2025年4月8日火曜日

紅蓮の禁呪158話「禁術始動・五」

 


 碧珠が収められていた紺野家の滝裏の洞窟も、白珠が隠されていた白鷺家の四阿(あずまや)の仕掛けも、同様に消えてなくなった。

 黄珠がどこに安置されていたのかはわからないが、その場所も今はなくなっているだろう。

 竜介たちと黒帝宮へ赴いたはずの朋徳は、黄根家からの連絡によると、十二月の冬至一週間前から心臓疾患で入院、冬至の深夜に容態が急変し、翌未明、そのまま帰らぬ人となった、とのことだった。


 では、禁術を起動する直前、紅子に助言をあの老人は誰だったのか――


 答えは、どちらも同じ黄根朋徳で間違ってはいない。

 御珠が消え、力がなくなり、新月の日がずれたのと同様、禁術によって「歴史が書き換えられた」――あるいは、「最初の禁術失敗でねじれた歴史が正された」――ために起きた、御珠に関わった人間の記憶にのみ残ってしまった「ねじれの残滓」なのだった。


 * * *


 学校は予定通り四月から始まったものの、避難先から戻れない生徒は多いようで、教室には空席が目立った。

 戻ってこれないのは教師も同様らしく、紅子は自分のクラス担任とゴールデンウィークに入ろうかという今に至るまで、顔を合わせたことがない。

 隣のクラス担任が紅子のクラスも兼任しているようなものだ。生徒が少ないからそれでも回せているのだろう。

 授業もプリント自習が多いが、これは昨年秋からのブランクがある紅子にとってはこれ以上ない福音だった。

 春香とは東京から転送されてきた彼女の年賀状に書かれていた住所とメールアドレスから連絡が取れるようになったため、学校が始まる前に少しでも追いついておこうと、欠席分のノートのコピーを送ってもらってはいた。

 それでも家での自主学習はやる気が今ひとつで思うようにはかどらなかったのが、学校では自習の合間に直接友人たちから教えてもらえるおかげか、格段に進捗が早く、おまけに楽しい。

 次の定期考査での欠点はひとまず免れそうで、紅子は胸を撫で下ろしていた。

 やはり持つべきものは友である。


 ところで、春香といえば藤臣だが、彼らがその後どうなったかというと、この春、晴れていわゆる「交際」をスタートさせたらしい。

 が、「彼氏」の進学先が地方の大学だったせいで、それは思いがけない遠距離恋愛のスタートでもあった。

 実は紅子と竜介の二人も、竜介が仕事で頻繁に日本と海外を行ったり来たりしていて、直接会うには予定がなかなか噛み合わないという、似たような状況にあった。

 メールはしょっちゅうやりとりしているし、時間の合うときは電話もかけてきてくれるから、気を遣ってくれているのはわかっている。

 仕事だから仕方ないとは思うが、やはり少し寂しい。

 そんな中、遠距離恋愛仲間を得たことは、紅子と春香互いにとって不幸中の幸いだった。

 今や、彼女らは互いの彼氏とよりも頻繁にメールのやり取りをしているくらいである。

 そんなこんなで、ゴールデンウィークも一緒に遊びに行く計画を立てていたのだが――


「えーっ、行けなくなったって、どういうこと!?」


 ゴールデンウィーク初日の朝。

 自宅兼道場の電話が鳴ったので出てみると、春香だった。

 休日の朝の電話にろくなものはないのが世の常だが、今回も例外ではなく、本日一緒に買い物に行く約束をしていたのに、急用で行けなくなった、という連絡だった。

 電話の向こうの春香は詫びの言葉を繰り返すものの、その声はまったく残念そうではなく、むしろなんとなく華やいでいる。

 それで紅子もピンと来た。


「さては藤臣先輩からなんか連絡来たね?」


『えへっ、わかる?』

 春香は悪びれもせず言った。

『昨日の深夜にメール来ててさ、ゴールデンウィークのあいだ家の用事でこっちに来るんだって。で、空いてるのが今日だけだっていうから~……ほんとゴメンよ?埋め合わせはするからさ』

「わかったわかった」

 あまりにもあっけらかんとしている春香に紅子もそれ以上怒る気が失せてしまい、次の約束はまたメールで、と言い合うと、受話器を置いた。


「女の友情なんてもろいもんよね……」


 へっ、とひねくれた笑いとともにそう独りごちると、そばでお茶を飲んでいた玄蔵が吹き出した。


「何、父さん。あたし何か変なこと言った?」


 憮然とした表情で紅子が問いただすと、彼は笑いを引っ込めて、

「いや、別に」

「あっそ」

 紅子はそっけなく答えると、上着を着て出かける準備を始めた。

「あれ?出かけるのか?春香ちゃんは一緒じゃないんだろ?」

「一人でも行くの」

 紅子は慌ただしく玄関に向かいながら、肩越しに振り返って言った。

「今日からバーゲンなんだもん、初日に行かないと狙ってたのが売れちゃうでしょ」


 道場の玄関の引き戸が閉まる音がして、家内に沈黙が戻る。

 それからしばらくして、再び一色家の電話が鳴った。

 玄蔵が受話器を取ると、よく聞き慣れた声だ。

「ああ、君か。元気そうだな。いや、紅子なら今出かけたよ……」



 買い物は、朝に気分を損ねたことなど忘れるくらい、なかなかの収穫だった。

 やっぱり来てよかった、と大きなショッパーバッグを抱えながら、紅子はほくほく顔でアウトレットモールの外に出た。

 海沿いに建つこの施設は、海が見渡せる公園に隣接していて、祝日の今日はワンハンドフードの屋台やキッチンカーが遊歩道沿いに軒を連ね、美味しそうな匂いで道行く人々の鼻腔をくすぐっている。

