このままでは術は起動しない――
理屈より先に、そんな直感が紅子の中に沸き起こったのは、五本の腰高の柱にそれぞれ御珠を召喚したあとのことだった。
目の前の柱に彫刻された饕餮文が、炎珠の輝きに照らされて赤く浮き上がっているのを眺めながら、なぜだろう、と首をひねる。
残り四つの柱もそれぞれ青、白、金、黒の御珠をその台座にいただいて、封禁術始動の準備は万端だ。
紅子は進まない気分ながらも、禁術の法円を展開した。
五つの宝珠の上にそれぞれ術を制御するための小法円が起動し、黒大理石に刻まれた幾何学模様が、薄闇の中、朱色に縁取られた黄金色に浮かび上がる。
しかし。
その模様の一部は欠けたり、エラーを示すように奇妙な瞬きを繰り返したりしていて、明らかに不完全な状態だ。
それでようやく、このモヤモヤした気分の理由がわかった。
この法円は、黒珠の伺候者でなければ使えないようになっている。
黒珠は禁術のせいで他の四つの御珠の一族とは「違う」存在に――人ならざる「怪物」になってしまったために、法円も自分たち専用に調整したものでなければ使えない。
なぜなら、体内の気の流れが違うから。
先の黒珠による禁術が自壊したのも、黒珠とは気の流れの違う紅子を使って術を起動した無理が伺候者たちに負担を強いたのが大きな原因の一つだ。
それはさておき。
紅子は異常を示す法円を前に、素早く思考を巡らせた。
彫り込まれた法円を無視して起動することはできる。
法円は術を起動するための複雑な力の配分をスムーズにしたり補強したりするためのツールにすぎない。
だが、禁術レベルの大がかりな術となると、話は違う。
事前に準備された法円があれば、伺候者と術者(紅子自身のことだ)の負担はぐっと軽くなる。
だからこそ、黒珠もこの一枚岩を用意したのだろう。が――
紅子は「壁」を守っている鷹彦の背中に、その外にいる泰蔵に、そして黄金の雷槌をまとい青く輝く巨竜に、視線を走らせた。
時間がない。
調整すれば、黒大理石に刻まれた法円を利用して、より負担の軽い起動はできるだろう。
けれどそれには圧倒的に時間が足りなかった。
たとえ負担が重くとも、床の法円を頼らず、一から術を起動するしかない。
そう決意し、紅子は赤く揺れ動く宝珠に視線を戻した。
自分がもう一人いれば可能かもしれない――
ありえないことをふと思った、そのとき。
「紅子さま」
日可理の声がした。
見ると、いつの間に来ていたのか、彼女はすぐそばに、炎珠を挟んで真向かいに立っていた。
「少々失礼いたします」
日可理は驚く紅子をよそに、自分の炎珠の上に手をかざすと、小さな法円を出した。
補助法円、という言葉が紅子の脳裏に閃く。
日可理は、法円の調整を手伝ってくれようとしている。
紅子は頭の片隅に小さな引っ掛かりを感じながらも、急いで自分の制御法円に向き直った。
二人の指先が、二つの法円の上を素早く走り、黒大理石の法円がそれに合わせて目まぐるしく輝きを変えていく。
明滅して異常を訴える幾何学模様が、次から次へと術を起動するのに適確な状態になっていく。
なぜ日可理は、初見とは思えない速さで法円の調整を手伝えるのか?
そのとき、竜介と龍垓の力がぶつかり合う轟音で、足元が大きく揺れた。
ほんの一瞬、辺りが真昼の明るさになる。
紅子は自分の頭脳が、その閃光と同じくらい凄まじい速さで回転するのを感じていた。
答えはわかっている。だが。
「日可理さん、一つだけ訊いていいですか」
紅子は言った。
「紺野家の結界が消えたとき、どうして結界石のところにいたんですか?」
炎珠の向こう側で法円を操作する日可理の肩が、一瞬、震えたように見えた。
しかし、彼女は視線を法円に固定したまま、答えた。
「紺野家の結界を壊したのが、わたくしだからです」
疑問のパズルのピースが埋まった。
だが、その音は紅子の胸に冷たく響いた。
炎珠の輝きの中に浮かぶ日可理の顔が今や蝋のように白いのも、おそらく寒さのためだけではないだろう。
沈黙に促されるように、日可理は言葉を繋いだ。
白鷺の屋敷で迦陵と対峙したとき、体内に小さな怪魚を入れられ、迦陵の手駒となったこと。
体内の黒珠のせいで紺野家の結界内に入れない彼女は涼音を唆(そそのか)し、結界を無効にする呪符を貼らせたこと。
そして。
竜介の体内にも同じ怪魚を植え付けようとして失敗したこと――
紅子は結界が消えたあの夜、結界石のそばで見た光景を思い出し、肩にかけられた竜介の上着を我知らず強く握りしめた。
「碧珠では忘れられていた雷迎術を、竜介が今こうして使っているのは、黒珠の法円を応用したんですね」
紅子の言葉に、日可理がうなずく。
「わたくしは、迦陵を通じて黒珠の記憶を共有しましたから。でも、文書が見つからなければ雷迎術もこの禁術も、調整できなかったと思います」
黒珠が禁術を発動するその前日というぎりぎりのタイミングで見つかった光明は、雷迎術の法円について大まかにだが記された紺野家の文書と、黒珠の法円と他の御珠の一族が使う法円との違いについて書かれた白鷺家の文書を発見したことだった。
「あの、どうか誤解なさらないでくださいませ」
日可理はほんの一瞬、法円から目を上げて紅子を見た。
「雷迎術の調整をお手伝いしましたが、わたくし、竜介さまとは電話や式鬼を通してしかお話しておりません」
その生真面目な白い顔に、紅子は頬を緩める。
日可理が迦陵に操られていなければ、紺野家の結界が破られることはなかっただろう。
けれど、そうなると紅子が黒珠から魂縒を受ける機会は失われ、四つの御珠の力だけで禁術を起動することになっただろうし、竜介が雷迎術を会得して龍垓と互角に戦うことも難しくなったに違いない。
なんと数奇なことだろう。
紅子が口を開きかけると、日可理も法円から顔を上げ、何かを言おうとした。
二人の視線が重なる。
けれど、彼女らが交わそうとした言葉は永遠に失われた。
なぜならそのとき、再び凄まじい閃光が周囲を照らし、轟音が彼らの立つ黒大理石の円形舞台を揺るがしたからだ。
鷹彦が悲鳴のような声で叫んだ。
「次で限界――!!」
日可理はその声に、手を一振りして補助法円を閉じた。
紅子の制御法円にはまだ一つだけ、明滅している記号がある。
禁術を始動するための、最後の記号。
調整が終わったのだ。
「では、わたくしはこれで」
日可理は口元に小さな笑みを浮かべ、会釈すると自分の持ち場に――黒珠の待つ円柱に戻って行った。
足元に広がる巨大な法円は黒大理石の上で朱と黄金に輝き、この冷たい薄明の世界を温めるかのようだった。
紅子は最後の明滅する記号に触れた。
凄まじい術圧。だが。
恐れるものは、もう何もない――
肩にかけられた温もりが、そう告げていた。