2023年8月3日木曜日

紅蓮の禁呪13話「獣臭」

  帰り道。どんよりと雲がたれ込め、今にも雨が降り出しそうな空を見上げて、紅子は何度目かのため息をついた。

 まるで、あたしの心みたいな空……。

 彼女にため息をつかせているのは、もちろん、藤臣のことだ。


 部室の外に誰もいないとわかったときは、心底、がっかりした。誰か来たなら、必然的に話題も変わるだろうし、何か理由を見つけて教室に戻ることもできるだろうと思ったのだが。

 しかし、現実は甘くなかったようだ。

 戻ってきた彼女に、案の定、藤臣は先刻の話の返事を促うながした。

 付き合うことについては、どうにか断ったけれど、

「僕はこれからもバンドを続けるつもりなんだけど、そのボーカルを君に頼みたいんだ。君は、自分ではどう思っているか知らないけど、とてもいい声をしてるし、センスもあると思う」

 などと、真顔で言われれば、それが単に、会う口実を作るための申し出だったとしても、無下に拒絶することは難しかった。

 紅子は、彼に対して、恋愛感情こそ皆無だったが、人間としては、副部長などしているだけあって、そこそこ統率力もあり、誠実で好ましい人物と思っていたのだ。

「……考えておきます」

 その場はそう言って切り抜けたが、考えれば考えるほど、頭の痛い問題だった。

 バンドの話は、まるきり嘘でもないだろう。

 しかし、承諾すれば卒業後も藤臣とは頻繁に会う機会を作ることになりかねず、それだけ、彼が春香の方を向く可能性も減ってしまう。


 やっぱ、断るしかないかぁ……。


 とは思うものの、「考えておきます」と答えたときの、ほっとしたような彼の笑顔を思い出すと、頭の痛みが胸や胃にまで響くのだった。


 自宅のすぐそばまで帰ってきたとき、重くたれ込めていた雲から、ついに小雨がぱらつき始めた。

 紅子はやれやれとため息をつきながら、手近な街路樹の陰にいったん避難した。

 鞄から折り畳み傘を取り出し、開きかける。

 と、不意に視線を感じ、彼女は何気なくそちらを振り返った。

 夕日を遮る分厚い雲のせいで、辺りは早くも薄闇に包まれ、街灯の青白い光だけがスポットライトのように彼女の姿とその足元を照らしている。


 虫の声さえ聞こえない沈黙の中で、しかし、彼女の耳は奇妙な音を捉えていた。


 生き物が喘いでいるような、せわしない息づかいの音。

 その中に時折、低く押し殺した獣のうなり声が混じる。

 生ぬるい微風にのって流れてきた、独特の異臭が鼻を突く。

 生き物を飼ったことのある者なら、誰もが嗅いだことのある臭い――獣の放つ臭い、獣臭であった。

 何か、人ではないものが、すさまじい殺気を放ちながら、闇に隠れて近づいて来る。


 紅子は肌が粟立つのを感じた。


 小学校低学年からずっと武術には親しんできたが、どんな相手との試合でもこんな感覚を味わったことはない。

 それは、人間が生命の危機に瀕して感じる、本物の恐怖だった。

 ひそかに、退路を探る。

 が、それは既に絶たれていた。

 闇が、ぞろり、とうごめき、街灯の薄明かりの中に殺気の主が姿を現す。

 それは、薄汚れた犬だった。

 街路樹のある背後を除いて、彼女は犬の群れに包囲されていた。

 首輪を着けているものもいれば、着けていないものもいる。大きさも、毛並みもまちまち。ただ一つだけ共通していたのは、いずれも目つきが尋常でないことだった。

 どの犬も、両目からぞっとする光を放ちながら、今にも飛びかからんばかりに頭を低くして近づいて来る。

 その唇はまくれ上がり、剥むきだしになった黄色い牙からは、泡の混じったよだれが滴したたっていた。

 冷たい汗が、紅子の背中を伝い落ちた。

 自分が何故こんな目に遭うのかわからない。

 わからないが、犬達が彼女に尋常ならざる殺意を持っているということと、逃げ道がないということだけは確かだった。

 辺りに人影はなく、助け手は期待できそうにない。もっとも、この状況では、誰か通りかかったとしても、見て見ぬふりで逃げ出すだろうが。


 自力で何とかするしかない。


 紅子は小さく舌打ちをすると、持っていた傘を得物代わりにかまえた。

 ざっと見渡す限り、相手の数は十数頭といったところか。一人でどうにかできない数ではない。

 ところが。

 そんな余裕のある考えは、まもなく消し飛んでしまった。

 獣たちは、薙ぎ払われ、たとえ地面にたたきつけられてもすぐに起きあがり、何度でも襲いかかってきた。

 いかに手酷く負傷しようと、まるで痛みを感じている様子がない。

 傷口から血を流しながら、あるいは、折れたか挫いたかしたらしい脚を引きずりながら、なおも殺意で目を爛々と光らせている彼らの姿には、まさに鬼気迫るものがあった。

 狂ってる……!