 腕時計を見ると、午後三時。

 昼食はモール内のファストフード店で取ったが、おやつは外で買い食いすることに決め、紅子は屋台を見て回ることにした。

 公園内もそれなりに賑わっているが、まっすぐ歩くことすら難しいモールの中に比べたら、ゆったりしたものだ。

 遊歩道の途中にある広場では、サルっぽい顔立ちの小柄な青年が大道芸を披露していた。

 ひょうきんな言動と身軽なアクロバットが観衆を大いに沸かせている。

 広場には他にも子供向けのイベントブースがあり、海の側だからウミウシを模しているらしい着ぐるみが小さい子どもたちに風船を配っていたが、それがお世辞にもかわいいとは言い難くて、風船欲しさに近寄ってくる子どもたちの中には、怖くて泣き出したり、風船をもらった途端に逃げ出す子どももいたりして、周囲の大人たちを苦笑させていた。

 紅子はというと、青年や着ぐるみに奇妙な既視感を覚えることに、内心で首を傾げた。


 テレビのニュースか何かで見たのかな?


 そんなことを思いながら適当に選んだ屋台でクレープを注文し、出来上がりを待っていると、にわかに周囲が賑やかになった。


「……ということで~、本日は人が多くてとってもにぎやかなモールに来ていますぅ~!外にもスイーツのお店がたくさん並んでますね~!どれもとても美味しそうですよね~、ちょっとここで食べてる人にもお話うかがってみたいと思いますぅ~」


 テレビのレポーターらしい華やかなスーツ姿の女性が、マイク片手にそんなことを喋りながら、テレビ局の腕章をつけたカメラクルーを引き連れてこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。


 妙に粘っこい喋り方に、またもや既視感。


 だが、店員から注文していたクレープを渡されて、紅子の注意がそちらへ向いた、そのとき。


「こんにちわああ、すっごいいちごたっぷりなクレープですねえ~!!」


 突然すぐそばで声がして、紅子は一瞬、クレープを取り落としそうになった。

 見ると、さっき遠目に見たテレビレポーターがいて、こちらに向かって笑顔を放射している。


 もったりした肉感的な唇に、また何度目かの既視感。


 だが相手はそんな紅子の内心にはお構いなしに、

「ここのクレープはお気に入りなんですかぁ?」

 などと尋ねてくる。

 紅子はいきなりのことにたじたじとなりながら、

「えっ?はい、いえ、別にそういうわけでは」

「いちご、お好きなんですねぇ~」

「あ、はい、いちごは大好きですけども」

「そのクレープ、他に何が入ってるんですかぁ?ちょっと食べてみてくれますぅ?」

2025年3月30日日曜日

紅蓮の禁呪157話「禁術始動・四」

 



 まる四日眠っていた、と医者から告げられたときは自分の耳を疑った。

 診察の結果、医者は紅子をまったくの健康体だと請け合って、彼女の身体に取り付けられていた管やセンサーを外してくれたあと、

「今夜一晩様子を見て問題なければ、明日の午後退院しましょう」

 と言って、看護師を連れて病室を出て行った。

 入れ替わりに父と祖父、それに虎光が入ってきたので、紅子は竜介と鷹彦、白鷺家の二人、それに黄根老人の安否を尋ねた。

 三人が一瞬、微妙な表情になったので不安になったものの、なぜかなんとなく彼らの返答を予測できた。

 そして彼らは、紅子が直感した通りのことを言った。


 五人のうち四人は無事で、元気にしている。

 ただ、黄根老人だけが亡くなった、と。


 紅子は、なぜ、とも、いつ亡くなったのか、とも尋ねなかった。

 それより、父親以外で母や祖母のことを知っている親族がいなくなってしまったことが、ただ残念で悲しかった。

「そう……」

 と言ったきり、悄然と黙り込む彼女の目の前に、虎光が気まずい空気を変えようとして差し出したのが、例のギフトバッグだった。


「兄貴から、紅子ちゃんに渡してくれって預かったんだ。直接渡せてよかったよ」


 虎光はそう言って、開けてみるように促した。

 父親と祖父もいる前で、どう見ても特別感あふれるギフトバッグを開けるのは照れくさかったが、自分も中を見てみたい気持ちが勝って、紅子はベッドの上に起き上がると、紙袋の口の部分を閉じている小さなテープを剥がした。


 これまでの自分の人生で、開封の瞬間にこれほどドキドキしたプレゼントがあっただろうか、と思うくらい、それは胸の高鳴る一瞬だった。


 袋の中身は、電話会社のブランドロゴが印字された化粧箱。

 それと、水色の封筒に入った手紙が一通添えられている。

 箱を開けると、中にはパールが入った臙脂に金属部分がゴールドというおしゃれなフリップ式携帯電話が収まっていた。


 電話をかけろってこと?


