 長い前髪の奥で鋭い光を放つ切れ長の黒い目は、まるで老人のようだ。

 服装も、奇妙だった。

 小雨がぱらつく寒い日だというのに、身にまとっているのは身体の線が見て取れるほど薄い黒衣だけ。

 その体型は皮肉なまでに涼音と似ていて、華奢というにはあまりに細く、女性らしさのかけらもなかった。

 奇妙なことは、まだあった。

 少女は、傘を持っていなかった。

 なのに、その髪も服も、まったく雨にぬれていなかったのである。



 放課後だった。

 雨でグランドが使えないため、部活は柔軟に筋トレ、それに校舎の廊下を使った走り込み程度で終わってしまった。

 だから、学校を出る時刻としてはいつもより早いのだが、天候がよくないせいか、外は既に薄暗く、友人たちと別れた後、涼音は何となく急ぎ足になった。

 徒歩で二十分あまりの距離が、今日はやけに遠く感じる。

 暗くて心細いから早足になるだけで、別に家に帰りたいわけじゃない、と、彼女は自分で自分に言い訳をした。

 家に帰っても最近はちっとも面白いことがない。


 あの紅子とかいうのが家に来てから、ずっと。


 大事なお客さんだということは、母親の英莉から何度も聞かされている。

 だけど、気に入らない。

 あの長い髪も、きれいな顔も、何もかも。

 兄たち、とくに竜介があの子に気を遣うのは、もっと気に入らない。

 小さいときから、自分のことをお姫様のように大切にしてくれた、大好きな兄。

 すらりとした長身で、顔もスタイルもいい、自慢の兄。

 竜介に会ったことがある涼音の友達は、皆一様に彼を「かっこいい」とほめ、涼音をうらやましがったものだ。

 たまに「似てないね」と言われることもあったけれど、竜介は母親似で、自分は父親似なのだろうと思っていたから、気にしたことなどなかった。

 英莉が実は後妻で、兄たちと自分とはいわゆる「異母兄妹」なのだということを知ったのは、中学一年のとき。

 家で大きな法事があり、そのときに両親――普段は東京で仕事をしている父も帰ってきていた――から教えられた。

 その法事は、竜介たちの母親である美弥子の十三回忌だった。

 両親は、集まった親戚連中の話を聞いて涼音が妙な誤解をするよりは、先に事実を教えてしまおうと思ったようだ。

 兄たちと自分の母親が違う、ということはもちろんショックだったが、そのことは同時に、もしかしたら、自分と竜介は血がつながっていないのではないか、という、淡くも愚かな期待を涼音に抱かせた。