 紅子は産まれて初めて、死の恐怖というものを覚えた。

 肩で息をしながら、汗で滑る傘の柄えを握りなおしたそのとき、額の汗が流れ落ち、あろうことか、目に入ってしまった。

「つっ!」

 思わぬアクシデント。

 そしてその一瞬に生じたわずかな隙を、彼女の敵が見逃すはずはなかった。

 突然、目の前を大きな黒い影がよぎったかと思うと、紅子の手からは、武器がもぎ取られてしまっていた。

 汗が入った方の目を、反射的につむった、その死角を突かれたのだ。

 それはひときわ大柄な雑種犬で、奪い取ったぼろぼろの傘を地面におろすと、これ見よがしに後ろ脚で遠くへ蹴り飛ばした。

 獣の群れは包囲をじりじりと狭め、紅子もそれに合わせて後退した。

 やがて、後ろの木に、彼女の背中がぶつかると、次の瞬間、狂犬たちは鬨の声のような咆吼を上げながら、いっせいに躍りかかる。

 万事休す。

 紅子はとっさにその場にうずくまると、頭を腕でかばい、強く目を閉じた。

紅蓮の禁呪12話「困惑の日」

 「春香……春香」

 紅子は、机上でうたた寝をしている友人の肩を、先刻から何度か揺すっていた。

 が、かなり熟睡しているらしく、なかなか相手は目を覚まさない。

「ちょっと、春香ってば!」

 大声を出し、強く揺さぶって、ようやく彼女はぼんやりと目を開けた。

「ん……あ……何?」

「何、じゃないよ、爆睡しちゃって」

 紅子は呆れた調子で言った。

「次の授業、休講になったから、みんなが早めにお昼にしようって。ほら、学祭の準備もあるしさ」

「ああ……」

 春香はとろんとした表情のまま、曖昧あいまいな返事をする。

 その目は、ただ開いているだけで、何も見ていないようだ。顔色もよくない。

 紅子は親友の様子がどことなくおかしいことに気付いた。

「春香?」

「な……に?」

 呼ばれれば、一応は返事をし、そちらに顔を向ける。

 だが、その視線は目の前の紅子を素通りして、どこかまったく別の場所を見ていた。

 やっぱり、変だ……たとえ極度の睡眠不足だとしても、こんなにぼんやりしているのは。

「どうしたのよ?なんか、ヘンだよ……気分でも悪いの?」

「気分……?」

 無表情な顔。抑揚よくようのない声。

「そう……あたし、気分が良くないの……」

 そう言うと、彼女はゆらりと立ち上がり、夢遊病者のように、歩き出した。

「え?ちょっと、春香?」

 紅子があわててあとを追いかけようとすると、彼女はおもむろに振り返り、言った。

「保健室……行って来る」

「ついて行こうか?」

 友人の申し出に、春香はかぶりを振った。

「いい……一人で、大丈夫……」

 それだけ言うと、またきびすを返し、歩き出した。

 春香とは遠慮したり気を遣ったりするような間柄ではない。

 だから、紅子も変に気を回すようなことはしなかった。

 相手が「大丈夫」というのなら、そうなのだろうと思ったし、よく見れば、表情は寝惚けたように、とろんとしているが、足元はしっかりしているようだ。

 それでも、春香の様子が平生とは違いすぎていた。

 奇妙な胸騒ぎが、紅子に友人のあとを追わせようとした。

 しかしその足は、別の級友に呼ばれたことで止まってしまい――そうして、それきりになってしまったのだった。


 紅子が級友たちと昼食を食べ終わってしばらくしても、春香は戻ってこなかった。

 心配した彼女が、保健室に友人の様子を見に行ったところ、そこには生徒は誰もいなかった。

 しかも、養護教諭に訊いてみたところ、

「一年の松居春香さん?さあ、来てないわねぇ」

 そんな返事が返ってきた。

 あまりに気分が悪くなったので、直接、家に帰ってしまったのだろうか?

 そんなことを考えながら、彼女は次に春香がいそうな場所として、部室へ向かった。

 扉を開けると、中には先客がいた。

 藤臣である。

 彼は開け放った窓の枠に腰を下ろし、紅子が入ってきたことに気付くと、ちょっとばつの悪そうな笑みを浮かべた。

 その右手には火のついた煙草があって、紫煙がそこから立ちのぼっていた。

「まずいところを見つかっちゃったな」

 未成年の喫煙は、法律で禁じられてはいるが、別段、珍しいことでもない。

 それが校内だったとしても、同じことだ。

 しかし、相手がそんな言葉を口にしたので、紅子もなんだか見てはいけないものを見てしまったような、居心地の悪い思いを味わった。

「す、すみません」

 思わず謝っていた。

「すぐに出ていきますから」

 見たところ、ここにも春香の姿はなかった。

 それなら、もはや用はない。

 ところが、きびすを返そうとした彼女を藤臣の声が引き留めた。

「待った、待った。何か用があってきたんじゃないのかい」

「いえ、友達を捜してただけなので」

「ふぅん。今、急いでる?」

 紅子は一瞬、考えた。

「……いえ、特には」

「それなら、しばらくここにいてもらえないかな」

 思いがけない頼み事に、彼女は心中、いぶかしがりながら、

「はぁ……」

 と、曖昧に返事をした。

 なんだろう。学園祭ライブのこと?

