2023年8月2日水曜日

紅蓮の禁呪9話「視線」

  翌朝。

 紅子は、階下から聞こえるかすかな物音と、味噌汁の匂いで目を覚ました。

 枕元の目覚ましは、六時半。彼女が起床すべき時刻より、若干、早い。

 今日の朝御飯は、あたしが当番だったはずだけど……?

 祖母が亡くなって以来、一色家では家事の分担を当番制にしている。

 ちなみに、昨日の夕食当番は玄蔵だった。

 不思議に思った彼女は寝ぼけまなこをこすりながら、パジャマのままで二階の自室から台所へ降りた。

 そこでは、見覚えのない背の高い男が料理をしていて、彼は紅子の気配に気付くと振り返り、にっこり笑った。

「や、早いねぇ」

 その端整な顔立ちは、紅子と同い年くらいにも、やや年上にも見えた。

 長めにのばした髪を後ろに流してまとめているが、幾筋か残ったおくれ毛が、額にかかっていた。

 だれだ、こいつ?

 まだ頭の回路が充分目を覚ましていない紅子は、うすらぼんやりしたまなざしで相手を見つめた。

 が、彼はそんなことなど気にもとめていない様子で、慣れた手つきで作業を続けながら、一人でぺらぺらとしゃべり続ける。

「昨日はいきなりお邪魔して、悪かったね。お詫びといっちゃ何だけど、朝御飯、作ろうと思ってさ。もうすぐできるから、ちょっと待っててくれるかい。口に合うといいんだけど。あっ、台所、勝手に使っちまったけど、ちゃんと元通りに片づけておくからね」

 相手のとりとめのないお喋りを聞いているうちに、紅子は、徐々に昨夜の出来事を思い出し始めた。

 そーだ……昨夜……紺野とか言う父さんの知り合いが来て……。

 彼女の脳裏に、無精ヒゲとボサ髪の、むくつけき男の顔がよみがえった。

 それが、目の前の青年のそれと重なる。

 紅子は、回転速度がやや平常通りになってきた頭で尋ねた。

「あの~……あなた、紺野さん?」

「そう」

 相手はにっこり笑ってうなずいた。

「俺のことは、竜介って呼んでいいよ」

 ふーん。

 紅子は、ぼんやりと竜介の顔を見つめた。

 もっとおぢさんかと思ったら、意外に若いんだ。あたしよりちょい年上くらい?

 そのあいだにも、竜介のおしゃべりは続いていた。

「……だからさ、俺、ここでお世話になってるあいだ、食事当番させてもらってもいいかなぁ?単に居候するだけじゃ申し訳ないだろ。大丈夫、料理の腕には自信あるんだ」

 ……は?

 紅子の目が点になった。

「……いそうろう?」

「そう、居候」

 竜介は、笑顔を絶やすことなく、答えた。

「おじさんから聞いてない?俺、しばらくここに住むって」



 制服姿の学生たちが、にこやかにあいさつを交わし合い、談笑しながら歩いていく、さわやかな朝の通学路。

 その中をただ一人、憤然とした面もちで肩を怒らせ歩く女子生徒がいた。

 紅子である。

 ったくもー、ったくもー、ったくもーっ!!

 うちの親父ってば信じらんないっ。

 知り合いだかなんだか知らないけど、若い娘のいる家に、男を居候させるだなんてっっ!!

 それもあんな気に食わない男をっ!!

 彼女は昨夜、自分の放った硬気功が竜介に止められてしまったことを思い出し、さらに気分が悪くなると同時に、奇妙なことに気付いた。

 あいつ……包帯、してなかった。

 竜介は今朝、半袖のTシャツを着ていたが、腕には、包帯どころか、昨夜のひどい傷さえ見あたらなかったことを、思い出したのだ。

 紅子は、その場に立ち止まって、考え込んだ。

「どういうこと……?」

 と、そのとき、誰かがその肩を叩き、不意をつかれた彼女は思わず悲鳴を上げた。

「ひゃあっ!!」

 あわてて振り返ると、藤臣が、彼女の過剰な反応に当惑した様子で立っていた。

「あ……センパイ」

「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。さっきから何度か声をかけてたんだけど、気がつかないみたいだったから」

「あ、いえ、私のほうこそ、大声出しちゃって」

 紅子は素直に頭を下げた。

「何か、考え事?」

「え?はい、まあ、そんなところです」

 曖昧に笑って頭をかきながら、彼女はふと視線を感じて、辺りを見回した。


 それまで二人のことを見ていた春香は、紅子がこちらを振り返ろうとしたので、あわてて物陰に隠れた。

 隠れてから、自己嫌悪に陥おちいる。

 ……何やってんだろ、わたし……。

 別に、二人の様子を盗み見してやろうなどと思っていたわけではない。

 紅子の姿を見かけて声をかけようとしたところ、藤臣に先を越されてしまい、そのまま何となく声をかけそびれてしまったのだ。

 再びそっと様子をうかがうと、彼らは並んで歩き出すところだった。

 今すぐ走っていけば、まだ間に合う。

 気兼ねすることなど、何もないはずだった。

 しかし、昨日の藤臣の言葉を思い出すと、彼女の足はどうしてもすくんだまま、動かなかった。

 さて――

 そんな三人のことを、おもしろそうにじっと見つめている、不気味な目があった。

 春香の背後、排水溝の影に潜む「それ」は、狡猾そうな視線を彼らに注いでいたが、とくに紅子に対して向けられるとき、それは明らかに、他の二人とは違う感情を帯びていた。

 すなわち、殺意に近い憎悪。

 しかし、その不穏な視線に気付くものは、今はまだ誰もいなかった。

紅蓮の禁呪8話「邂逅(かいこう)」

  彼は、声のしたほうを植え込みの影からそっと見た。

 長い髪を三つ編みにした、小柄な少女が、月明かりの下、険しい目つきでこちらを睨にらんでいる。

 しまったなぁ……。

 彼は頭を抱えた。

 まさか、あの一瞬で気付かれたのか?