 周りの視線を忘れて、紅子は急いで封筒を開けた。

 封筒と揃いの水色の便箋が四つ折りになって入っていたが、それを開くのももどかしい。 紺色のインクを目で追いながら、そういえば竜介の肉筆を見るのはこれが初めてだと思う。

 男性らしいカチッとした文字で、そこにはこう綴られていた。



  一色紅子様


 今、君は目を覚ましてこれを読んでくれていることと思います。

 本当はこの手で渡したかったけれど、用事で日本を離れることになり、虎光に託しました。

 俺は君のそばにいられないのがとても残念ですが、君はどうかな?

 もし少しでも残念だ、寂しいと思ってくれるなら、この手紙に同封した携帯電話で連絡をください。


 あの夜の月を、また一緒に見られることを願って。


 愛しています。


  紺野竜介



 文字通り、本当に顔から火が出るかと思った。

 最後の一文に目を通すや否や、紅子は電光石火の早業で便箋をベッドの上に裏返しに伏せた。

 顔を上げると、祖父も虎光も、わざとらしく明後日のほうを向く。

 父だけがなんとも複雑な顔で自分を見て、何か言おうとしたのか口を開きかけたが、


「えーと、そういえばそろそろ、面会時間も終わりだな。玄蔵、虎光くん、帰ろうか」


 という、なんだか妙に上ずった泰蔵の言葉で遮られてしまった。

 虎光も調子を合わせて、

「あ、ですね。じゃあ俺、車だから送っていきますよ」

 だが、


「えっと、待って待って」


 紅子は慌てて呼び止めると、まだ電源が入っていない携帯電話のフリップを開いて見せて言った。


「虎光さん、すみませんが使い方を教えてもらえますか?」


 携帯が入っていた箱には使い方を書いた小さくて分厚い冊子も同梱されていたが、そんなものを読み込む時間が惜しかった。


 電話でもメールでもいいから、今すぐ使いたい。


 虎光は快く、さしあたって必要と思われる機能を手短に教えてくれた。

 その間、玄蔵が直ぐ側で

「携帯電話なんてまだ早い」

 だの、

「退院してからでもいいだろう」

 だのぶつくさ言っていたが、聞こえないふりをした。

 電源を入れてみると、メールの着信が一件あった。

 中身は、竜介の名前と携帯電話の番号だけ。


「兄貴はまだ国内にいるから、電話したら喜ぶと思うよ」


 虎光に言われるまま、紅子は恐る恐る、画面の番号に電話をかけた。


 電話を耳に当て、緊張した面持ちで呼び出し音を聞いている紅子を残して、泰蔵と虎光は狼狽する玄蔵をなだめつつ、その背中を押すようにして廊下に出た。

 電話はまもなく繋がったようだ。

 紅子が小さな声で、電話の相手に何事か話しかけるのが聞こえた。

 その後、嬉しそうに何度も頷き、目尻に浮かんだ涙を指で拭う様子を肩越しに確かめると、虎光は病室の引き戸を後ろ手にそっと閉めたのだった。


 * * *


 それから約二ヶ月以上経って、紅子はようやく東京に戻った。

 三月も半ばになろうかという頃である。

 なぜそんなに時間がかかったかといえば、端的にいうと、家が住める状態ではなくなってしまっていたからだ。


 黒珠が引き起こした未曾有の大寒波は、大量の積雪と寒さによって、送電や上下水道などのライフラインを傷つけたほか交通網を寸断し、古い家屋などを破壊した。

 のみならず、気温が年明けとともに平年並みに戻ったあともなお、大量の融雪水による浸水が起き、人々の生活に甚大な被害をもたらした。


 そしてその被害は、一色家にも及んでいた。


 政府が発した緊急避難指示は、二月には全面解除となったので、東京の本社まで様子を見に行くという虎光に頼んで、玄蔵と紅子も彼の車で同行させてもらったことがあった。

 一色家は倒壊こそしていないものの、もともと古かった建物は、屋根が雪の重みで素人目にもわかるほどたわんでいたし、家の中も、雪によるものか浸水のせいかは定かではないが、一階部分はとても人が住める状態ではなくなってしまっていたのである。

 そして、例の土蔵に至っては、ただの瓦礫の山と化していた。


 幸い、玄蔵が「一色流練気柔術」の道場として借りている建物は無事で、中にはシャワールームもあり、手狭だが当面の生活ができる程度の設備はあるので、自宅の改築が完了するまではそこに住むことで一応の解決を見た。

 それでも不便な生活はできるだけ短期間であるに越したことはない。

 道場の再開をしなければならない玄蔵は二月半ばには東京に戻っていたが、紅子は学校が始まるギリギリまで泰蔵のところにとどまっていたのだった。


 とはいえ、一色の家を建て直すかどうかについては、玄蔵はかなり悩んだようだ。

 深夜、泰蔵と相談しているのを、紅子は何度か見かけた。

 泰蔵の家から通える高校への編入手続きを促す書類が役所から届いているのを見かけると同時に、東京の高校からも、四月に授業再開の見通しが立ったという連絡が来ていたが、どちらがいいかと訊かれれば、紅子にとっては後者がいいに決まっている。

 玄蔵にとっても、新しい場所で一から道場の経営を始めるよりは、すでに弟子たちがいる東京に戻って、完全に元通りとまでは行かずとも、道場を再開するほうがずっと楽なはずだ。