 もっとも、そんな期待は、


「おまえが生まれてすぐDNA鑑定をしたから、間違いない。おまえはわたしの娘だ」


 という父の言葉に、あっけなくついえてしまったのだが。

 家に連れてきた女友達を涼音が牽制しても、竜介は苦笑するだけで許してくれた。

 だから、たとえ兄妹でも、彼にとっての「一番」は自分なのだとずっと自負してきた。

 なのに――


 紅子に関しては、今までと勝手が違う。


 殴ったのは悪かったと自分でも思っている。

 だが、涼音でさえ「勝手に入るな」と言われている竜介の部屋に、紅子がしれっとした顔で出入りしているのを見かければ、誰だって頭に血がのぼるというものだ。

 涼音には涼音の言い分がある。

 それなのに、竜介はそんなことを聞くそぶりさえ見せてくれなかった。

 いつもの竜介なら、少ししょげた顔を見せるだけで、仕方ないなというように表情を和らげ、頭をくしゃっと撫でてくれるのに今回はそれもなし。

 こんなこと、今までなかった。


 竜介は変わってしまった――知らない男の人みたいに。


 その紅子が魂縒を受けて眠り込んでしまってから、今日で二日目。

 家の中はお通夜のようだ。

 竜介の沈んだ顔を見るのはつらい。

 でも、もういっそこのまま紅子の目が覚めなければいいのに、などとも思う。

 そして、そんな自分がいやになる。

 わかってる、いつまでも自分だけの竜介でいてもらうなんて無理。

 でも、もう少しだけ、ほんの少しだけ、彼の「お姫様」でいたい。

 本当に、それだけだったのに。



 長い築地塀のむこうに見慣れた門が見えてくると、涼音は足が急に重くなったような錯覚に捕らわれた。

 紅子が目を覚ましていたら、どうしよう。

 竜介からは、紅子に会ったらちゃんと謝っておくようにときつく言われている。

 でも、あの子に頭なんか下げたくない。

 あとから割り込んできたのは、あの子なのに。

 ともすれば止まりそうになる足を、忍び寄る寒気から逃れるため懸命に動かしながら、深いため息をつく。

 と、そのときだった。

 見知らぬ少女が、突然、声をかけてきたのは。

 涼音の視界に入るかぎり、周囲に人影などなかった。

 にもかかわらず、その奇妙な少女は、たしかにそこにいた。

 涼音は驚きのあまり返事もできずにいたが、少女は質問の答えを期待してはいなかったらしく、手に持っていた白い封筒を彼女に差しだし、言った。


「これを」


 相手の雰囲気に呑まれたまま、涼音は差し出された物を受け取る。

 その封筒はちょうど大学ノートくらいの大きさで、裏も表も真っ白なまま、宛名も差出人も書かれていなかった。

 もちろん、中身の説明なども、ない。

「たしかに渡したぞ」

 わけもわからず、ただ呆然と封筒に視線を落とす涼音の耳に、少女の満足げな声が聞こえた。

「え?」

 慌てて視線を上げる。

 だが、時既に遅く――あの黒い少女の姿は、もはやどこにもなかった。


 まるで、闇が人の形をとって現れ、ふたたび闇に戻ったかのように。


 説明も何もなく、ただ手渡された差出人不明の封筒は厚みもさほどなく、振っても音がしなかった。

 封緘もされていなかったので、涼音は思い切って中を開けて見た。

 中身は、和紙でできた大きめの短冊のような紙片が六枚。

 いずれも複雑な幾何模様が、墨で黒々と描かれている。


 こんなもの、どうしろというのだろう――


 意味が分からずに呆然と立ちつくしていると、今度は突然、電子音が鳴り響いた。

 不意をつかれ、涼音は思わず小さな悲鳴をあげたが、携帯の着信音だということに気づくと、急いで通学鞄を開く。

 薄暮の中、携帯の液晶だけが青白く光る。

 そこに浮かび上がる発信者の名前を見て、涼音は通話ボタンを押した。


『呪符は、受け取っていただけたかしら』


 涼音が何か話す前に、相手の声が聞こえた。

 なぜ、自分が受け取ったことを知っているのだろう。

 涼音は声の震えを悟られないよう、できるだけ堂々とした口調で尋ねた。


「……これ、どうすればいいの」


『あなたのお屋敷の敷地に、岩があるわ。不思議な……模様が刻んである』

 涼音が嫌いな、きれいな声。

『岩は全部で六つ。その岩に、一枚ずつ、貼っていっていただきたいの』

 ちょっと手間だけれど、やっていただけて?

「貼ったら……どうなるの」

 電話のむこうで、ふっと笑う気配がした。

 わかっているくせに、と言わんばかりに。


『消えるのよ』


 その声は優しいのに、涼音の耳には、なぜか寒々として恐ろしく響いた。


『邪魔者が』



 少し、考えさせて……。

 電話はそう言って切れた。

 何を考えることがあるのだろう?

 きっと、あの子もすぐに気づく。

 迷う事なんて、何もないと。

 彼女はツーという信号音だけになってしまった携帯を閉じると、それをいとおしい物のように両手で抱いた。

 赤い唇から、溜息がもれる。

 もうすぐ、会える。

 愛しいあの人に。

紅蓮の禁呪第113話「心の迷宮・七」

  死にそうなくらい凄まじい喉の乾きと空腹とともに目が覚めた。

 枕元にいたのは英莉と鷹彦で、そのことに紅子はほっとした。

 もし枕元に竜介がいたら、どういう顔をしたらいいのかわからなかっただろう。

 英莉の目は潤んでいて、心底安堵したというように息をつくと、


「よかった、目が覚めたのね……」


 そう言って言葉をつまらせた。

 続けて鷹彦が言った。


「紅子ちゃん、二日も眠ってたんだぜ」


 夢の中で竜介が言ったことは本当だったということだ。

 英莉は人差し指でさりげなく目頭を拭いながら、尋ねた。

「気分はいかが?何か欲しいものはあるかしら」

 とにかく喉が乾いてうまく声が出ないので、まずは水をもらい、次いでいきなり固形物よりはと、とりあえず喉の乾きも癒せるゼリー飲料をいくつかもらったのだが、これがまったく腹の足しにならない。