「出てこい、ってのが聞こえないの?」

 再び、少女の声。

「それとも、引きずり出されたい?」

 相手の近づく気配に、彼はあわてて立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これにはわけが……」

「わけ?」

 彼女は馬鹿にしたように、フンと鼻を鳴らした。

「ドロボーにどういうわけがあるっての?」

「ど」

 泥棒って。

「俺は泥棒じゃない」

 少女の眉が、ぴくりと動く。

「へーえ。こんな時間に人んちに忍び込んでおいて、ドロボーじゃありませーん、って?」

 嘲弄するような口調。

「たまにいるんだよね。あの蔵見て、うちに盗みに入るやつ。でも、残念でした。あれ空っぽなの」

 パキッ、ポキッ。

 少女の指の関節が鳴る。

 この流れは、かなりまずい。

「違うって、俺は」

「違うの?じゃあ、変質者?」

「だから、違」

「ま、いっか。どっちでも」

 よくねーよ!

 彼はそう叫びたかったが、それが声になる前に、間合いを詰められていた。速い。

「うちに忍び込んだこと、後悔させてあげるっ!」

 そう言うや否や、小手調べだろう、正拳突きが来た。彼は紙一重でそれをよける。

「へぇ、やるじゃん」

 少女は一歩下がって間合いを取ると、凶悪な笑みを浮かべ、そう言った。

「あのさぁ」

 彼は空腹に頭痛が加わったような気がした。

「一分でいいから俺の話、聞」

「言いわけ無用っ!」

 自分の気迫に相手が動じる様子をまったく見せないのが、彼女のしゃくにさわったらしい。

 言葉と同時に、カミソリのような上段の蹴りが一閃、彼の耳元の空を切り裂いた。

 今度の攻撃はそれだけでは終わらず、再び間合いを詰めて、拳での打撃へ。

「きみ、紅子ちゃんだろ?」

 彼は少女の連続攻撃を実に軽々と避けながら言った。

「俺は、君のお父さんの知り合いで」

 だがそれは、

「うそなら、もっとましなうそにしなっ」

 と、さえぎられてしまった。

「うちの親父の知り合いに、あんたみたく汚らしい浮浪者なんかいないっ!!」

 汚らしい。

 浮浪者。

 しかし、その時の彼は、確かにそう言われても仕方がないような格好をしていた。

 最後に剃ったのがいつだかわからないような無精ヒゲ。

 ぼさぼさの頭髪。

 すり切れたジーンズ。

 履きつぶしかけのスニーカー。

 こんな姿で夜分、他家の塀によじ登っていれば、間違いなく立派な不審人物だ。

「だから、これにはわけが」

 彼は懸命に弁解を試みる。

 が、次の瞬間、蹴りと一緒に飛んできた、

「うるさいっ!!」

 という怒鳴り声に、またもやさえぎられたのだった。


 実を言うと、このとき紅子はかなりムキになっていた。

 こちらはそろそろ息が上がってきているのに、攻撃がまだ一つも決まっていない。

 しかも相手はまだまだ余裕のある顔をしている。

 こいつ……かなりできる。

 でも、なんで仕掛けてこないんだ?

 打つのも蹴るのも、まるで手応えがない。

 師匠である父を相手にしても、二回に一回はヒットさせられる自信があるスウィッチ・キックさえ決まらなかった。

 ならば投げ飛ばしてやろうと腕をつかんだはずが、次の瞬間には空を掴んでいる。

 まるで、実体のない影と闘っているようだ。

 男は、別に攻撃を避けるために構えたりするわけでもなく、ごく普通に、いやむしろのほほんと立っているだけ。

 見た目には隙だらけだ。

 それがよけいに彼女の神経を逆撫でした。

 疲れて動きが鈍るのを待ってる?

 冷たい汗が、背中を伝う。これ以上長引けば、体力のないこちらが不利だ。

 相手の思うつぼにはまってたまるか!

 彼女は完全に本気になった。

 次で絶対に決めてやる!