 しかし、藤臣の様子は何か大事な話を始めるというふうでもない。

 彼はおもむろに胸ポケットから煙草の箱を取り出すと、紅子のほうに差し出した。

「吸う?」

 紅子はかぶりを振った。

「いえ、あたしは……」

「そう」

 藤臣は箱を戻すと、持っていた吸いかけの煙草を、傍らにあったジュースの空き缶の口でもみ消した。

「実はさっき、部長が来てたんだ」

 彼は吸い殻を缶の中に落とすと、ゴミ箱に向かって投げた。

 アルミ缶は部室の壁に一度ぶつかってから、狙った場所におさまった。

 紅子はおうむ返しに尋ねる。

「井出先輩が?」

「うん。あとで他の部員にも報せるけど……明日、親父さんの葬式なんだと」

 彼はため息をついた。

「正直、参ってるんだ……あいつとは中学からのつきあいだけど、あんなふうに落ち込んでるところなんか見たことなかったから、何て言って慰めればいいのか、わからなくてさ。僕は肉親の死なんて経験したことがないし……結局、ありきたりなことしか言ってやれなかったのを、後悔してたところ」

 そう言ってから、彼はちょっと笑った。

「なぁんて……悪い、変な話をしちゃったな。情けないよな、後輩にぐちるなんて」

「あ、いえ……」

 紅子はあわててかぶりを振った。

「言葉は、言葉でしかないから……ただ黙って傍にいてもらうほうがいいときもあるし。自分と一緒に悲しんでくれてる人は、態度や表情でわかるから……だから、センパイが思ってること、部長にもちゃんと伝わってると思います」

「ありがとう」

 藤臣は、ふっと表情を和ませた。

「一色が来てくれて、よかった」

 紅子は照れてうつむきながら、春香のことを考えていた。

 保健室にも、部室にもいなかった……てことは、やっぱ、帰ったのか。

 かなり、様子おかしかったし。あとで電話してみるかな。

「……で、……なんだけど……どうかな?一色?」

「は?」

 上の空だった紅子は、いきなり名前を呼ばれて間の抜けた返事をした。

 それから我に返って慌てる。

「あっ、その、すみません。考え事してて……何でしたっけ?」

「しょーがないなぁ。こんなこと、何度も言わせないでくれよ」

 彼は苦笑すると、紅子と視線を合わさないようにしながら、言った。

「卒業してからも、ときどき、こんなふうに二人で会いたいと思うんだ。……もちろん、一色さえよければ、だけど」

 その言葉が終わるか終わらないかというとき、突然、扉のほうで、何かがひっくり返ったような、ガタン、という大きな音が聞こえた。

「あたし、見てきます」

 紅子はそう言うが早いか、そちらへ向かっていた。

 心中ひそかに、助かった、と思いながら。

 だが、外には誰もいなかった。

 ただ、出入り口の脇わきに置かれていた防火用バケツが、ころころと転がっていた。

 まるで、たった今、誰かが蹴り散らかしたばかりのように。

紅蓮の禁呪11話「傷跡」

  思い出せ――

 夢の中で、何かが、彼女にささやく。

 こんな苦しみが、こんな痛みが、以前にもあった。

 心の奥に封じ込めていた苦悩を――思い出せ。

 あれは――いつのことだった?