 結局、滝口に頼んで比較的消化の良さそうなメニューを急ごしらえで持ってきてもらい、布団の上に起き上がってそれをきれいに平らげた。

 食欲が収まると、今度は寝汗でべたべたする髪や身体が俄然気になりだした。

 風呂に入りたいと訴えたところ、英莉が風呂場まで付き添うことで、どうにか許可が出た。

 廊下はひんやりとして、濡れ縁との間に閉め立てられたガラス戸の外は夜のように暗い。

 驚いた紅子が時刻を尋ねると、英莉は午後四時を過ぎたくらいだと言った。

「今は雨脚が弱まっているけれど、さっきまでひどい雷雨だったのよ」

 彼女は続けた。

「ふもとの道が一部冠水して通れなくなってるらしいって、さっき斎さんが言っていたわ」

 泰蔵さんのところへは、あなたの体調と相談しながら明日以降に考えましょうね。

 そんな話をするうちに、浴室に着いた。

 思ったよりしっかりした足取りの紅子に、英莉は安心したらしい。

「私は滝口さんと台所にいますから、長湯しないで、上がったら必ず私たちのところに言いに来てちょうだいね」

 と言いおいて、彼女は廊下をもどって行った。



 泰蔵おじいさんの家に行くときは前回と同じく山を越えるのがいいな――

 紅子は熱い湯の中で手足に血流が戻ってくるのを実感しながら、そんなことを思った。

 二日も眠ったあとでなまっている身体には、いい運動になるだろう。

 窓にはまっているすりガラスのこちら側には、外気が寒いせいでうっすら水滴が浮いている。

 それを見るともなく眺めながら、眠っているあいだに見た夢のことへと、いつしか彼女の思いは移っていった。

 大昔のことだとわかっていても、思い出すと今も胃の中に石を飲み込んだような重苦しい気分に襲われる、御珠の記憶。

 あれは自分の未来だと思った――現実に戻れば間違いなく待っている、抗うことのできない運命なのだと。

 血なまぐさく恐ろしい記憶から、運命から逃れる道は、死の闇に深く沈んでいた。

 その途上を、迷いながらもそろそろと進みかけていたとき――

 とうに亡くなったはずの祖母の声に、呼ばれた気がした。

 その姿を探して背後を振り返った瞬間、オレンジ色の炎が忽然と現れ、闇を切り裂いた。

 暗かった視界は気が付くと朱色に染め替えられ、まるで舞台の場面転換のように、景色は一変していた。

 なぜかそこはよく知った自宅の仏間で、そして――

 炎の向こうには、竜介がいた。


 一番会いたくて、一番会いたくなかった人が。


 紅子には温度のない立体映像のようでしかない炎が、竜介には本物と寸分違わぬ熱を持って感じられるらしく、彼は舞い散る火の粉から手で顔をかばうようにしてこちらを見ていた。

 驚きに我を忘れた目。

 どういう態度を取ったらいいのかわからないまま、つっけんどんな応答をする紅子に怒りもせず、二日も眠っているから起こしに来た、と彼は言った。

 このままだと死ぬことになる、とも。

 それでもいい、と答えた言葉にうそはない。

 それなのに。

 目の前にいる彼は、夢が作り出した幻だとわかっているのに――

 心が揺れる。

 現実に戻りたい、と叫ぶ。

 夢ではない、現実の竜介に会いたい、と。

 だが、頭の片隅で、別の声がささやくのだ。


 現実に戻ったところで、お前は「封印の鍵」として死ぬだけだ。

 この男も、しょせんお前の力を利用しようとしているにすぎない。

 見ただろう?御珠の記憶の中で、多くの神女が殺されるのを。術に耐えきれずに死んでいくのを。

 可哀想に……お前もああなるのだよ。可哀想に……。


 その声が、紅子を混乱させ、苦しめた。

 わからない――何がうそなのか。どこまでが真実なのか。何を信じればいいのか。

 もう考えるのをやめてしまおう。

 何もかももうどうでもいい、ただ楽になりたいと思った、そのとき――

 ものすごい力で、腕をつかまれた。

 そして次の瞬間、高圧電流のような「何か」が、自分の腕から竜介の手へ、一瞬にして駆け抜けるのを感じた。

 竜介はそのとき、魂縒のときに紅子が受けた御珠の記憶を「見た」のだ。

 彼の顔は青ざめ、その目には驚愕や苦悩、逡巡など様々な感情が浮かんでは消えていく。

 紅子は彼が手を放すだろうと思いながら、心のどこか片隅で、放してほしくないとも感じている自分を意識した。


 そして、竜介は手を放さなかった。


 あの月夜の、慰撫するような優しいものとは違う、息苦しいほどの抱擁。

 それが、死の夢に浸って冷え切っていた紅子の身体に、心に、生命の温もりをよみがえらせていった。

 夢に現れた竜介は、自分の心が見せた幻だとわかっていても、あのときはその幻を通して現実の竜介とつながっているような気がした。

 だから、現実に戻ろうと思ったのだ。

 そして、ふと思った。


 これは夢なのだから、何か一つくらい思い通りになってもいいのでは?


 それを言葉にしたとき、竜介は驚きと困惑、それに少し怒ったような顔をして、言った。

「あのさ……額とかじゃダメなのか?」


「ダメ」


 紅子は即答した。

「してくれないんだったら、あたし、現実に戻らない」

 きっぱり言うと、竜介は困り切った顔で額を押さえ、おおげさな溜息をついた。

「弱ったな……」

 そうつぶやくのが聞こえた。

 悲しいような、腹立たしいような気持ちで紅子が「もういい」と口を開きかけた、そのとき。

 ようやく、竜介が重い口を開いた。


「わかったよ」


 次いで、両肩に大きな手が置かれ、端整な顔がおもむろに沈み込んでくる。

 と、目の高さが同じくらいになったところで、竜介の動きが止まった。

 その目は、ちょっと困ったように笑っている。


「やりにくいから、目を閉じてくれるかな」


「あ……」

 そうだった。

 セオリー通りに目を閉じる。と――

 ほんの一瞬だった。

 唇に、温かな何かが、そっとかすめるように降りて――消えた。



 脱衣室には全身を映せる大きな姿見が壁にかかっていて、紅子はバスタオルで全身の水滴を大雑把にぬぐった後、そこに映る自分を眺めた。

 ひじより少し上に、青黒いあざがある。

 大きさは、自分の手よりもひと回り大きい。

 それはあの夢の中で、竜介につかまれていたのと同じ場所だった。


 あれは本当に、単なる「夢」だったのだろうか?