 残る問題は先立つものだったが、玄蔵が自分の生家の名前を出すと、驚くほどすんなり銀行の融資が通ったそうで、それが最後の決め手となったのだった。

 泰蔵だけは、息子や孫といっしょに暮らせる当てが外れて、少し落胆したらしいけれど。


 東京に戻った紅子は、改築が始まる前の更地になった自宅跡地を見に行ってみた。

 築地塀はなくなり、代わりに周りを囲っているのは仮説された蛇腹式の横引きシャッターで、その向こうに広がる空き地は驚くほど広かった。

 植栽もほぼ取り除かれ、隅の方に真新しい建材がいくつか置かれているほかは本当になにもない。


 土蔵があった辺りの地面も、それらしい穴の跡はない。


「何もないぞ」


 出かける前、家の跡を見に行ってくる、と言う紅子に、玄蔵は言った。

 それに先んじて、彼は他にも、「去年の冬至と新月は重なっていない」ことを新聞などの月齢カレンダーで調べて教えてくれていた。


 そう、世界は変わったのだ――御珠の存在しない世界に。



※挿絵はAI画像です。

2025年3月19日水曜日

紅蓮の禁呪156話「禁術始動・三」

 


 禁術が起動した後のことはよく憶えていない。

 凄まじい術圧と目の前の碧珠の強すぎる輝きに思わず目を閉じた次の瞬間、玄蔵は不意に身体が軽くなり、同時にまぶた越しに突き刺すようだったまばゆさが消えていることに気づいた。

 そういえば、耳を聾する龍垓の咆哮も、紅子が発していた、全身の細胞一つひとつが震えるようなあの「音」も、いつしか聞こえなくなっている。

 静かだった。


 黒珠は封じられたのだろうか?

 禁術はそんなに一瞬で終わるものなのか?


 訝りながらも目を開ける。

 そこには、饕餮文が刻まれた柱と、黒大理石の舞台、そして薄明に沈む黒珠の宮殿と廃園――があるはずだった。


 ところが、まず玄蔵の目に入ったのは見慣れた山門だった。


 小鳥の声と山間を渡る風の音、遠くから聞こえる街の喧騒が耳に届く中、彼は慌てて視線を巡らせた。

 どこもかしこも一面の雪で照り返しがまぶしい。

 けれど、目を細めていても見違えるわけがない。


 そこは自分の生家――泰蔵の寺の前庭だった。


 キンと冷えた風が頬に触れ、雪に埋もれた足先は氷のように凍え始めている。

 夢ではない。

 黒珠の宮城で最後に見たのと同じ場所に泰蔵や鷹彦、日可理の姿もあった。

 彼らも玄蔵同様、目に見えて当惑している様子だったが、互いの姿を認めるや、安堵の表情を浮かべる。

 新雪のあちこちに志乃武、竜介そして紅子の三人が倒れているのもすぐに見つけた。


 しかし、黄根老人の姿だけは、どこにもなかった。


 神出鬼没のあの老翁のこと、きっと自分の力を使って帰宅したのだろう――

 その場では互いにそう言い合って納得し、黄根家にはあとで連絡を入れることにして、彼らはとりあえず目の前の三人を目の前の家に運び入れ介抱することにした。


 家の時計は朝の八時をすぎたところだった。

 冷凍庫のように冷え切っていた屋内が暖房で温まると、ほどなくして竜介が意識を取り戻した。

 紅子の安否を気にする彼に、そばで志乃武の服――右袖がなく、血まみれの――を着替えさせていた玄蔵が、娘は無事だと伝えていると、別室でこちらも紅子の血だらけの服を着替えさせていた日可理が、当惑した様子で彼らのいる客間に入ってきた。

 紅子に何かあったのかと玄蔵が尋ねると、彼女は頭を振り、

「紅子さまのお着替えは問題なく終わりました。ただ……」

 と、続けた。


「実は、わたくしの力が使えなくなってしまったのです。式鬼も、法円も呼び出せなくて……。皆様はいかがですか?」


 玄蔵と竜介は驚き当惑して顔を見合わせる。

 日可理の質問に彼らが答えようとしたそのとき、再び襖が開いて、今度は鷹彦が顔をのぞかせた。

「竜兄、気がついたんだ!よかった~!」

 彼は兄の顔を見るなり、一瞬、嬉しそうにそう言ったが、すぐに伝えなければならないことを思い出したらしく、神妙な顔に戻り、

「……っと、それで、師匠が今、うちの母屋(おもや)――紺野家の本邸――に電話しておふくろさんと話してるんだけど、今さっき黄根家から母屋に連絡があって」

 と、少し早口になる。

 黄根家からの電話によると、と彼は言った。


「黄根さん、亡くなったんだと」



 その日は思いの外、長い一日になった。

 紅子と志乃武の容態が不明なため、当初は救急車を呼ぼうという意見もあったが、泰蔵から連絡を受けた英莉が紺野家と古馴染みの病院に話を通してくれ、彼女の車でそこの救急外来まで二人を運べることとなった。