 そうだ、二年前の冬だった。たいていの学校で、卒業式が間近に迫る頃。

 彼女は中学二年で、この季節、少女達にはありふれた悩みを持っていた。

 つまり、ずっと好きだった先輩が卒業してしまうのを、このまま黙って見送るか、どうか。

 幸い、彼女の想い人には、恋人がいるといううわさも聞かず、一縷いちるの望みはあった……たぶん。

 親友にも再三、相談した。

 彼女の親友は、そのさばさばした性格のなせる技か否か、男子生徒に友人がたくさんいたから、情報収集にはもってこいだったのだ。

 とはいえ、本人は恋愛にてんでうとく、肝心かんじんの悩み相談のほうは、からきしだったのだけれど。

 あたしも紅子みたいな性格だったら、卒業までに先輩ともっと仲良くなれたかもしれないのに。

 そんな風にうらやんだことも、一度ならずあったが、今となっては性格を改善している時間などない。

 彼女は何度となくため息をつき、悩みあぐね――そうして、決めた。

 当たって砕けるしかない。

 親友には、この決意は内緒ないしょにしておいた。

 そのほうが、うまくいったときの驚きと喜びも、倍になるというものだ。

 ダメだったときは――一緒に泣いてもらおう。


 Xデーを卒業式の一週間前に決め、それがあと数日に迫った、ある日。

 彼女は親友を捜して、校内を歩き回っていた。

 一緒にお昼を食べようと思っていたのに、姿が見あたらない。

 ようやく見つけたとき、友人は裏庭にいた。

「紅子」

そう呼ぼうとした。

 しかし、彼女の声はのどの奥に詰まったまま、出てくることはなかった。

 親友の傍らにもうひとつ、人影が見え、それがほかならぬ「彼」であることに気付いてしまったのだ。

 彼女の胸に、緊張と不安が走った。

「これ、お返しします」

 親友の、よく通る声が聞こえた。

 彼女はその手に持った水色の封書を、「彼」に渡すところだった。

「……好きな人がいるの?」

 相手の問いかけに、彼女はかぶりを振る。

「あたし……こういうことに興味ないんです。それに」

吐息が、白くこごる。

「あたしの親友が、先輩のことを好きなんです。だから……」

 その後のことは、よく憶えていない。

 気がつくと、教室に戻っていて――

 そう、それから何日か経って、電話がかかってきたのだ。「彼」から。

 その人は、涼やかな声で、彼女に尋ねた。

 今度の日曜、空いてる?と。

「ロードショウの券が2枚あるんで、一緒にどうかなと思って」

 彼女に否やのあろうはずがない。

 けれど、待ち合わせの時刻と場所を決め、さよならを言って受話器を置いたとたん、言いしれぬ不安に襲われた。

 紅子のことを、好きだったんじゃ……?

 ふられたから、あたしに乗り換えようとか?