 そして――


 あの夢の中の彼は、本当に、自分の心が作り出した「幻」だったのだろうか?

紅蓮の禁呪第112話「心の迷宮・六」

 「で?」

 と、虎光が言った。


「したのか?キス」


 * * *


 紅子の意識界から現実に戻って、竜介が最初に目にしたのは、眠る前に見たのと同じ部屋の天井だった。

 窓を叩く雨の音もそのまま。

 ただ、雷雲は遠ざかったようで、時折、低い地鳴りのような音が聞こえる程度になっている。

 金色の法円と、その向こうからこちらを覗き込んでいた黄根老人の顔も、見あたらない。

 黄根老人はもう帰ってしまったのだろうか?

 慌てて起きあがると、


「気分はどうだ」


 聞き覚えのある少ししわがれた声が背後から聞こえた。

 振り返ると、老人は孫娘の枕頭に座し、その額の上にある金色の法円に手を置くところだった。


「……悪くありません」


 竜介は答えた。

 身体にどことなく違和感は残っているけれど、すぐ元に戻るだろう。

 意識界で感じた、奇妙に生々しい夢を見ているような感覚はもうなく、それが何よりほっとする。

 ここは確かに現実だ。

 辺りを見回すと、室内には彼ら三人だけだった。

「俺、何時間くらい眠ってました?」

「一時間強」

 老人は手短に答えると、何やら二言三言つぶやいて紅子の法円を消した。

「五分もすれば目を覚ますだろう」

 彼は少女の寝顔を見つめたままそう言うと、おもむろに立ち上がった。


「帰る」



 黄根老人のあとについて廊下に出ると、鷹彦が壁にもたれて立っていた。

 彼は老人を見るや、所在なげにジーンズのポケットにつっこんでいた両手を慌てて出し、会釈したが、朋徳は一瞥をくれただけで彼の前を通り過ぎた。

 そのあとに続く竜介の姿を認めると、鷹彦は、ほっとしたような、それでいてどこか怒っているような顔をした。

「気が散るって言われて、追い出されたんだ」

 鷹彦が小声で耳打ちする。

 さもありなん、と竜介は思ったが、口には出さなかった。


「紅子ちゃんは?」


「じきに目を覚ますそうだ」

 弟の質問に、竜介は、廊下をずんずん進んでいく朋徳の後ろ姿を目で追いながら答えた。

「俺はあの人を見送りに行ってくる。お前は彼女についててくれないか」

 うなずく鷹彦を視界の端で確認して、彼は引き続き老人の背を追いかける。

 玄関でようやく朋徳に追いつくと、できるだけ丁寧に礼を言った。

 嫌いな相手に頭を下げるのは気が進まないが、彼が来てくれなければ紅子を目覚めさせることはできなかったのだから。

 しかし、老人の反応はといえば、斎から受け取ったレインコートを再び着込みながら竜介の顔を一瞥すると、冷ややかに鼻を鳴らしただけだった。

 ほぼ予想通りの反応なので、もう腹も立たない。

「紅子ちゃんにはお会いにならないんですか」

 竜介が尋ねると、朋徳は再び彼を見た。表情を読ませない目。

「今は、な……」

 老人は底冷えのするような声で続けた。


「貴様も、そのほうがよかろう」


 その意味深な言葉は、竜介の心臓に氷をとぎすませた刃を当てたような感覚を残した。


 やはり、この男は怖い。


 一体何をどこまで知っているのか、底の知れない恐ろしさがある。

 朋徳はさっさと雨靴をはき終えると、廊下に立ち尽くしていた竜介に向き直り、言った。

「最後に一つだけ、貴様に言っておくことがある」

 玄関のたたきに降りている朋徳の人差し指が、竜介のみぞおち辺りを指す。


「己から逃れることはできぬぞ」


 謎めいた言葉だけを残し、足早に玄関を出ていくその背中を、竜介は急いで追いかけた。


「黄根さん!」


 言葉の意味を問いただしたかった。