 ちなみに紅子と志乃武が意識不明になった理由については、

「早朝、本邸から寺のほうへ山伝いに移動しようとして雪で道を見失ったらしく、到着が遅いので探しに行った泰蔵が倒れている二人を見つけた」

 ということにしておいた。

 早めに出勤してきた滝口と斎に留守を任せて、泰蔵の寺までやってきた英莉の車は普通のセダンだが、後部座席とトランクがつながるようになっている。

 彼女はフラットにした後部座席に紅子と志乃武の二人を寝かせ、助手席には志乃武の家族である日可理を乗せて、病院へ出発して行った。

 玄蔵は義父の生家である黄根家に悔みの電話を入れ、葬いの日取りなど聞いたりしてから、ようやく一息入れる時間ができた。

 台所で竜介と鷹彦が作ってくれた多めの朝食を泰蔵と平らげたあと、彼ら四人はしばし仮眠を取ることにしたが、その眠りはそれから二時間ほどで遮られることとなる。

 それは病院に行った英莉からの電話で、連絡が早かったのは、紅子も志乃武も命に別状がなかったからだ。

 二人とも軽い脱水症状と貧血、過労のほかは健康状態にとくに異常がないということで、報告を受けた四人は全員、安堵した。

 医師は言った。

 念のため一晩、様子を見ますが、明日には目を覚ますでしょう――などなど。

 そして、志乃武はまさしく医師の見立て通り、翌日の昼近くに意識を取り戻した。


 しかし――紅子の場合は、その見立てははずれてしまった。


 * * *


「玄蔵おじさん、こんにちは。あ、師匠も来てたんですね」

 そう言って病室に顔を出したのは、虎光だった。

「やあ、虎光くん。いらっしゃい」

「おう、来たか」

 ここは本来二人部屋だが、今は片方のベッドは空いているので、気兼ねなく話せるのがありがたい。

 それぞれに挨拶を返す玄蔵と泰蔵の表情が、思いの外明るいことに虎光は少しホッとしながら、消毒の匂いがする白いベッドに仰臥する紅子の顔を伺う。

 白い顔がいつもより少し血色よく見えるのは、窓から差し込む暖かな午後の日差しのせいだろうか。

 ベッドの傍らにはバイタルや輸液をモニターしている機器が、規則正しい電子音で彼女の命の音を刻んでいた。

 紅子が眠り続けて、今日で五日目になる。

 CTやMRIなど、できる検査はすべてやったが、どこにも異常は見つからなかった。

 医師の説明によると、彼女はただ「眠っている」のだ。

 それなら、目覚めるのをひたすら信じて待つしかない。

 落ち込んでいても事態は変わらないなら、せめて明るく過ごすのだというのが、泰蔵・玄蔵父子の考えらしいが、それでも不安に駆られることもあるだろう。

 だから、連日、紺野家本邸の誰かが見舞いに行くように気を配っていた。

 特に竜介は毎日来ていたのだが、五日目の今日、彼の姿はここにない。

「兄貴が、師匠とおじさんによろしく伝えてくれと言ってました」

「そういえば今日出発だったな」

 泰蔵が思い出したように言うと、玄蔵が、

「送って来たのかね?」

「はい、ついさっき駅まで」

 虎光は続けて、竜介から預かってきたと言って、小さな紙袋を取り出した。

「紅子ちゃんが目を覚ましたら、渡してほしいそうです」

 玄蔵は無言だったが、泰蔵は

「なんだ、菓子類か?」

 と興味津々で紙袋を受け取ると、ためつすがめつ眺めた。

 それは黒くて張りのある厚手の紙でできていて、イタリック体で書かれたブランド名か何かが小さく箔押しされ、持ち手に赤いリボンが結ばれている。

 一見して、ちょっとした気軽なプレゼント、という雰囲気ではない。

「なんだ、意外に重いな。腕時計かな」

「まあヒントとして言えるのは、昨日、兄貴が自分のといっしょに買ってたってことくらいですかね」

 虎光が思わせぶりに言うと、それまで黙っていた玄蔵の頬がぴくりと動いた。


「まさか……指輪……!?」


「いやいや、そんな大げさなものじゃないですって」

 虎光が慌てて否定すると、泰蔵も

「それはさすがに気が早すぎるだろう。鷹彦じゃあるまいし」

 と呆れ顔で言う。

 だが玄蔵は納得しない。

「でも、見るからに高そうだし……念のため中身を確認したほうが」

 などと言い出すので、泰蔵はやれやれと言わんばかりに額を押さえ、虎光は苦笑とともに泰蔵の手から紙袋を取り返して玄蔵から遠ざけた。

「困ったな。紅子ちゃん宛てなんですってば」

「紅子はまだ未成年なんだから、親のわたしが確かめる必要が」

 ある、と玄蔵が言いかけたそのとき。

 かすかに、「うーん」と誰かがうめいた。

 三人は顔を見合わせ、自分たちでないと目で頷き合うと、紅子を見た。

 彼女は大きく伸びをすると、眠そうに目をこすりながら、言った。


「んー……もう、うるさいなぁ……よく寝てたのに、枕元で騒がないでよ」


※挿絵はAI生成です。

2025年2月17日月曜日

紅蓮の禁呪155話「禁術始動・二」


 

 人の意識を神的領域にまで引き上げるための手法は、断食や滝行など肉体的な限界を究める苦行から、酒や向精神作用のある薬草・菌類などを用いた儀式に至るまで、有史以前から枚挙にいとまがない。