 これはチャンスなんだろうか、それとも……。

 彼女は、わき上がってくる不安と悲観的観測を振り払った。

 どんな理由にせよ、好きな人とデートできるんだもの!そのことだけを考えて、楽しまなきゃ……いい思い出になるように。

 当日はたしかに、この上ないくらい楽しい一日となった。

 別れの間際、彼女が、

「あの……また、会ってもらえますか?」

と、尋ねるまでは。

 彼の顔から、先までの優しい笑顔が消えた。

「……ごめん」

 長い沈黙のあと、絞り出すような声で彼は言った。

「今日、君を誘ったのは……一色に頼まれたから、なんだ。自分より、ずっといい子だから、絶対気に入るから、って……だけど」

「いいんです!」

春香は思わず、相手の言葉をさえぎっていた。

「今日は、ありがとうございましたっ!」

そう言って、笑って見せたけれど。

 帰宅して自分の部屋に入ったとたん、涙があふれて、止まらなくなった。

 期待していたわけではない。

 しかし、希望を全て捨ててしまうには、彼の態度は、優しすぎた。だから、訊いてしまった。

 また会えるかどうか。

「ごめん」

 そう言ったときの彼の顔が、脳裏から離れない。

 そんなに悲しそうな顔しないで。

 そんなに辛そうな目をしないで。

 誰のせいでもない……そう、誰のせいでもなかった。

 だから、誰にも分からないよう、封じ込めたのに。

 忘れたのに。

 傷ついた心も、その痛みも――

2023年8月2日水曜日

紅蓮の禁呪10話「秘密」

  少し前に時間を戻そう。


 紅子が出かけた後の一色家では、玄蔵と竜介が、坪庭に面した奥座敷で向き合っていた。

 残暑の日差しが縁側に差し込んでいるが、その熱気は、奥にいる二人にまでは届かない。

 その座敷は仏間も兼ねているようで、部屋の隅には、こぢんまりとした仏壇が置かれ、位牌の他に写真が二枚、飾ってあった。

 片方は二十歳くらいの、うら若い美女。

 もう一方は、六十歳を過ぎたくらいの、上品な老婦人。

 紅子の母と祖母である。

 それら遺影の前にある小さな銀色の香炉には、先ほど竜介が上げたばかりの線香が数本、か細い燻煙を上げながら、ゆっくりと燃えていくところだった。

 二人とも正座し、改まった様子で居住まいを正していた。

 彼らは知っているのだ――これからどんな話を交わさなければならないかを。

「遅くなりましたが」

竜介が口火を切った。

「八千代(やちよ)おばさんのこと、お悔やみ申し上げます」

 玄蔵は鷹揚にうなずく。

「ありがとう。義母も喜んでいるだろう」

「お葬式にも顔を出さず、すみませんでした。亡くなったことは聞いていたんですが」

「私はもう紺野家の人間じゃないんだ。当然だよ」

 玄蔵はそう言って皮肉っぽく笑った後、ふと懐かしいものを見るように、竜介の顔をしげしげと眺めた。

「変わらんなぁ、きみは。昨夜は頭髪とヒゲとで、一見ではだれだか分からなかったが」

 竜介は笑って頭をかいた。

「海外ではあのほうがいろいろ都合がいいもので、つい。いきなり呼び戻されて空港からここまで直行だったし」

 玄蔵は声を立てて笑った。

「相変わらずだな。ご両親には、お変わりはないかね?」

「はい」

「虎光くんたちも?」

「はい」

 うなずいてから、竜介はこう付け足した。

「師匠も、元気です」

 玄蔵の頬がぴくりと動いた。

「不肖の息子がいなくなれば、寿命ものびるさ」

 冗談とも本気ともつかない口調でそう言うと、彼は竜介が言葉を挟もうとする前に話題を変えた。

「世間話をするために来たわけじゃなかろう。そろそろ本題に入ろうじゃないか」

 竜介は、玄蔵が「師匠」の話を避けるわけを知っていたので、何も言わずに相手の提案にしたがった。

 いや、むしろその方が、彼にとっては好都合だったのだが。

 世間話をしていたときとあまり変わらない口調で、彼は言った。

「紅子ちゃんには何も話しておられないようですね」

「……必要ないと思ったのでね」

 玄蔵が答えた。

「あれには、何の力もない」

「魂縒(たまより)は?」

 竜介の質問に、彼はかぶりを振る。

「それなら、まだ決まったわけじゃありません。とりあえず、魂縒を受けさせて下さい。もしかしたら……」

「紅子は、普通の娘だ」

 玄蔵は竜介の言葉をさえぎると、かたくなにそう言い張った。

「第一、あれはまだ子供だ。きみのように鍛練を積んでもいない。無理だ」

「俺が何のためにここに来たかは、ご存じでしょう」

 玄蔵は、沈黙でそれに答える。

 竜介はため息をつくと、続けた。

「こんなことは言いたくありませんが、俺は紺野・白鷺両家の意向を受けて来ているんです。頑固も度が過ぎれば、後悔することになりますよ」

 穏やかな口調ではあったが、脅迫めいた、剣呑な言葉だった。

 玄蔵の表情が険しくなった。

「手段は選ばない、というわけか」

「紅子ちゃんの力が必要なんです」

 竜介の、穏やかで真摯な口調は変わらない。

「それに、紅子ちゃんの命を守るためにも。連中が彼女を狙うのは、時間の問題です」

「一つ、聞きたい」

 玄蔵が尋ねた。

「もし、『封印の鍵』になれなかったら、紅子はどうなるのかね」

「同じことです」

 と、竜介は答えた。

「彼女が炎珠(えんじゅ)の血を引く最後の人間であることに、変わりはありません。うちでお預かりします。ここにいるよりはずっと安全でしょう」

 玄蔵は苦笑した。

「そうしてまた、次代に望みを託すのかね……あの子の祖父がしたように?」

「おじさん、俺は……」

「いや、すまない」

 玄蔵は、手で竜介をさえぎった。

「きみを責めるつもりはないんだ。ただ、運命というのは皮肉なものだと思ってな。……わたしは、炎珠の血を守るために、紺野の姓を捨てたのではなかったのだが――」

 彼はその先を言わずに口を閉じた。

 竜介もまた、つらそうに視線を伏せたまま、先をうながさない。

 お互い、わかりすぎるほどわかっていることだったから。

 玄蔵はそのまま、坪庭に目をやった。

 立ち枯れている一年草、色づき始めている木の葉、そんなものが目につく。

 まだ夏のなごりが色濃いように見えても、秋の気配は確実に忍び寄っている――そんなことを思った。

 どれくらいそうしていただろう。

 不意に沈黙を破ったのは、玄蔵だった。

 庭木を見つめたまま、彼は言った。

「竜介くん。きみには、すべて話そう」

 ゆっくりと視線をめぐらせ、竜介の顔で止める。

 最後に見たときは、まだ少年だった従兄甥の顔。

「紅子にはもはや、炎珠の魂縒はいらないのだよ」

紅蓮の禁呪9話「視線」

  翌朝。

 紅子は、階下から聞こえるかすかな物音と、味噌汁の匂いで目を覚ました。

 枕元の目覚ましは、六時半。彼女が起床すべき時刻より、若干、早い。

 今日の朝御飯は、あたしが当番だったはずだけど……?

 祖母が亡くなって以来、一色家では家事の分担を当番制にしている。

 ちなみに、昨日の夕食当番は玄蔵だった。

 不思議に思った彼女は寝ぼけまなこをこすりながら、パジャマのままで二階の自室から台所へ降りた。

 そこでは、見覚えのない背の高い男が料理をしていて、彼は紅子の気配に気付くと振り返り、にっこり笑った。

「や、早いねぇ」

 その端整な顔立ちは、紅子と同い年くらいにも、やや年上にも見えた。

 長めにのばした髪を後ろに流してまとめているが、幾筋か残ったおくれ毛が、額にかかっていた。

 だれだ、こいつ?

 まだ頭の回路が充分目を覚ましていない紅子は、うすらぼんやりしたまなざしで相手を見つめた。

 が、彼はそんなことなど気にもとめていない様子で、慣れた手つきで作業を続けながら、一人でぺらぺらとしゃべり続ける。

「昨日はいきなりお邪魔して、悪かったね。お詫びといっちゃ何だけど、朝御飯、作ろうと思ってさ。もうすぐできるから、ちょっと待っててくれるかい。口に合うといいんだけど。あっ、台所、勝手に使っちまったけど、ちゃんと元通りに片づけておくからね」

 相手のとりとめのないお喋りを聞いているうちに、紅子は、徐々に昨夜の出来事を思い出し始めた。

 そーだ……昨夜……紺野とか言う父さんの知り合いが来て……。

 彼女の脳裏に、無精ヒゲとボサ髪の、むくつけき男の顔がよみがえった。

 それが、目の前の青年のそれと重なる。

 紅子は、回転速度がやや平常通りになってきた頭で尋ねた。

「あの~……あなた、紺野さん?」

「そう」

 相手はにっこり笑ってうなずいた。

「俺のことは、竜介って呼んでいいよ」

 ふーん。

 紅子は、ぼんやりと竜介の顔を見つめた。

 もっとおぢさんかと思ったら、意外に若いんだ。あたしよりちょい年上くらい?