 だが、そこにあったのは降りしきる激しい雨と、分厚い雲に太陽を奪われた薄暮のような世界だけ――


 黄根老人の姿は、もはやどこにもなかった。



 その後、竜介は一旦、自室に戻ったが、洋酒の黒い大瓶とグラス二個を提げてまた廊下に出た。

「虎光、入るぞ」

 そう声をかけるのと、足で乱暴に襖を蹴り開けるのとはほぼ同時だった。

 こちらに向けられていた大きな背中が、

「ああ?」

 と間の抜けた声とともに振り返る。

 その向こうには、竜介のものと同じ黒いオーク材の事務机があり、机上に置かれたパソコンのモニターは明るかった。

 床に散らばる書類を避けながら彼は室内に入ると、襖をまた足で器用に閉め、

「お前、今、ヒマか?ヒマだよな?ちょっと付き合え」

 と、どう見ても忙しそうな弟に向かって酒瓶を見せた。

 そして、場面は冒頭に戻る。


 * * *


「っしょーがねえだろ!」


 虎光の質問に、竜介はやけくそのように答えた。

「断ったら現実にはもどらないとかぬかしやがって。あのマセガキ」

 虎光の部屋に座卓はないのか、それとも出すのがめんどうだったのか、二人はカーペットの上にじかに腰を下ろし、酒瓶やグラスもそこに置いて飲んでいた。

 散らばっていた書類は、無造作に部屋の隅に寄せてある。

 氷も水もなし。

 竜介は手にしていたグラスの中身をあおると、また新たに液体を注いだ。

 ボトルの残りはあと三分の一くらいだろうか。


「まあいいじゃん、キスくらい」


 虎光はあぐらをかいた膝に頬杖をつき、もう片方の手でグラスをもてあそびながら言った。

 兄とはあまり似ていない、一重まぶたの細い目はニヤニヤ笑っている。

 いつも冷静で動転した所などめったに見せない兄が、珍しく狼狽しているのが面白くて仕方ないらしい。

「減るもんでなし、役得だと思ってありがたーく頂戴しとけば」

 気楽なことを言う弟を、竜介は横目でにらんだ。

「凉音と同い年なんだぞ」

「だから?」

「玄蔵おじさんの娘だし」

「それで?」

「子供に手を出すなんて、俺の主義に反する」

「主義と来たか」

 虎光はくっくと喉で笑うと、グラスに一センチくらいしかない中身を一口なめる。

「てめー笑いすぎなんだよ」

「おおこわ」

 兄の殺気立った口調に虎光は形だけ首をすくめ、そんな弟に竜介は舌打ちをくれると、再びグラスをあおった。

 目は据わっているが、顔色は変わっていない。

「くそっ、ぜんっぜん酔えねー」

「もうやめとけよ」

 虎光が少しだけニヤニヤを引っ込めて言った。

「昼酒なんてばれたら、おふくろさんにどやされるぞ」

 英莉は普段、優しくてのほほんとした印象だが、そういった行儀やけじめに関してはけっこう厳しく、こうるさい。

 虎光がグラスの中身をなめる程度にしているのは、酒の匂いで英莉のお小言を頂戴しないようにするためだ。

 が、竜介は虎光の忠告を鼻で嗤った。

「この際、もうどうでもいいや。今日は俺、晩飯いらねー。部屋でふて寝でもしてるよ」

 虎光は苦笑して肩をすくめた。


「何をやけっぱちになってるのか俺にゃわからんけど、真面目な話、兄貴がそんなに混乱してるのは惚れてるからじゃないのか」


 図星を突かれて竜介は言葉に詰まる。

 その顔を見て、虎光はふふんと鼻を鳴らした。


「語るに落ちたな。いいじゃん、付き合えば」


「だからそれは……」

 最初の反論を繰り返そうとする兄を片手でさえぎり、虎光は続けた。

「心理的ハードルが高すぎるってんなら、あの黄根とかいうじいさんが見せた夢か幻でした、ってことで忘れるだけさ」


 少なくとも、紅子ちゃんは全部夢だったと思ってるんだろ?