 それはとりもなおさず、己という雑念にまみれた存在を超えた先に、何かがあると人が強く信じてきた所以であろう。

 舞踏や音楽も、古来より人と神とをつなぐよすがであり、人の意識を高みへと導くものとされてきたわけだが――


 今、世界を震撼させている「音」は、歌や音楽というよりはもっと原始的なものだ。


 神女の喉から――否、その全身から放たれているその「音」こそ、術を起動するための最後の鍵だった。

 紅子にとって、これは二度目の儀式となるが、黒珠のときよりも澄んだ音に聞こえるのは、五つ目の魂縒を受けたせいだろうか。

 自分の身体が――おそらく玄蔵や黄根老人、白鷺家の二人と同じく――凄まじい術圧に耐えているのを感じる。

 対して紅子は、自分の意識が「音」によって押し上げられるように感じていた。


 さらに遠く、さらに高く――


 時間の感覚は消失し、一瞬とも永遠とも思える旅の果て、彼女がたどりついたそこには、「彼ら」がいた。

 紅子の目に――意識のみの状態なので、この表現は正確ではないのだが、視覚として彼女が感じたという意味で――最初、「彼ら」は五色に輝くモヤか霞の塊のようだった。

 それが次第に形がはっきりしてきて、やがてそれぞれ御珠を表す色の長衣をまとい、フードを目深にかぶった巨人の姿となった。

 フードの中の顔はわからない。

 全身を覆う長衣のせいで、性別も、年齢も不明だ。


 これは「彼ら」の仮の姿だ、と紅子の脳裏を直観がよぎる。


 「彼ら」は本来は実体を持たず、ただ純粋な力の存在なのだ。

 今は紅子の無意識が、自分にとってわかりやすい姿を彼らに投影しているにすぎない。

 そう、「彼ら」はまるで鏡のように、認識者の無意識によって姿を変えてしまう。

 すなわち、「彼ら」を母性的な存在だと捉える者には女神の姿となるし、「彼ら」の強大な力を恐れる者には、見るもおぞましい怪物となるということだ。

 過去、魂縒を四つの御珠からしか受けずに禁術を立ち上げた神女が命を落とした原因は、おそらくそこにあると思われた。


 御珠の一族にとって、魂縒とは「意識を高位に引き上げる」手段であり、とくに炎珠の神女は、五つの魂縒によって人として到達しうる最高位、いわゆる「悟り」の境地を手に入れてきた。

 そして禁術は本来、「彼ら」、つまりさらに人智を超えた高位の存在とつながるための手段だったのだが、長らく黒珠を封印する術としてのみ使われてきたために、「封滅・封禁術」と誤認されて伝わってしまったのである。


 この神域にたどり着くに足るレベルにまで意識を十分に引き上げることができなかった神女たちが、「彼ら」の純粋で巨大な力に恐怖し、哀れにも自ら精神を崩壊させ

てしまったことは想像に難くない。

 黒珠の伺候者たちによる最初の禁術が完全に起動していたなら、紅子も同じ道をたどったことだろう。

 しかし。

 今の紅子の中に、恐怖はない。

 ただ、「彼ら」を神々しいと思う。

 そして「彼ら」は、歓迎という以上に直接的な「愛」ともいうべき温もりで、彼女の意識を包んでいた。


 ここではどんな望みもかなう。


 直観がそう告げる。

 ここはすべての始まりであり終わり。

 時間は存在せず、過去も未来もすべてがここにある。

 善も悪も存在しない、あらゆる現世の価値観から切り離された、神々の住まう常世の国なのだ。

 いかなる望みも、願った瞬間にかなう――

 それを直観したとき、紅子は初めて畏怖を感じた。

 自分の心の動き一つで、世界が変わってしまうかもしれない。

 けれど、彼女の中でずっと響き続けている一つの言葉が、その畏れを振り払う。


 すべてを終わらせるのだ。


 それは、まるで黄根老人がすぐそばでそう「言っている」かのようだった。

 他ならぬ自分自身のものでもある、そのたった一つの望みを、彼女は「彼ら」に伝えたところ、「彼ら」は少なからず驚いたようだった。

 ざわめきが、さざなみのように紅子の意識を撫でた。


 ここではいかなる望みもかなう。

 その望みは世界を変えるだろう。


 それでも望むのか?と念押しするような「彼ら」の躊躇が伝わってきたが、同時にそれは、紅子の躊躇でもあった。


 脳裏を、数々の見知った顔がよぎる。

 彼らを落胆させてしまうだろうか。

 怒らせることになるかもしれない。

 それでも――


 終わらせねばならないのだ。

 今ここで、すべてを。


 * * *


 雷迎術を起動した次の一瞬は、生きた心地がしない。

 自分の身体がまるで液体になったような、なんとも心許ない体感だけを残して、残りの感覚はすべて消失してしまう。

 実際のところ、この術は物理的な肉体を、物質と霊体の中間のようなものに根本から組み替えてしまうらしいから、感覚が消えるその一瞬、術者は限りなく死に近い経験をしているのかもしれない。

 自分がこれを味わうのは今回で二度目だが、おそらく何度やっても慣れることはないだろう――と竜介は思い、彼が日可理から受けた黒珠の記憶の中にいる龍垓も、同じことを感じていたと気づいて、妙な親しみを覚えた。