 弱ったな~。

 男は密かにため息をついた。

 話、聞いてくれねーんだもんなぁ。

 彼から見れば、少女の本気など、毛を逆立てた子猫の本気みたいなものだが、爪を立てて向こうから飛びかかって来られると、あいさつに困った。

 大人しくさせるためには多少手荒なことをしてもかまわないというのでなければ、猫じゃらしよろしく、彼女の気が済むまで適当に相手をしてやるしかない。

 しかし。

 今の彼に、そんな余裕はなかった。なぜなら、彼は

 空腹

 だったからである。

 ああ……晩飯……。

 と、そのとき。

「紅子」

 玄蔵の声だった。同時に、彼が愛用している雪駄の音が近づいてくる。

「どうしたんだ?さっきからなんだか騒々しいが……」

 ほんの一瞬、男の気が自分から逸れるのを、紅子は見逃さなかった。

 彼が相手の気の異様な高まりに気づくのと、彼女の拳が硬気の塊を打ち放つのとは、ほぼ同時。

 ヒュッ、という口笛のような鋭い音が大気を切り裂き、彼を襲った。

 まずい。避けきれない。

 彼はとっさに身を低くし、両腕を盾にする。次の瞬間、重い衝撃とともに、両腕に鋭い痛みが走った。

 歯を食いしばってうめきを殺していると、ただならぬ気配を察したらしい玄蔵が、慌ててこちらへ来るのが見えた。

 彼は自分の娘が使った技のなんたるかをすぐに知ったらしく、憤然となった。

「紅子、おまえは何てことをっ!!」

 だが、紅子もまた、強いショックを受けていた。

「そんな……今の硬気を止めるなんて……」

 彼女はそうつぶやくと、呆然とした表情でこちらを見ている。

 もう攻撃する気力はなさそうだ。

 彼はほっとして防御態勢をとくと、ひゅう、と喉の奥から長い吐息をもらした。

「いや~、参った参った」

 などと微苦笑しながら。

「まさか、最後の最後にこんな大技を仕掛けられるなんて、思ってなかったなぁ」

 盾にした両腕をあらためて見れば、鋭利な刃物で斬りつけたような傷が無数に口を開け、血まみれ。

 Tシャツとジーンズも、あちこちがぼろぼろに裂けて、血が滲んでいる。

 やれやれだ。

 ため息をつきながら、傷の痛みに顔をしかめていると、こちらをしげしげと眺めていた玄蔵が言った。

「きみ……ひょっとして、竜介(りゅうすけ)くんかね?」

 ようやく思い出した、と言わんばかりに。

 男は照れたように笑うと、軽く会釈した。

「お久しぶりです、玄蔵おじさん」

 彼は、紺野竜介と名乗った。



 数分後。

「まったく、おまえときたら」

 玄蔵は娘を叱りつけていた。

「相手が竜介くんだったから大事に至らなかったものの、一歩間違えば、今ごろ傷害致死で前科一犯だぞ」

 紅子は、竜介の腕に包帯を巻きながら、ぷぅっと頬を膨らませている。

「……悪かったわよ」

「何だその謝り方は。大体おまえは」

「もういいですよ、おじさん」

 竜介は、まだまだ続きそうな玄蔵のお説教をやんわりとさえぎった。

「誤解されるような真似をした、俺も悪かったんです。それより……」

「それより?」

 おうむ返しに言ってから、玄蔵の顔にハッと緊張が走った。

 なにやら心当たりがあるらしい。

「い、いや、その話は明日にしよう。今日はもう、ゆっくり休んで」

「いえ、違うんです」

「え?」

 次の瞬間、全身から力が抜けてしまいそうな音が響きわたった。

 竜介の腹の音である。

「すみません」

 彼は、笑って頭をかいた。

「晩飯、まだなんです。さっきからもう、腹が減って死にそーで……何か食わしてもらえませんか?」

紅蓮の禁呪7話「来訪者」

  夕食を済ませた後、紅子は縁側に出てみた。

 昼間の蒸し暑さがうそのように、夜風が涼しい。もう秋が近いのだ。

 玄関の気配を探ってみたが、父の待ち人はまだ到着していないらしく、ひっそりと静まり返っている。

 客が来れば、やれお茶だ酒だとこき使われるに決まっているので、日課にしている体術の稽古を今のうちにすませておこうと思い立ち、彼女はスニーカーを履いて庭に降りた。

 いつものように、シャドーで形の練習をする。

 が。

 さっきの父の様子が気になって、どうにも稽古に集中できない。

 わざわざ上等の着物に着替え、玄関先まで出て待っているくらいだから、我が家にとってかなり重要な客のはずだ。

 それなのに、先刻の態度はいったい何なのだろう?

 まるで、「おまえは知らなくていい」とでもいわんばかりの、あの態度。

 一色家にとって重要なら、紅子にとって重要でないはずはないだろうに。

 それとも、あたしに知られると困るような相手なんだろうか?

 玄蔵の態度からして、来訪予定者は今朝の電話の相手で間違いない。

 問題は、あの雰囲気。

 歓迎――というよりは、ぴりぴりとしていて、警戒といったほうが正しい。

 上等の着物に着替えているのだから、腕に物を言わせるつもりはなさそうだけど――

 いったい、どんな人が来るんだろう?


 若い男からの電話がくることは、一色家の場合、別に珍しくない。

 玄蔵が、一色流練気柔術という合気道と気功を足して二で割ったような武術の師範をしているからだ。

 そして門下生や入門希望者はたいていの場合、男性が多い。

 でも、と紅子は首を傾げる。

 今朝の電話は、そんな感じじゃなかった。

 どうしてそう思ったんだろう。

 たしか、電話の相手は、朝早くに失礼します、などとありきたりのあいさつをして名乗った後、こう言った。

「玄蔵さんはご在宅でしょうか」

 道場の関係者は、玄蔵を「一色先生」または「一色師範」と呼ぶ。

 名前を呼ぶ人はあまりいない。

 と、いうことは。

 道場関係者ではなく、玄蔵の個人的な知り合い、ということか。

 紅子はとうとう稽古をやめ、腕組みをして考え込んでしまった。

「うーん。わっかんないな……」

 思わず独りごちてから、はっと我に返る。

 バッカみたい。なんであたし、さっきからこんなつまんないこと真剣に考えてるんだ。

 うちの親父に知り合いから電話なんて、いくらでもあるのに。

 そう自分で自分につっこみながらも、ふと、

 ちょっと事務的だけど、落ち着いた、いい感じの声だったな――

 などと思っている自分に気づき、紅子はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。

 いやいやいや、と、思い切り首を振る。

 あたしは男に興味なんか……。

 と――

 そのとき。かすかな気配が、彼女の思考をさえぎった。

 何だろう。今、何か、動いた。

 険しい目で、ゆっくりと振り返り、庭を見渡す。

 聞こえる音といえば、鈴を振るような虫の声ばかり。

 夜空は雲一つなく晴れ渡り、青く澄んだ月の光が、辺りを真昼のように照らしている。

 庭のそこかしこには、女郎花(おみなえし)や桔梗(ききょう)が早くも花をつけていたが、その花びらがわずかな風に揺れるさまさえ見て取ることができそうなほど、明るく、そして静かな、秋の宵だった。

 何の変化も感じられない。

 庭木の後ろにも、不審な影は見あたらない。

 しかし。

 彼女は全神経を針の先のように研ぎ澄まし、かすかな気の乱れを確かめると、大きく息を吸い込んだ。

「だれっ!?」

よく通る声が、辺りに響きわたる。

「そこで何してんのよっ、出てきなっ!!」



 それより少し前。

 一人の男が、一色家のすぐそばまでたどり着いていた。

「……やっぱりクルマ、頼めばよかったかなぁ」

 彼は、延々と続く塀を前に、ため息をついた。

 道は知ってるから、歩いていけると思ったんだけどな~。

「景色が変わってて道に迷うは、日は暮れるは……」

 そのとき、まるでタイミングを計ったように腹の虫が豪快な音を立てた。

「……腹は減るは」

 彼の記憶が正しければ、今いる場所から玄関まで、徒歩でゆうに五分はかかったはず。

 もう一度ため息をつくと、彼は恨めしそうに塀を見上げた。

「いっそ、こいつを乗り越えちまおうかな……そうしたら、早く晩飯にありつけるかも」

 晩飯。そう口に出したとたん、彼の頭の中からは、家人を驚かせてしまうかもしれないとか、第一、礼儀を欠いているとかいった理性的な考えは吹き飛び(いや、全く考えなかったわけではないのだが)、あとには食欲だけしか残らなかった。