 竜介は生まれて初めて光を見たように、目を見開いた。

「そう……そうだよな」

 様々な感情で混沌としていた頭の中に、理性と秩序の道が一筋現れた気がする。

 感触があまりにもリアルだったから混乱してしまったが、あれは紅子の意識界、いわば夢の中の出来事であって、現実ではないのだ。

 彼女への気持ちは真実だが、それを伝えるのに急ぐことはないのだ。


 今はまだ、夢のままでいい――


 竜介はやおら虎光の手からグラスを取り上げると、

「え?おいちょっと」

 当惑する虎光を尻目に残りを飲み干し、来たときと同じように自分のグラスと一緒に片手に持ち、もう片方の手には酒瓶を持って立ち上がった。


「仕事の邪魔して悪かったな。おかげで頭ん中の整理がついたぜ。ありがとよ」


 そう言ってさっさと部屋を出て行こうとする兄に、虎光は苦笑しながら、

「あ、そうだ」

 と連絡事項を思い出して手のひらを拳でぽんと叩いた。


「紅子ちゃんを泰蔵師匠のところに送るのはいつにするんだ?」


「今日はもう遅いし、明日でいいだろ」

 竜介は肩越しにそう答え、師匠には俺から連絡しとくよ、と言い残して弟の部屋をあとにしたのだった。

紅蓮の禁呪第111話「心の迷宮・五」

  紅子は驚きに目を見開きながら、あっという間に重心を失って炎の輪からまろび出ると、竜介の胸に倒れ込んだ。


 四日前の、あの月の夜を再現するように。


 自分より九歳も年下で、涼音と同じ高校生。

 いくら見てくれが大人っぽくても、凉音と同い年の子供に恋愛感情を持つほうがどうかしている、ずっとそう思っていたし、そんなことに思考を割く精神的余裕もなかった。

 たびたび彼女をからかったのは、顔を真っ赤にしてむきになるところが可愛かったから。

 が、今にして思えば、無意識のうちに確かめていたのかもしれない。

 紅子は涼音と同じ「子供」なのだと。

 そして、自分は彼女から嫌われているのだと。

 自分に課せられた使命は、黒珠を封じ、紅子を玄蔵のところに、元の生活に無事戻すこと、それだけ。

 そう――思っていた。


 あの夜までは。


 あの日、竜介は夕食後、虎光と彼の部屋で軽く飲みながら久し振りに会った泰蔵の様子などを話した。

 ひと風呂浴びてからまた飲み直そうと思っていたのだが、入浴後に弟の部屋をのぞいてみたら、相手は酔いが回ったのか、明かりをつけたまま畳の上で大の字になってしまっていた。

 仕方なく、二メートル近い巨漢を引きずるようにして夜具に寝かせたあと、彼は自室に戻って月を相手にまた飲み始めたのだった。

 が。なにぶん、月は相づちすら打ってはくれない。

 沈黙が欲しいときはこれ以上の友はないのだけれど、その夜の彼にとって、夜空に浮かぶ青白い淑女は静かすぎて物足りなかった。

 酒もさほどすすまない、さりとてまだ眠る気分にもならない――

 手持ち無沙汰にグラスの中に映る小さな月をぼんやり眺めていた、そんなときだった。

 ふと気配を感じて視線を上げた。

 見慣れた庭が、月の光を受けて銀色に輝いている。


 その中に、まるで化身のように忽然と立ち尽くしていたのが――紅子だった。


 その日の彼女は、泰蔵から聞かされた昔話がよほど衝撃だったらしく、午後からはずっとぼんやり物思いにふけっているような感じだった。

 だから、恐らく眠れずに深夜の庭へさまよい出たのだろうということは竜介にも容易に想像がついた。

 月の光の中で、その白い横顔はずっと大人びて見えた。

 気が付くと、声をかけていた。

 驚いた様子で振り向く彼女の顔。

 その頬が、こちらを見るなりぱぁっと上気した、あの瞬間を竜介はおそらく一生忘れないだろう。


 胸の奥の、淡いさざめきとともに。


 あの夜、あのとき――

 本当はすべてが変わってしまっていたのだ。

 ただ、訪れた変化のそのあいまいな影を、竜介は無視し続けてきた。

 それを直視し、それに名付けることを避けてきた。

 そうすれば、なかったことにできると思っていた。少なくとも、まだ考えなくてすむと。


 だが、今――それはもはや「影」ではなくなってしまった。


 竜介は腕を緩めると、うつむいている紅子の肩に両手を置いて、その目を覗き込んだ。

 涙にぬれた黒い瞳が、彼を内側から焼く。

 彼は言った。


「誰もきみを利用なんかしない」


 これが自分のするべき事なのかどうかはわからない。

 ただ、今はこの涙をとめたい。

 そして、その思いが自分の心の那辺からわきあがるものかということに、彼はもう気づいてしまった。

「俺がさせない、絶対に。きみが見たものは、あれは遠い過去の幻影だ。きみの未来じゃない」

 紅子は視線を上げて竜介の目を見た。

「あたし……」

 何かを言いかけたが、怒ったような苦しいような表情で、再び目を伏せる。

 頬を伝い落ちる、白いしずく。

 竜介はそれを人差し指ですくい上げた。

 温かい。

「『封印の鍵』なんかやめていい。だから、どうかもどってきてくれないか」


「わからない」


 紅子は目を伏せたまま、絞り出すように言った。

「あたしだってもどりたい。でも、現実の、東京にもどって、みんなに……父さんや、春香や学校の友達に会ったら……そうしたらきっと、あたしはみんなを見捨てるなんてできなくなる」


 『封印の鍵』をやめることなんてできない。


 己の命と引き換えに封禁の術を立ち上げることになるだろう。

 結局すべて、過去の幻影をなぞるように――

「だからってこのままここにいたら、死ぬだけだ。見捨てるのと同じことになるんだぞ」

「わかってるよ、そんなこと!」

 今ひとつ元気のないかんしゃく。

 それでも竜介には、それが何よりの手応えに思われた。


「しょうがないじゃん、怖いんだから!」


 現実にもどるのが怖いんだから!