 術による肉体変成は凄まじい発光と発熱反応を引き起こす。

 術者本人にとっては数分にも感じられる変成だが、客観的な時間ではほんのコンマ一秒ほどの出来事だ。

 その一瞬で周囲には熱風とプラズマの嵐が発生、急激な気温の変化で空気中の水蒸気が霧を作る。

 視界の消失。

 しかし、彼が得た新たな「身体」には、物理的視界などもはや必要ない――今や森羅万象あらゆる超自然の力に自在にアクセスできるのだから。

 龍垓が変化した巨竜の凄絶な雷撃を受けても、静電気に触れたときのように感じるだけで、硬質な鱗はびくともしない。

 爪と牙が火花を散らし、欠けた鱗が弾け飛ぶ。

 鱗の下の皮膚が切り裂かれても、鈍い痛みがあるだけ。

 御珠からの力の供給のおかげで、その傷もたちまち消える。


 俺は今、不死身だ、と竜介は思った。


 身の内から湧き上がる超自然の力、それを振るい戦う高揚感、万能感、解放感。

 人だったときの自分が、ひどく矮小で弱々しく思われる。

 龍垓がこの術を「何度も使うべきではない」と考えていたのは、この感覚に慣れすぎてしまうことを恐れたのかもしれない。


 ぶつかり合う光と闇。


 紅子たちが今しも禁術を立ち上げようとしている法円めがけて、黒珠の二度目の雷撃が放たれ、それを防ごうとして黒い巨竜の前に立った竜介は、相手の左頬の黒鱗がわずかに裂け、赤黒く焼けただれたような傷が覗いていることに気づいた。

 彼がつけた傷――ではない。そうであれば、すぐに癒えてしまうはずだ。

 そのとき。

 凄まじい術圧が法円から同心円を描いて広がった。


 禁術が起動した。


 黒い巨竜の左頬の傷が見る間に広がり始め、黒曜石のような鱗が剥がれ落ちる。

 巨竜の咆哮に、世界が震える。


 その声は、苦痛の悲鳴か、それとも勝者への呪詛か――


 戦いが終わる予感の中、竜介は不意に虚無感に襲われた。

 百年後か、千年後かはわからない。

 けれど、いつか封印がほころびたとき、自分たちの子孫はまたこうして命のやり取りをするのだろうか。

 人ならざる力を持ち、口にはできない秘密を抱えたままで、また何百年も血を継いでいく……。

 この「呪いと祝福」から救われる日が、今すぐでなくていい、いつか来るようにと――彼は祈った。



※挿絵はAIにより生成しました。

2025年1月14日火曜日

紅蓮の禁呪154話「禁術始動・一」

 