 そのあいだにも、竜介のおしゃべりは続いていた。

「……だからさ、俺、ここでお世話になってるあいだ、食事当番させてもらってもいいかなぁ?単に居候するだけじゃ申し訳ないだろ。大丈夫、料理の腕には自信あるんだ」

 ……は?

 紅子の目が点になった。

「……いそうろう?」

「そう、居候」

 竜介は、笑顔を絶やすことなく、答えた。

「おじさんから聞いてない?俺、しばらくここに住むって」



 制服姿の学生たちが、にこやかにあいさつを交わし合い、談笑しながら歩いていく、さわやかな朝の通学路。

 その中をただ一人、憤然とした面もちで肩を怒らせ歩く女子生徒がいた。

 紅子である。

 ったくもー、ったくもー、ったくもーっ!!

 うちの親父ってば信じらんないっ。

 知り合いだかなんだか知らないけど、若い娘のいる家に、男を居候させるだなんてっっ!!

 それもあんな気に食わない男をっ!!

 彼女は昨夜、自分の放った硬気功が竜介に止められてしまったことを思い出し、さらに気分が悪くなると同時に、奇妙なことに気付いた。

 あいつ……包帯、してなかった。

 竜介は今朝、半袖のTシャツを着ていたが、腕には、包帯どころか、昨夜のひどい傷さえ見あたらなかったことを、思い出したのだ。

 紅子は、その場に立ち止まって、考え込んだ。

「どういうこと……?」

 と、そのとき、誰かがその肩を叩き、不意をつかれた彼女は思わず悲鳴を上げた。

「ひゃあっ!!」

 あわてて振り返ると、藤臣が、彼女の過剰な反応に当惑した様子で立っていた。

「あ……センパイ」

「ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。さっきから何度か声をかけてたんだけど、気がつかないみたいだったから」

「あ、いえ、私のほうこそ、大声出しちゃって」

 紅子は素直に頭を下げた。

「何か、考え事?」

「え?はい、まあ、そんなところです」

 曖昧に笑って頭をかきながら、彼女はふと視線を感じて、辺りを見回した。


 それまで二人のことを見ていた春香は、紅子がこちらを振り返ろうとしたので、あわてて物陰に隠れた。

 隠れてから、自己嫌悪に陥おちいる。

 ……何やってんだろ、わたし……。

 別に、二人の様子を盗み見してやろうなどと思っていたわけではない。

 紅子の姿を見かけて声をかけようとしたところ、藤臣に先を越されてしまい、そのまま何となく声をかけそびれてしまったのだ。

 再びそっと様子をうかがうと、彼らは並んで歩き出すところだった。

 今すぐ走っていけば、まだ間に合う。

 気兼ねすることなど、何もないはずだった。

 しかし、昨日の藤臣の言葉を思い出すと、彼女の足はどうしてもすくんだまま、動かなかった。

 さて――

 そんな三人のことを、おもしろそうにじっと見つめている、不気味な目があった。

 春香の背後、排水溝の影に潜む「それ」は、狡猾そうな視線を彼らに注いでいたが、とくに紅子に対して向けられるとき、それは明らかに、他の二人とは違う感情を帯びていた。

 すなわち、殺意に近い憎悪。

 しかし、その不穏な視線に気付くものは、今はまだ誰もいなかった。

紅蓮の禁呪8話「邂逅(かいこう)」

  彼は、声のしたほうを植え込みの影からそっと見た。

 長い髪を三つ編みにした、小柄な少女が、月明かりの下、険しい目つきでこちらを睨にらんでいる。

 しまったなぁ……。

 彼は頭を抱えた。

 まさか、あの一瞬で気付かれたのか?

「出てこい、ってのが聞こえないの?」

 再び、少女の声。

「それとも、引きずり出されたい?」

 相手の近づく気配に、彼はあわてて立ち上がった。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。これにはわけが……」

「わけ?」

 彼女は馬鹿にしたように、フンと鼻を鳴らした。

「ドロボーにどういうわけがあるっての?」

「ど」

 泥棒って。

「俺は泥棒じゃない」

 少女の眉が、ぴくりと動く。

「へーえ。こんな時間に人んちに忍び込んでおいて、ドロボーじゃありませーん、って?」

 嘲弄するような口調。

「たまにいるんだよね。あの蔵見て、うちに盗みに入るやつ。でも、残念でした。あれ空っぽなの」

 パキッ、ポキッ。

 少女の指の関節が鳴る。

 この流れは、かなりまずい。

「違うって、俺は」

「違うの?じゃあ、変質者?」

「だから、違」

「ま、いっか。どっちでも」

 よくねーよ!