「現実にもどったからって、死ぬとは決まってない」

 手の中で震えていた細い肩が、少し静かになる。

 我ながら予言者めいた言葉だと思いながら、竜介は続けた。


「きみは死なない。俺を信じて、もどってきてくれ」


 紅子を説得するためのでまかせなどではなく、彼にはそれを可能にする確信めいたものがあった。

 ヒントは奇しくもあの忌まわしい過去の幻影だ。

 四つの御珠からしか魂縒を受けていない神女でも、封禁の術を起動するときに伺候者から強力なサポートを得られた者は生き延びることが多かった。

 顕化を持つ自分が伺候者に入れば、きっと彼女は死なずに済む。

 その結果、たとえ俺が命を落としても――そう思ったとき、鷹彦の顔が脳裏に浮かんだ――あいつが紅子ちゃんを支えてくれるだろう。

 そんな竜介の心中など知る由もない紅子は、顔を上げて彼を見つめていた。

 彼の言葉に驚いたのか、その目は大きく見開かれ、何か不思議なものを見るような輝きが宿っている。

 ややあって、ためらいがちに、その唇が開いた。

「……あんたはたぶん、あたしの生きたいって気持ちが生み出した幻……なんだよね」

 でも――

 彼女は言いよどみ、竜介の顔から目をそらすと、続けた。


「でも……現実の竜介も、そんなふうに思ってくれてる……かな」


 竜介は一瞬、真実を話してしまいたい衝動にかられたが、それを押し殺し、精一杯の笑顔で言った。


「きっと……いや、絶対思ってるさ」


 紅子は小さくうなずいた。

「そう、だったらいいな」

 涙のあとが白く残る顔。

 それが、はにかむように、嬉しそうに、そのときようやく――

 笑った。



「ここを出れば、目が覚めるの?」

 見慣れているはずの玄関の引き戸をためつすがめつしながら、紅子が言った。

「そのはずだよ」

 と、竜介。

 彼ら二人は仏間を出て、一色家の玄関のたたきに立っていた。

 かなり長い時間をここですごしたような気がするのに、外から差し込む光は竜介がここに来たときと同じ、真昼のまぶしさを保っている。

「開けるぞ」

 と、彼が引き戸に手をかけようとした、そのとき。


「待って」


 紅子が竜介の袖を引っ張った。

「あの、ここってほんとに夢の中……なんだよね?」

 竜介は、今更何を念押しするのかと思いながら、肩越しに答えた。


「夢だよ」


 そして、声に出さずに付け加える。

 俺の存在を除いてはね。

「そう……だよね」

 はは、と紅子はどこか気の抜けた笑いをもらして、うつむく。

 顔が赤い。

「その、目を覚ます前に、一つだけお願いが……あるんだけど」

 竜介は彼女の正面に向き直ると、

「いいよ。何?」

 紅子はしばし逡巡するように視線を泳がせた後、ようやく、意を決したように顔を上げる。

 紅潮した頬。

 ゆっくりとその人差し指を持ち上げ、自分の淡い桜色の唇を示しながら――彼女は言った。


「キスして。ここに」

2023年8月12日土曜日

紅蓮の禁呪第110話「心の迷宮・四」

  黒珠の封印によって、戦は終わった。

 人々は平穏を取り戻し、大地には再び豊かな緑があふれる――はずだった。

 現実は違った。


 すべては幻となりはてた。


 封禁の術を行った天帝と伺候者たちは命まで失うことはなかったが、力の大半を失った。

 残る神女たちだけではもはや天候の変異をくいとめることはおろか大地を再生することもできず、御珠の一族は長く住み慣れた父祖の地を離れ、温暖な南へむかう旅を余儀なくされる。

 厳しい寒さに追われるようにして海を渡り、たどり着いた小さな島国。

 そこに彼らは新しい王国を築こうとした。

 このときの天帝は、五つの御珠から魂縒を受けた神女としては最後の一人であった。

 このままでは天帝としてつとめを果たせるだけの力を持った神女がいなくなることに不安を抱いた炎珠の者たちは、安住の地が見つかった今、黒珠の封印を解くことを主張した。

 見知らぬ土地に根を下ろし、かつてのような繁栄を取り戻すには、黒珠の力が不可欠だ、と。

 長く過酷な旅に誰もが疲れ切っていたのだろう。

 その提案に異を唱える者はおらず、黒珠の封禁は解かれた。

 解除には封印の時と同じく、術を立ち上げる神女とそれをバックアップする四人の伺候者を必要とする。

 術を起動する手順、法円を踏む者たちの霊力。

 何かが間違っていたのか、何かが足りなかったのか。


 それとも、封禁の術そのものにどこか間違いがあったのか――


 封印を解かれた黒珠の者たちは、障気をまとう恐るべき異形としてこの世に姿を現した。


 彼らは亡霊のように闇を好み、人を襲ってはその脳髄を喰らった。

 実体と霊力を取り戻すため、また封印を受けていた間の記憶を補うために。

 恐怖と混乱の中、黒珠から魂縒を受けることはもはや望むべくもなかった。

 封禁の術を行うにしても、伺候者となる神女たちはいずれも四つの御珠から魂縒を受けた者しかいない。

 それでも、やらねばならなかった。

 そして――


 五つの御珠から魂縒を受けた最後の天帝は、黒珠を再び封印するのと引き替えに、その命を落とした。


 封禁の術はまさしく禁断の術だった。

 禁忌に触れた報いは、やがて御珠の一族全体の運命を狂わせていく。



 黒珠の者たちのおぞましい姿は、術に対するぬぐうことのできない恐怖を人々の心に刻みつけた。

 とくに、黄珠を始めとする三支族が自分たちでは扱うことのできないこの禁術を恐れたことは当然といえる。

 自分たちにあの忌むべき術が使われることのないようにするには、どうすればいいだろう?