 塀の高さは二メートルちょっと。

 仏閣などの和風建築でよく見かけるような板と漆喰でできた塀で、上に瓦がのっている。

 古ぼけて、今にも崩れそうに危なっかしいという点をのぞけば、越えられなくもないといった感じだ。

「ふむ」

 彼は無精ひげの生えたあごに手をあてて塀をためつすがめつ眺め、瓦の具合を確かめる。

 周囲を見れば、幸い、辺りに人影はない。

 普通の人間なら、この後、勢いをつけて「よじ登る」という格好になるのだろうが、彼の場合はまるで違っていた。

 持っていたボストンバッグを脇に抱え込み、二、三歩下がる。

 と、次の瞬間、わずかな助走をつけただけで、背中に羽根でも生えているように、軽々と塀の上に飛び乗ったのである。

 庭木に引っかかって音を立てるような失敗もなく、向こう側に着地を決めると、彼は小さくガッツポーズをした。

 楽勝だぜっ♪

 夕食へのショートカットに成功――と思いきや。

 すぐ近くに人の気配を感じ、彼はその場にうずくまったまま、あわてて自分の気配を絶った。

 相手が玄蔵おじさんでなきゃ、気づかれることはないだろう。

 などと楽観しながら。

 ところが。

「だれっ!?」

 少女の鋭い声が、明らかに彼めがけて飛んできた。

「そこで何してんのよっ、出てきなっ!!」

紅蓮の禁呪6話「記憶の瑕疵(かし)」

  夏が終わると、日暮れはやたら早くなる。

 部活を終えた生徒達が外に出てみると、日は既に沈み、西の空に赤い夕映えが残っているばかりだった。

「あ~あ、腹減ったなぁ」

「コンビニでアイス食べて帰ろ、アイス」

「新発売のおにぎりがさぁ」

 校門を出た部員達は、にぎやかにおしゃべりをしながら、三々五々に帰っていく。

 部活が遅くまであった日は、家の近い者同士、男女一緒になって帰宅するのが不文律ふぶんりつになっており、紅子と春香の場合、本来は部長の井出が一緒なのだが、今日からしばらくのあいだ、藤臣が代理として送っていくことになった。

「すみません、遠回りなのに」

 紅子が口ではそう言いながら、心中では、チャンス到来とほくそ笑んでいたことは言うまでもない。

 自分が消えれば、親友は憧れの君と二人きりではないか。

 そんな彼女のもくろみなど露とも知らない藤臣は、

「かまわないよ」

 と、普段通りののんびりした笑顔。

 春香はと見ると、気のせいだろうか、なんだか少し元気がなかったが。

 ともかく、自分たち三人だけになったら、行動開始だ。

「あの。あたし、ここで失礼します」

 紅子が声をかけると、藤臣と春香は、ほぼ同時に彼女のほうを振り向いた。

「父から買い物頼まれてるので、あのスーパーに寄らないと」

 と、横断歩道の向こう側にあるを指さす。

 信号はちょうど、赤から青に変わったところだ。まるで図ったような、いいタイミング。

 しかし、藤臣はいきなり別行動を取ると言い出した後輩に当惑した様子で、

「それなら、僕たちも」

 一緒に、と言いかける。

 が、その言葉を、紅子は素速くさえぎった。

「いえ、ちょっと時間かかるかもなので、先に帰っちゃってください。それじゃ」

 早口で言うと、点滅を始めた青信号に急かされたふりをして、駆け足で横断歩道を渡ってしまった。

 すれ違いざま、春香の耳元に「ガンバレ」とささやくことを忘れずに。

 流れ出した車の群れの向こうで会釈する紅子に手を振りながら、藤臣はどことなく釈然としない面もちで、

「忙しいヤツだなぁ」

などとつぶやいていたが、春香は親友が気を利かせてくれたのが、嬉しくて仕方なかった。

 ありがとう、紅子!このお礼は必ずするからね!!

「やっぱり、追いかけていったほうがよくないかな?」

 藤臣が心配そうに言った。

「仮にも女の子なんだし、何かあったら……」

「大丈夫ですよぉ」

 春香は笑って言った。

「紅子の家って、武術道場なんです。たいていの痴漢やチンピラなんか、敵じゃないって感じ」

 藤臣は目を丸くした。

「そ、そんなに強いのか、一色って?」

「見えないでしょー?でも、中学の頃なんか、すごかったんですよっ。他校の不良さんグループから引き合いが来たりして」

 二人は春香の家に向かって歩きながら、話を続けた。

「松居(まつい)は、一色とのつきあい、長いの?」

「幼稚園からずっと一緒です。家も近いし、ま、いわゆる腐れ縁てやつかなァ」

 藤臣は、声を立てて笑った。

「腐れ縁て」

「だって、ほんとにずーっと一緒なんですよぅ?紅子のことなら、たいていのことは知ってます」

「へーぇ」

 藤臣は感心したように相づちを打った後、ふと冗談めかした口調で、こう言った。

「それじゃあ、松居に訊けば、一色に今好きな人がいるかどうかもわかるのかなぁ……」



 腕時計を見ると、午後六時半。三十分以上、店内で過ごしたことになる。

 さすがにもう藤臣たちと鉢合わせることもないだろう。

 そう思い、紅子はスーパーを出た。

 父親から頼まれた買い物がある、というのはうそではない。

 ただ、別に急ぎの物ではなかったというだけだ。

 しかし、今日このときにこの口実を利用しなくていつするというのか。

 それにしても、レジ袋が重い。

 時間稼ぎをかねて食品売り場へ行き、冷蔵庫で残り少なくなっていた物まで買ってしまったので、通学鞄に加えて、けっこうな荷物になってしまった。

 春香はうまくやっただろうか。

 いきなり告白というのは無理でも、何かちょっとした進展があれば、ひと肌脱いだかいもあるというものだ。

 そんなことを考えながら自宅の門をくぐると、玄関前に誰か立っているのが見えた。

「おかえり」

 玄関前の人影が言う。

「遅かったな」

 その声と、玄関の引き戸ごしにもれる明かりで、紅子はその人影が自分の父親、玄蔵(げんぞう)だと認めると、少しほっとした。

 今年で四十歳になる彼は、身長こそそれほど高くないが、武術家らしい、がっしりした体格の持ち主である。

 紅子は「ただいま」と言った後、

「部活のあと、買い物してたから」

 と、スーパーのロゴ入りレジ袋をちょっと持ち上げて見せた。

「それより父さん、こんなとこで何してんの?」

「客が来るんでな。出迎えだ」

 少しばかり不機嫌そうに答える父親は、いつもと同じ和服姿だ。

 が、薄明かりに見えるそれは普段用のものではなく、上等の紬(つむぎ)である。

 客人というのはよほど大事な人物らしい。誰だろう?