 彼はそう叫びたかったが、それが声になる前に、間合いを詰められていた。速い。

「うちに忍び込んだこと、後悔させてあげるっ!」

 そう言うや否や、小手調べだろう、正拳突きが来た。彼は紙一重でそれをよける。

「へぇ、やるじゃん」

 少女は一歩下がって間合いを取ると、凶悪な笑みを浮かべ、そう言った。

「あのさぁ」

 彼は空腹に頭痛が加わったような気がした。

「一分でいいから俺の話、聞」

「言いわけ無用っ!」

 自分の気迫に相手が動じる様子をまったく見せないのが、彼女のしゃくにさわったらしい。

 言葉と同時に、カミソリのような上段の蹴りが一閃、彼の耳元の空を切り裂いた。

 今度の攻撃はそれだけでは終わらず、再び間合いを詰めて、拳での打撃へ。

「きみ、紅子ちゃんだろ?」

 彼は少女の連続攻撃を実に軽々と避けながら言った。

「俺は、君のお父さんの知り合いで」

 だがそれは、

「うそなら、もっとましなうそにしなっ」

 と、さえぎられてしまった。

「うちの親父の知り合いに、あんたみたく汚らしい浮浪者なんかいないっ!!」

 汚らしい。

 浮浪者。

 しかし、その時の彼は、確かにそう言われても仕方がないような格好をしていた。

 最後に剃ったのがいつだかわからないような無精ヒゲ。

 ぼさぼさの頭髪。

 すり切れたジーンズ。

 履きつぶしかけのスニーカー。

 こんな姿で夜分、他家の塀によじ登っていれば、間違いなく立派な不審人物だ。

「だから、これにはわけが」

 彼は懸命に弁解を試みる。

 が、次の瞬間、蹴りと一緒に飛んできた、

「うるさいっ!!」

 という怒鳴り声に、またもやさえぎられたのだった。


 実を言うと、このとき紅子はかなりムキになっていた。

 こちらはそろそろ息が上がってきているのに、攻撃がまだ一つも決まっていない。

 しかも相手はまだまだ余裕のある顔をしている。

 こいつ……かなりできる。

 でも、なんで仕掛けてこないんだ?

 打つのも蹴るのも、まるで手応えがない。

 師匠である父を相手にしても、二回に一回はヒットさせられる自信があるスウィッチ・キックさえ決まらなかった。

 ならば投げ飛ばしてやろうと腕をつかんだはずが、次の瞬間には空を掴んでいる。

 まるで、実体のない影と闘っているようだ。

 男は、別に攻撃を避けるために構えたりするわけでもなく、ごく普通に、いやむしろのほほんと立っているだけ。

 見た目には隙だらけだ。

 それがよけいに彼女の神経を逆撫でした。

 疲れて動きが鈍るのを待ってる?

 冷たい汗が、背中を伝う。これ以上長引けば、体力のないこちらが不利だ。

 相手の思うつぼにはまってたまるか!

 彼女は完全に本気になった。

 次で絶対に決めてやる!