 炎珠の者を一人残らず殺してしまうか――いや、それでは黒珠の封印が老朽してきたとき困ることになる。

 では、どうするか。

 炎珠はもともと男児がほとんど生まれない女系一族である。

 四つの御珠からしか魂縒を受けられなくなった炎珠の神女の霊力は、黄珠を始めとする他の三支族のそれよりやや抜きんでているというほどしかない。

 ならば――

 炎珠を組み敷いてしまえばよい。

 それが、三支族がたどりついた結論であった。

 残る三支族では最も霊力の高い黄珠が玉座を占めてより後、炎珠の神女たちがたどった運命は、過酷というにはあまりあるものだった。

 黄珠の新しい王は彼女らを一人残らず捕らえると、特殊な護法を張り巡らせた後宮に閉じこめた。

 炎珠の者にのみ有効で、彼女らの力を抑えるための護法である。

 宮殿が広く、豪奢なつくりだったのは、かつて支配者として神にも等しい力を振るった炎珠への、せめてもの敬意だったのだろうか。


 だが、その中身は、ていのいい牢獄だった。


 抗う者、反乱を企てる者、力のない者は、たとえ子供であろうと容赦なくその命を奪われた。

 黄珠、白珠、そして碧珠。

 彼らによって、天帝の眷属たる炎珠の誇りは踏みにじられた。

 彼らはただ黒珠の封印を保つ、それだけのために神女を生かし、霊力を制御し、その血統を強迫的なまでに守ってきたのだ。

 彼女たちの意思とは無関係に。

 そしてそれは、度重なる戦乱によって黒珠の石柩が失われ、御珠の一族が散り散りになるまで続き――

 現代に至る。


 * * *


 生々しい幻影の嵐はほんの一瞬の停電のように竜介を襲い、去っていった。

 気がつくと彼は大きくあえぎ、全身にびっしょり冷たい汗をかいていた。

 人の心は、ここまで醜くなることができるのか――

 これが現実なら間違いなく吐いていたと思うほど、強烈な吐き気が彼の胸を焼いた。

 三支族と、黒珠と。


 いったいどちらが異形だろう?


 おおまかな経緯は知っていたが、こうして嫌気がさすほど微細に事実を見せられると、けだものにも劣るような輩から受け継いだ自分の血が呪わしくなる。


「……放して」


 そんな声が聞こえた気がして、竜介はようやく自分の手の中にある紅子の腕に気づいた。

 炎越しに伸ばした腕は灼熱の舌にあぶられているのに、何の熱も痛みも感じない。

 奇妙といえば奇妙だが、現実ではないこの空間で彼はもはやそんなことに拘泥する気にならなかった。

 それよりも、少女の身体が元の質感を取り戻し、足下に柔らかな影を落としていることのほうがはるかに大事だ。

「痛いったら」

 今度ははっきりと聞こえた。

 竜介は視線を上げて紅子の顔を見た。

 炎に照らされたその白い頬を、透明なしずくが静かに伝い、落ちていく。

「もう……いいでしょ?あたし、誰にも利用されたくない。楽になりたいの。だから……放して」

 訥々としたその言葉は、竜介が今その手を放せば、彼女が再び無意識の闇に溶けてしまうことを意味していた。


 だが、彼にはそれが紅子の本心からの望みとは思えなかった。


 炎の明かりを受けて揺れる涙が、まるで彼女の心を映しているような気がして。

 迷っている心なら、こちらへ引き戻せるかもしれない――だが、その資格が俺にあるのか?

 遠い昔のこととはいえ、黒珠と封禁の術を恐れるあまり、人の心を捨てたような連中の血を引く俺に。

 この世の地獄を見てしまった少女の苦しみは、察するに余りあった。

 「楽になりたい」などという、およそ彼女らしからぬ言葉からもそれが痛いほどわかる。

 死にたくなるような苦痛を引きずったまま現実に戻るか、それとも苦痛を逃れて命を手放すか。

 本当に紅子のためになるのは、いったいどちらだろう。


 わからない。


 ――わからない。

 今わかることは、ただこの手を放したくないということ、それだけ。

 自分にはそんな資格などないかもしれない。

 それでももし許されるなら、この少女の涙をぬぐってやりたい。

 その苦しみを、少しでもいい、取り除いてやりたい。

 わき上がる感情を何と呼ぶべきか考えるよりも先に、竜介は紅子の腕を強く引いていた。

紅蓮の禁呪152話「竜と龍・九」

 玄蔵は抗弁した。 「しかし黄根さん、魂縒のあとには昏睡があります。第一、今の紅子の身体は普通の状態じゃ……」  ところが、当の紅子はいつの間にかすっくと立ち上がっている。 「紅子?大丈夫なのか?」  ついさっきまでふらついていたのにと訝しみながら玄蔵は声をかけるが、彼女は焦点の...