「お客さんて、今から?こんな時間に?」

 紅子は玄関を開けて上がりかまちに重い荷物を降ろし、まだ外にいる父親を振り返って尋ねた。

 すると、

「ああ」

 ますます不機嫌そうな玄蔵の声。

 だが紅子は頓着せずに戸口まで戻り、続けた。

「ねー、そのお客さんってさ、今朝早く、電話してきた人?たしか、紺野(こんの)とか言ったよね」

 朝の七時すぎ、若い男の声で電話があったのを、何となく思い出しながら言う。

 玄蔵が子機を持って自分の部屋へ行ってしまったので、話の中身はわからない。

 ただ、電話に出る父の顔が、今と同じに暗かったのが印象に残っている。

 紅子としては、心配しているつもりで訊いたのだが、玄蔵は好奇心ゆえの発言と思ったらしい。

「お前には関係ない」

 彼は怒ったような口調で娘の言葉を一蹴すると、

「さっさと家に入って、メシでも食ってろ」

 ぴしゃり、と紅子の鼻先で戸を閉めてしまったのだった。


「なに、あれ!むっかつく!」

 紅子は買ってきた食料品を乱雑に冷蔵庫につっこんだあと、どかどかとわざと大きな音を立てて階段を上り、二階にある自室へ向かった。

 思い切り大きな音を立ててドアを閉め、ベッドに鞄かばんを放り出す。が、それだけではむかっ腹がおさまらなかったらしい。

「虫の居所が悪いか何か知らないけど、娘に当たるなってのよね!」

 などと大声で独りごちては、かなり乱暴な動作で彼女は制服から私服に着替えた。

 室内は一応、ぬいぐるみやピンク・花柄系のカバー類で女の子らしく飾られているが、本棚に武術関連の本が並んでいたり、クローゼットに道着どうぎがかけてあったりするのが、ちょっと珍しい。

 本棚には他に、アンティークな艶つや消し金の写真立てが二つ並んでおり、一方には、赤ん坊を抱いた若い男女の色あせた古い写真が、もう一方には、まだ真新しい六十歳くらいの老婦人の写真が、それぞれ入っていた。

 古いほうは、赤ん坊の頃の紅子とその両親を撮ったもの。

 彼女の母親は、これを撮影した翌年、亡くなっている。元々病弱で、紅子を産んでからは特に具合が良くなかったらしい。

 以来、母親代わりになって紅子を育ててくれたのが祖母。

 すなわち、新しいほうの写真に写っている老婦人だが、彼女も去年の冬、流感をこじらせたのがもとで、あっけなく他界してしまっていた。

 紅子は祖母の写真を眺めて、ため息をついた。

 おばあちゃんが生きてたらなぁ……。

 玄蔵はどちらかといえば紅子に甘いほうだったが、昔から時折、よくわからない理由で機嫌が悪くなることがあった。

 祖母はそんなとき、

「日奈(ひな)のことでも思い出したんでしょう。しばらく独りにしておあげなさい」

 と、言っていた。

 日奈というのは紅子の母親の名前である。

 紅子は先刻の父親の様子を思い出してみた。

 が、どうも死んだ妻の面影おもかげをしのんで切なくなっている、という雰囲気ではなかったような気がする。

 どちらかといえば、何かを警戒しているような、そんな印象だった。

 そういえば、と、紅子は思う。

 自分が小さかった頃、何やらただならない雰囲気で、祖母と玄蔵がひそひそと話し合っていたことがあった。

 あれは、いつだったろう。

 あれは、たしか――小学校の――

 と、そこまで考えた、そのとき。

「痛っ……?」

 軽い頭痛が、紅子を襲った。

 ほんの数秒、意識が痛みに集中し、彼女の思考は停止する。

 そして。

「あ……あれ?」

 頭痛が引いたとき、紅子は当惑の声を上げた。

「あたし……何考えてたんだっけ……?」

 何か、大事なことを思い出しかけた気がしたのに。

 記憶は、つかみかけたその手をするりと逃れて、どこかへ消えてしまっていた。

 影も形もなく。

2023年8月1日火曜日

紅蓮の禁呪3話「破られたまどろみ・二」

  鷹彦は結局、そのまま発掘作業のバイトを続けることにした。


その年は記録的な猛暑で、遮蔽物しゃへいぶつの一切ない屋外での作業はかなりきつかったが、自分の先祖たちが長い歳月を費やして探してきたものへの強い興味が、彼を引き留めたのだった。

 遺跡の規模はそこそこ大きく、出土品や礎石の配置様式などから、神社らしいということはわかっていた。

 建てられたのは、おそらく、奈良時代。

 ただ、誰が建てたのか、どういう神を祭祀まつっていたのかということは、さっぱりわからない。

 地面に焼けこげたあとがあるところから、建物は火災にあって焼け落ち、資料となるような木管や巻物のたぐいも、おそらくそのとき一緒に焼失してしまったのだろう、というのが調査隊の推論だった。

「焦げあとのあった地面の土を、化学分析にかけた結果が届いたんだが」

 プレハブの休憩所でノートパソコンを開き、仕事をしていた虎光のところへ、井出所長がそう言ってやってきたのは、彼と鷹彦がここへ来て二週間あまりがすぎた頃だった。

 いくら長いとはいえ、大学の夏休みももう終わりだ。

 虎光はいったんパソコンを閉じると、

「ありがとうございます」

と、相手のさし出す紙片の束を受けとり、さっそく目を通した。

 そのレポートによると、ここでかなり大きな火災があったのは、今からおよそ四百ないし六百年くらい前。

 おおまかではあるが、彼の先祖が「あれ」の安置場所を見失った時期に重なる。

 やはり、ここにあることはまちがいなさそうだ。

 ブツを見つけたら、忙しくなるなぁ。

 虎光は、そんなことを考えながら報告書をしまおうとして、井出がまだその場にいることに気づいた。

「何でしょうか?」

 虎光が尋ねると、彼は、日に焼けた顔に少し困ったような笑いを浮かべた。

 年齢は四十歳をすぎているはずだが、日焼けのせいか、かなり若く見える。

「いや、マスコミへの発表をそろそろどうか、と思ってね。一般公開の日程も決めなければならないし、学会に出す論文のこともあるし」

 来たか。と、虎光は苦く思った。

「申し訳ありませんが、それはまだ少々お待ちください」

 肝心のブツがまだ出てねーのに、公表日程なんか決められるか。

 が、彼の内心のつぶやきなど知るよしもない、人の善さそうな教授はけげんそうに眉をひそめる。

「なぜかね。出土品は充分そろったし、あらかた発掘は終わったと思うが」

 どちらかというと整った顔立ちの鷹彦と違い、虎光ははれぼったい一重まぶたのせいで、どこか茫洋とした印象なのだが、こういう場面ではその一重まぶたのおかげで表情を読まれにくい。