 このままでは術は起動しない――


 理屈より先に、そんな直感が紅子の中に沸き起こったのは、五本の腰高の柱にそれぞれ御珠を召喚したあとのことだった。

 目の前の柱に彫刻された饕餮文が、炎珠の輝きに照らされて赤く浮き上がっているのを眺めながら、なぜだろう、と首をひねる。

 残り四つの柱もそれぞれ青、白、金、黒の御珠をその台座にいただいて、封禁術始動の準備は万端だ。

 紅子は進まない気分ながらも、禁術の法円を展開した。

 五つの宝珠の上にそれぞれ術を制御するための小法円が起動し、黒大理石に刻まれた幾何学模様が、薄闇の中、朱色に縁取られた黄金色に浮かび上がる。

 しかし。

 その模様の一部は欠けたり、エラーを示すように奇妙な瞬きを繰り返したりしていて、明らかに不完全な状態だ。

 それでようやく、このモヤモヤした気分の理由がわかった。


 この法円は、黒珠の伺候者でなければ使えないようになっている。


 黒珠は禁術のせいで他の四つの御珠の一族とは「違う」存在に――人ならざる「怪物」になってしまったために、法円も自分たち専用に調整したものでなければ使えない。

 なぜなら、体内の気の流れが違うから。

 先の黒珠による禁術が自壊したのも、黒珠とは気の流れの違う紅子を使って術を起動した無理が伺候者たちに負担を強いたのが大きな原因の一つだ。

 それはさておき。

 紅子は異常を示す法円を前に、素早く思考を巡らせた。

 彫り込まれた法円を無視して起動することはできる。

 法円は術を起動するための複雑な力の配分をスムーズにしたり補強したりするためのツールにすぎない。

 だが、禁術レベルの大がかりな術となると、話は違う。

 事前に準備された法円があれば、伺候者と術者(紅子自身のことだ)の負担はぐっと軽くなる。

 だからこそ、黒珠もこの一枚岩を用意したのだろう。が――

 紅子は「壁」を守っている鷹彦の背中に、その外にいる泰蔵に、そして黄金の雷槌をまとい青く輝く巨竜に、視線を走らせた。


 時間がない。


 調整すれば、黒大理石に刻まれた法円を利用して、より負担の軽い起動はできるだろう。

 けれどそれには圧倒的に時間が足りなかった。

 たとえ負担が重くとも、床の法円を頼らず、一から術を起動するしかない。

 そう決意し、紅子は赤く揺れ動く宝珠に視線を戻した。

 自分がもう一人いれば可能かもしれない――

 ありえないことをふと思った、そのとき。


「紅子さま」


 日可理の声がした。

 見ると、いつの間に来ていたのか、彼女はすぐそばに、炎珠を挟んで真向かいに立っていた。

「少々失礼いたします」

 日可理は驚く紅子をよそに、自分の炎珠の上に手をかざすと、小さな法円を出した。

 補助法円、という言葉が紅子の脳裏に閃く。

 日可理は、法円の調整を手伝ってくれようとしている。

 紅子は頭の片隅に小さな引っ掛かりを感じながらも、急いで自分の制御法円に向き直った。

 二人の指先が、二つの法円の上を素早く走り、黒大理石の法円がそれに合わせて目まぐるしく輝きを変えていく。

 明滅して異常を訴える幾何学模様が、次から次へと術を起動するのに適確な状態になっていく。


 なぜ日可理は、初見とは思えない速さで法円の調整を手伝えるのか?


 そのとき、竜介と龍垓の力がぶつかり合う轟音で、足元が大きく揺れた。

 ほんの一瞬、辺りが真昼の明るさになる。

 紅子は自分の頭脳が、その閃光と同じくらい凄まじい速さで回転するのを感じていた。

 答えはわかっている。だが。


「日可理さん、一つだけ訊いていいですか」


 紅子は言った。


「紺野家の結界が消えたとき、どうして結界石のところにいたんですか?」


 炎珠の向こう側で法円を操作する日可理の肩が、一瞬、震えたように見えた。

 しかし、彼女は視線を法円に固定したまま、答えた。


「紺野家の結界を壊したのが、わたくしだからです」


 疑問のパズルのピースが埋まった。

 だが、その音は紅子の胸に冷たく響いた。

 炎珠の輝きの中に浮かぶ日可理の顔が今や蝋のように白いのも、おそらく寒さのためだけではないだろう。

 沈黙に促されるように、日可理は言葉を繋いだ。


 白鷺の屋敷で迦陵と対峙したとき、体内に小さな怪魚を入れられ、迦陵の手駒となったこと。

 体内の黒珠のせいで紺野家の結界内に入れない彼女は涼音を唆(そそのか)し、結界を無効にする呪符を貼らせたこと。

 そして。


 竜介の体内にも同じ怪魚を植え付けようとして失敗したこと――


 紅子は結界が消えたあの夜、結界石のそばで見た光景を思い出し、肩にかけられた竜介の上着を我知らず強く握りしめた。

「碧珠では忘れられていた雷迎術を、竜介が今こうして使っているのは、黒珠の法円を応用したんですね」

 紅子の言葉に、日可理がうなずく。

「わたくしは、迦陵を通じて黒珠の記憶を共有しましたから。でも、文書が見つからなければ雷迎術もこの禁術も、調整できなかったと思います」

 黒珠が禁術を発動するその前日というぎりぎりのタイミングで見つかった光明は、雷迎術の法円について大まかにだが記された紺野家の文書と、黒珠の法円と他の御珠の一族が使う法円との違いについて書かれた白鷺家の文書を発見したことだった。

「あの、どうか誤解なさらないでくださいませ」

 日可理はほんの一瞬、法円から目を上げて紅子を見た。

「雷迎術の調整をお手伝いしましたが、わたくし、竜介さまとは電話や式鬼を通してしかお話しておりません」

 その生真面目な白い顔に、紅子は頬を緩める。


 日可理が迦陵に操られていなければ、紺野家の結界が破られることはなかっただろう。

 けれど、そうなると紅子が黒珠から魂縒を受ける機会は失われ、四つの御珠の力だけで禁術を起動することになっただろうし、竜介が雷迎術を会得して龍垓と互角に戦うことも難しくなったに違いない。


 なんと数奇なことだろう。


 紅子が口を開きかけると、日可理も法円から顔を上げ、何かを言おうとした。

 二人の視線が重なる。

 けれど、彼女らが交わそうとした言葉は永遠に失われた。

 なぜならそのとき、再び凄まじい閃光が周囲を照らし、轟音が彼らの立つ黒大理石の円形舞台を揺るがしたからだ。

 鷹彦が悲鳴のような声で叫んだ。


「次で限界――!!」


 日可理はその声に、手を一振りして補助法円を閉じた。

 紅子の制御法円にはまだ一つだけ、明滅している記号がある。

 禁術を始動するための、最後の記号。

 調整が終わったのだ。

「では、わたくしはこれで」

 日可理は口元に小さな笑みを浮かべ、会釈すると自分の持ち場に――黒珠の待つ円柱に戻って行った。


 足元に広がる巨大な法円は黒大理石の上で朱と黄金に輝き、この冷たい薄明の世界を温めるかのようだった。

 紅子は最後の明滅する記号に触れた。

 凄まじい術圧。だが。


 恐れるものは、もう何もない――


 肩にかけられた温もりが、そう告げていた。

紅蓮の禁呪158話「禁術始動・五」

   碧珠が収められていた紺野家の滝裏の洞窟も、白珠が隠されていた白鷺家の四阿(あずまや)の仕掛けも、同様に消えてなくなった。  黄珠がどこに安置されていたのかはわからないが、その場所も今はなくなっているだろう。  竜介たちと黒帝宮へ赴いたはずの朋徳は、黄根家からの連絡によると、...