「地元の観光協会から、連絡がありまして」

と、虎光はできるだけソフトな口調で言った。

「秋の行楽シーズンに合わせて歴史キャンペーンを催すので、公表はその直前くらいにしてもらいたいと。観光客を呼びやすくしたいそうです」

「なるほど、そいつはいいな」

井出はそう賛同しつつも、当惑気味にあごをなでた。

「しかしそれじゃあ、学会に論文が……いや、専門誌に寄稿すれば……」

などとぶつぶつ独りごちている「先生」を、虎光は醒めた目で眺める。

 うちがブツをがめたら、この先生、怒るだろーな。どうやってごまかすかな。

 そんなことを考えていた、そのとき。

「先生、ちょっと来て下さい!!」

 助手の大村が、あわただしく駆け込んできた。

「どうした。何か出たか」

 教授の質問に、彼は呼吸を整えるいとまさえ惜しむようにうなずき、言った。

「本殿跡ほんでんあとの地面から、妙なモノが出てきたんです!」


 外に出てみると、蒸し暑さは昼間と変わりなかったが、東の空には、すでに夕闇が迫りつつあった。

 大村の言う「妙なモノ」とは、巨石をくりぬいて造られた、重厚な柩ひつぎだった。

 幅は一メートル、奥行きは七、八十センチ、といったところだろうか。下半分がまだ土中に埋まっているため、正確な高さはわからないが、おそらく一メートルを越えるだろう。

 虎光たち三人が駆け足でやって来るのに気がつくと、石柩せきひつを取り囲んでいたほかの作業員たちは、誰からともなく道をあけた。

 作業員の中にはもちろん鷹彦もいる。

 彼は兄と視線を合わせると、目顔でうなずいて見せた。

 問題の物が出たのだ。

 石柩の表面は、長い間地中に埋まっていたせいでかなり摩耗まもうが激しかったが、驚くほど精緻な彫刻が施されているのが、かろうじて見て取れた。

 とくにふたの部分には、古代中国の饕餮とうてつに似た怪物の顔が彫り込まれ、その不気味につり上がった両眼は、燃え立つような夕暮れの空をまっすぐににらみあげていた。

 虎光は、柩のふたと本体の継ぎ目を見た。

 それはぴったりと合わさっている上に膠にかわか何かで接着した跡があり、ちょっとやそっとの力では開けられそうになかった。

 彼の隣で石柩をためつすがめつ調べていた井出は、魅入られたような表情で、

「すごい」

と、つぶやいた。

「こんな柩は見たことがないぞ。いや、世界中探したって類例は見つからんだろう。いったいなぜこんな物が……」

 彼は我を忘れると、考えていることを口に出してしまうクセがあるらしい。

 虎光は際限なく続きそうなその独り言を、適当なところでさえぎった。

「先生」

しなければならないことが山ほどある。

「明日、重機を呼んで、これを運ばせましょう。今日の作業はここまでということで」

「え?いや、しかし」

井出教授は驚き当惑した顔でスポンサーからの使いである虎光を振り返り、言った。

「一晩じゅうこんな場所に放っておくわけには」

「ご心配には及びません」

できる限り笑顔を絶やさずに。

「警備員を手配してあります。それまでは、僕が見ていますから」

 自分よりはるかに体格のいい青年から先回りしてそう言われ、井出は開きかけていた口をしぶしぶ閉じる。

「んむ……そ、そうか」

彼は今ひとつ納得のいかない顔で夜間照明器具を一瞥してから、助手の大村を呼んだ。

「お疲れさん、今日はここまででいい。作業員を解散させてくれ」



 蒸し暑い宵だった。

 九月だというのに、いっこうに涼しくなる気配がない。

 虎光は夏用スーツの上着を脱いで休憩所のパイプ椅子に引っかけると、だらしなくネクタイを緩めてシャツのボタンをはずしながら外に出た。

 夜間照明に浮かび上がる発掘現場は、急な雨や風で遺跡がくずれないよう、あちこちにブルーシートがかぶせてあり、一見すると何かの工事中にも見える。

 ひとけのなくなった現場は、むき出しの土の匂いばかりが鼻についた。

 警備員はまだ来ていないし、鷹彦は連日の屋外作業で疲れているだろうと先に宿へ帰した。

 ここにはもう、自分一人だ。

 彼はゆっくり歩き、一枚のブルーシートの前で立ち止まった。その下には、例の石柩がある。

 シャツの胸ポケットから携帯電話を取り出す。

「あー、もしもし。親父?虎光だけど」

彼はスラックスのポケットに手を突っ込み、送話口に話しかけた。

「見つかったぜ。そう。で、これどーすんの?……明日、実家に?結界つきアルミバンで?すげー。……あーはいはい、わかってますって」

見るともなく地面に目を落としながら言葉を続ける。焦げ茶色の、粘土質。

「それはそうと、あの先生はどーするよ?公表する気満々なんだけど?いや、今日はなんとかごまかしたけどさあ」

 と――

 そこで彼の声が途切れた。

 地面以外、何もなかったその視界に、いつの間にか人の足があった。

 見覚えのある、くたびれたトレッキングシューズ。

『どうかしたのか、虎光?』

 父親の声で我に返った彼は、

「わり、あとでまた連絡します」

と、早口で電話を切った。

 携帯を胸ポケットにしまいながら、視線をゆっくりとあげていく。

「いつここへ戻ってらしたんです?」

狼狽をできるだけ悟られないよう、彼は言った。

「……先生」

 トレッキングシューズの主は、井出教授その人だった。

「さっき、観光協会に電話をしてみた」

怒りを含んだ声。

「公表を遅らせろなどという依頼はしていないと言われたよ」

「そうですか」

 虎光は内心、ため息をつく。

「どういうことか、説明してくれ。いったい何のつもりだ。この遺跡をどうするつもりだ」

「遺跡についてはどうもしませんよ」

と、虎光。

「出土品もすべて、先生のお好きになさってください。マスコミに公表するもよし、学会で発表するもよし。ただ……」

彼は傍らのブルーシートに目を落とす。正確には、その下の石柩に。もう、開き直るしかない。

「この石棺だけは別ですが」

 一瞬の沈黙があった。

 井出は絶句したらしい。

「これは……この遺跡のかなめだぞ」

「知ってます」

「これが世に出れば、世界中の研究者から注目を浴びる」

「あなたはとても優秀な人です、井出先生」

虎光は笑顔を作った。表情の読みにくい一重まぶたで。

「こんな石棺などなくとも、素晴らしい論文を書けますよ。それで充分じゃありませんか?」

 風で、ブルーシートががさがさと音を立てた。

 汗ばむ肌を、生ぬるい、不快な風がなでていく。

「脅迫のつもりかね」

 教授の質問に、虎光はかぶりを振った。

「お願いしているんです。うちの会社が出資をやめれば、あなただって困るはずだ」

「自分のやろうとしていることの意味を、わかっているのかね」

 虎光はその質問には答えず、ただ黙って相手の顔を見た。

 あんたこそ、わかっているのかい。

 この柩の中に眠っているのが、何なのか。

 だが、その言葉が彼の口から出ることは、ついになかった。

 遺跡を囲っているガードフェンスの向こう側に、一台のワゴン車が止まるのを、彼は視界の端でとらえていた。

 白黒のツートンカラーに塗り分けられた、警備会社のワゴン。

「警備員が到着したようですね」

虎光は言った。

「すみませんが、僕はこれで失礼します。あ、それと、重機は明日の朝九時に入る予定です」

 それだけ言い残し、きびすを返す。

 その大きな背中を、こんな声が追いかけてきた。

「きみは、盗掘をしようとしているんだぞ!」

つぶてでも投げつけるように、井出は叫んだ。

「いいか、わたしは学者として、絶対にこんな行為を見逃したりはせんからな!!」

紅蓮の禁呪2話「破られたまどろみ・一」

  ことの発端は、夏休みのアルバイト探しだった。


 大学の長い夏休みを満喫するには、それなりの元手が必要である。

 だが、前期試験の結果がかんばしくなかった鷹彦たかひこは、文字通り追試に「追われた」ため、学生課などで紹介してくれるおいしいバイトには見事にあぶれてしまい、世間が夏休みに入ってしまってからも、自宅でアルバイト情報誌をめくってはため息をつく、という日々を送っていた。

 二人いる兄のうち、一人が彼にバイトの話を持ってきたのは、そんなときだった。


 兄たちは二人とも、すでに社会人になっており、父親が経営する会社にそれぞれ仕事を持っている。

 一番上の兄、竜介りゅうすけは、仕事なのか何なのか、たいてい家におらず、彼に声をかけてきたのは、二番目の兄、虎光とらみつだった。

「うちの会社が出資してる文化研究所が近畿地方で今、遺跡の発掘調査やってるのは知ってるよな?」

と、次兄は言った。

「俺、企業側のオブザーバーで、明日から現場入りするんだけど、おまえ一緒に来ねえ?」

 鷹彦の目には、そう言ってくれる兄の背後に後光がさして見えたものだ。

 てっきり、兄と同じオブザーバーか、さもなくば彼の助手のような仕事をするものと思ったからである。

 が、しかし。

 現実は甘くない。

 少なくとも彼は、仕事の中身をもっとよく聞いてからOKをするべきだった。

 なぜなら、虎光は現場に「来るか?」と尋ねただけで、「一緒にオブザーバーをやるか?」とは、ひとことも言っていなかったのだから。

 現場に着くや否や、軍手にタオル、つばの広い麦わら帽子、スコップ、それに刷毛はけを手渡された鷹彦は、その場に凍りついた――摂氏三十五度を超す気温にもかかわらず。

「いやあ、ちょうど人手が足りなくて、困ってたんだよ」

 調査隊を指揮している研究所の所長は、井出いでと名乗り、にこにこと笑いながら、そう言って彼にとどめをさした。

 鷹彦が誤解を解こうとするいとまもなく、井出は彼を大村おおむらという若い助手に紹介した。

「新しいバイトだ。作業のこと、いろいろ教えてやってくれ」

 鷹彦は助けを求めて兄のほうを見たが、無駄だった。

 虎光はにっこり笑うと、ぽん、と弟の肩をたたき、言った。

「じゃ、がんばってな」



 その夜、宿泊先の旅館で、鷹彦が兄にくってかかったのは、言うまでもない。

「詐欺だっ!!」

彼は廊下に筒抜けになるのもかまわず、大声で叫んだ。

「俺は明日、家に帰るからなっ。日には焼けるし、日当は安いし、やってられるかっ!」

「まあそう言うなって」

虎光は、弟の怒りをあまり深刻にとらえていないらしく、旅館の豪華な夕食を肴さかなに、上機嫌で一杯やっている。

「その代わり、宿泊先は俺と同じにしてやったろ。ほかの連中はみんな研究所の予算で、民宿泊まりだってのによ」

 鷹彦は、フン、と鼻を鳴らした。

「可愛い弟をペテンにかけやがって、それくらい当然だろっ。第一、何で俺が現場なんだよ?図体から見りゃ、虎兄のほうがどうしたっておあつらえ向きじゃんか」

 虎光の身長は二メートル近く、鷹彦より頭一つ分ばかり高い。

 しかも体格が良いので、黒服にサングラスをかければ会社員というよりは要人警護のボディガードか、その筋の人にしか見えない。

「鷹彦、お前」

 不意に、虎光が真顔になった。

 しまった。言い過ぎて、怒らせたかな?

 鷹彦がそう思いかけた、そのとき。

「さっきから料理にぜんぜん箸つけてねーけど、いらないんなら俺が全部食っていいか?」

 鷹彦は、一瞬でも反省しかけた自分を殴りつけたくなった。

「食うに決まってんだろっ!あんなガテンな仕事させられて、虎兄とらにいの分までもらったっていいくらいだぜ」

 そう言うや、彼は箸をとり、猛然と料理を口に運び始めた。

 その食べ方は、おせじにも料理を味わっているとは言い難いような早食いだったけれど。


「実は、お前にちょっと訊きたいことがあるんだ」

 食事をあらかた終えた頃、虎光があらたまった口調で言った。

「あの場所にいて、お前、何か感じなかったか?」

「あぁん?」

 周りに他人がいない気安さからか、行儀悪くつまようじで歯をせせっていた鷹彦は、面倒くさそうに返事をする。

「何かって、何?」

「首の後ろ。チリチリしなかったか」

 その言葉に、鷹彦の表情が変わる。

 歯をせせるのをやめ、彼は首筋に手をやった。

「そういえば……」

 現場にいたとき、ずっと髪の生え際がひりひりしていた。

 日に焼けたせいだと思っていたが――今は、あの不快な感覚が、きれいに消えている。

「虎兄。あの遺跡って、まさか……」

 虎光はニヤリと笑った。

「たぶん、そのまさかさ」

「何だよ。バイトなんて回りくどいこと言わずに、判定させたかったんならそう言やいいのに」

「先入観はないほうがいいだろ?それに、人手が足りなかったのは事実だし」

 飲むか?と虎光は弟にも杯を勧めてやり、続けた。

「俺は魂縒たまよりを受けてないから、判定できねーしな。まあでも、こりゃ間違いなさそうだ」

「竜兄りゅうにいに連絡しなきゃ」

「だな」

虎光はうなずいた。

「五百年間、ご先祖様が探しに探してきた代物が、ようやく見つかったってんだから」

紅蓮の禁呪1話「序曲」

 人の一生のうち、その後の人生すべてを変えてしまう運命の日というものがあるとすれば、彼女にとっては、あの日がまさしくそうだったに違いない。


 それは、小学校に上がって最初の夏休みのことだった。

 午睡ひるねから目を覚ますと、家の中から人の気配が消えていた。

 彼女は、自分の守り役であり、早くになくなった母親の代わりでもある祖母を呼びつつ、彼女のいそうな場所をあちらこちらと見て回ったが、やはりどこにもいない。

 孫が寝入ったのを見計らって、少しのあいだのつもりで、つかいに出てしまったらしい。

 寝起きにひとりぼっち、という心細さに追い打ちをかけるように、突然、それまでうるさいくらい鳴いていた蝉セミが、一斉に鳴きやむ。

 そのとたん、家の中は水を打ったように静まり返り、少女は世界にたった一人で置き去りにされてしまったような寂しさに襲われた。

 泣き出しそうになるのをこらえるため、彼女は懸命に何か楽しいことを考えようと努めた。

 およそ子供の考える「楽しいこと」は、大人から見れば眉をひそめたくなるようなことが多いが、彼女が思いついたそれも、例外ではなかった。

 すなわち。

 危ないから近づいてはならない、と祖母から厳命されている場所へ、行ってみること。


 少女の家は、古ぼけてはいるが、東京近郊にしては広かった。

 どれくらいかといえば、庭の隅すみに、小さいながらも蔵があるほどだ。

 祖母から言い聞かされた話によれば、その蔵には死んだ祖父が大事にしていた品々が納められているらしい。

 中の物を壊したりしてはいけないからという理由で、今まで一度も中へ入ることはおろか、近づくことも許してもらえなかった。

 もっとも、近づくことが許されなかったのは、古くなった土壁が落ちて、怪我をするおそれがあるためだったようだが。

 とにもかくにも、幼い彼女にとっては、いわば家の中にある最後の秘境のような場所。

 「楽しいこと」とは、他でもない、その秘境探検に乗り出すことだった。


 鍵のありかは、祖母が出入りするのをこっそり見て憶えていた。

 果たして、鍵はその通りの場所にあった。

 蔵の入り口までやってくると、少女はドキドキしながら南京錠を外し、引き戸を開ける。

 錠前も戸も、普段から手入れされているようで、少しきしんだほかは、ほとんど音を立てなかった。

 そっと中を覗くと、そこは蝉の声がうるさくて蒸し暑い外界とは別世界のように、ひんやりと暗く、静かだ。

 蛍光灯は見あたらず、天窓から差し込む自然光だけが、地面のあちこちに頼りなげな明るい輪を作っている。

 意を決して中へ踏み込むと、つんと湿ったカビの匂い。

 左右には背の高い棚が並び、その棚の一段一段に、大小さまざまな形の木箱がきちんとおさまっていて、それがずっと奥まで続いている。

 木箱には一つずつ中身を示す文字が書かれていたが、いずれも達筆すぎる上に漢字も多く、小学1年生の彼女には読めるはずもなかった。

 開けてみたかったけれど、あいにく和紙の封印がかけてあって、破ればすぐに分かるようになっていた。

 ちぇっ、つまんないの。

 次第に退屈し始めた少女は蔵の最奥まで一通り見てしまうと、早々にきびすを返しにかかった。

 と、そのとき。

 誰かに呼ばれたような気がして、足が止まる。

「……だれ?」

 耳を澄ます。

 辺りを見回す。

 遠い蝉の声以外、何も聞こえない。

 誰もいない。

 それなのに、何かが――そう、誰か、ではなく、何かが、自分をしきりに呼んでいる。

 そんな気がする。

 彼女は、再び奥へ向かおうと一歩踏み出しかけて、ふと足元を見た。

 履いていたサンダルの立てる音が、不意に変わったからだ。よく見ると、なぜか地面が四角く掘られ、そこにベニヤ板がはめ込まれている。

 下は空洞らしく、歩くと明らかに足音が変わった。


 この下に、なにかある!


 少女は、下を見てみたいという、猛烈な好奇心に駆られた。

 もし、板のまわりに指を差し入れられるような溝みぞがなかったら、彼女は道具を探してでもその板を持ち上げようとしただろう。

 が、そうするまでもなく、薄いベニヤ板は、少女の力でも、難なく持ち上がった。

 それが彼女にとって幸いだったのか否かは別として。

 湿った土の匂いがむっと鼻をつき、彼女は顔をしかめた。

 中は真っ暗で、土を盛り上げて踏み固めただけの階段が、闇の奥へと消えている。

 ここだ。

 ここにいる。

 何がいるのか、それは彼女自身にも分からない。

 が、とにかく、「そこにいる何か」に会わなければ、という思いだけが、どんどん強くなっていく。

 それは今や、暗闇への恐怖さえも駆逐くちくしていた。

 行っちゃだめ。

 もう一人の自分が、頭の中でささやく。

 けれど、その声はあまりにも小さく、階段を下り始めた少女の足を止めることはできなかった。


 そして、そこには確かに、運命が待っていた。

 引き返す道のない、運命が。

エジプト旅行2026⑥~カイロ歴史地区観光!そして帰国

カイロ歴史地区観光 エジプト滞在最終日 です~! 本日のお土産屋さんタスク😂はカルトゥーシュのお店だったんですが、ガイドさんによると 「オーナーが寝坊したので11時過ぎないと開かない」 というホントかウソかわからない理由で後回しになりました😂 この日の行き先は旧カイロ地区。 ...