 弱ったな~。

 男は密かにため息をついた。

 話、聞いてくれねーんだもんなぁ。

 彼から見れば、少女の本気など、毛を逆立てた子猫の本気みたいなものだが、爪を立てて向こうから飛びかかって来られると、あいさつに困った。

 大人しくさせるためには多少手荒なことをしてもかまわないというのでなければ、猫じゃらしよろしく、彼女の気が済むまで適当に相手をしてやるしかない。

 しかし。

 今の彼に、そんな余裕はなかった。なぜなら、彼は

 空腹

 だったからである。

 ああ……晩飯……。

 と、そのとき。

「紅子」

 玄蔵の声だった。同時に、彼が愛用している雪駄の音が近づいてくる。

「どうしたんだ?さっきからなんだか騒々しいが……」

 ほんの一瞬、男の気が自分から逸れるのを、紅子は見逃さなかった。

 彼が相手の気の異様な高まりに気づくのと、彼女の拳が硬気の塊を打ち放つのとは、ほぼ同時。

 ヒュッ、という口笛のような鋭い音が大気を切り裂き、彼を襲った。

 まずい。避けきれない。

 彼はとっさに身を低くし、両腕を盾にする。次の瞬間、重い衝撃とともに、両腕に鋭い痛みが走った。

 歯を食いしばってうめきを殺していると、ただならぬ気配を察したらしい玄蔵が、慌ててこちらへ来るのが見えた。

 彼は自分の娘が使った技のなんたるかをすぐに知ったらしく、憤然となった。

「紅子、おまえは何てことをっ!!」

 だが、紅子もまた、強いショックを受けていた。

「そんな……今の硬気を止めるなんて……」

 彼女はそうつぶやくと、呆然とした表情でこちらを見ている。

 もう攻撃する気力はなさそうだ。

 彼はほっとして防御態勢をとくと、ひゅう、と喉の奥から長い吐息をもらした。

「いや~、参った参った」

 などと微苦笑しながら。

「まさか、最後の最後にこんな大技を仕掛けられるなんて、思ってなかったなぁ」

 盾にした両腕をあらためて見れば、鋭利な刃物で斬りつけたような傷が無数に口を開け、血まみれ。

 Tシャツとジーンズも、あちこちがぼろぼろに裂けて、血が滲んでいる。

 やれやれだ。

 ため息をつきながら、傷の痛みに顔をしかめていると、こちらをしげしげと眺めていた玄蔵が言った。

「きみ……ひょっとして、竜介(りゅうすけ)くんかね?」

 ようやく思い出した、と言わんばかりに。

 男は照れたように笑うと、軽く会釈した。

「お久しぶりです、玄蔵おじさん」

 彼は、紺野竜介と名乗った。



 数分後。

「まったく、おまえときたら」

 玄蔵は娘を叱りつけていた。

「相手が竜介くんだったから大事に至らなかったものの、一歩間違えば、今ごろ傷害致死で前科一犯だぞ」

 紅子は、竜介の腕に包帯を巻きながら、ぷぅっと頬を膨らませている。

「……悪かったわよ」

「何だその謝り方は。大体おまえは」

「もういいですよ、おじさん」

 竜介は、まだまだ続きそうな玄蔵のお説教をやんわりとさえぎった。

「誤解されるような真似をした、俺も悪かったんです。それより……」

「それより?」

 おうむ返しに言ってから、玄蔵の顔にハッと緊張が走った。

 なにやら心当たりがあるらしい。

「い、いや、その話は明日にしよう。今日はもう、ゆっくり休んで」

「いえ、違うんです」

「え?」

 次の瞬間、全身から力が抜けてしまいそうな音が響きわたった。

 竜介の腹の音である。

「すみません」

 彼は、笑って頭をかいた。

「晩飯、まだなんです。さっきからもう、腹が減って死にそーで……何か食わしてもらえませんか?」

紅蓮の禁呪7話「来訪者」

  夕食を済ませた後、紅子は縁側に出てみた。

 昼間の蒸し暑さがうそのように、夜風が涼しい。もう秋が近いのだ。

 玄関の気配を探ってみたが、父の待ち人はまだ到着していないらしく、ひっそりと静まり返っている。

 客が来れば、やれお茶だ酒だとこき使われるに決まっているので、日課にしている体術の稽古を今のうちにすませておこうと思い立ち、彼女はスニーカーを履いて庭に降りた。

 いつものように、シャドーで形の練習をする。

 が。

 さっきの父の様子が気になって、どうにも稽古に集中できない。

 わざわざ上等の着物に着替え、玄関先まで出て待っているくらいだから、我が家にとってかなり重要な客のはずだ。

 それなのに、先刻の態度はいったい何なのだろう?

 まるで、「おまえは知らなくていい」とでもいわんばかりの、あの態度。

 一色家にとって重要なら、紅子にとって重要でないはずはないだろうに。

 それとも、あたしに知られると困るような相手なんだろうか?

 玄蔵の態度からして、来訪予定者は今朝の電話の相手で間違いない。

 問題は、あの雰囲気。

 歓迎――というよりは、ぴりぴりとしていて、警戒といったほうが正しい。

 上等の着物に着替えているのだから、腕に物を言わせるつもりはなさそうだけど――

 いったい、どんな人が来るんだろう?


 若い男からの電話がくることは、一色家の場合、別に珍しくない。

 玄蔵が、一色流練気柔術という合気道と気功を足して二で割ったような武術の師範をしているからだ。

 そして門下生や入門希望者はたいていの場合、男性が多い。

 でも、と紅子は首を傾げる。

 今朝の電話は、そんな感じじゃなかった。

 どうしてそう思ったんだろう。

 たしか、電話の相手は、朝早くに失礼します、などとありきたりのあいさつをして名乗った後、こう言った。

「玄蔵さんはご在宅でしょうか」

 道場の関係者は、玄蔵を「一色先生」または「一色師範」と呼ぶ。

 名前を呼ぶ人はあまりいない。

 と、いうことは。

 道場関係者ではなく、玄蔵の個人的な知り合い、ということか。

 紅子はとうとう稽古をやめ、腕組みをして考え込んでしまった。

「うーん。わっかんないな……」

 思わず独りごちてから、はっと我に返る。

 バッカみたい。なんであたし、さっきからこんなつまんないこと真剣に考えてるんだ。

 うちの親父に知り合いから電話なんて、いくらでもあるのに。

 そう自分で自分につっこみながらも、ふと、

 ちょっと事務的だけど、落ち着いた、いい感じの声だったな――

 などと思っている自分に気づき、紅子はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。

 いやいやいや、と、思い切り首を振る。

 あたしは男に興味なんか……。

 と――

 そのとき。かすかな気配が、彼女の思考をさえぎった。

 何だろう。今、何か、動いた。

 険しい目で、ゆっくりと振り返り、庭を見渡す。

 聞こえる音といえば、鈴を振るような虫の声ばかり。

 夜空は雲一つなく晴れ渡り、青く澄んだ月の光が、辺りを真昼のように照らしている。

 庭のそこかしこには、女郎花(おみなえし)や桔梗(ききょう)が早くも花をつけていたが、その花びらがわずかな風に揺れるさまさえ見て取ることができそうなほど、明るく、そして静かな、秋の宵だった。

 何の変化も感じられない。

 庭木の後ろにも、不審な影は見あたらない。

 しかし。

 彼女は全神経を針の先のように研ぎ澄まし、かすかな気の乱れを確かめると、大きく息を吸い込んだ。

「だれっ!?」

よく通る声が、辺りに響きわたる。

「そこで何してんのよっ、出てきなっ!!」



 それより少し前。

 一人の男が、一色家のすぐそばまでたどり着いていた。

「……やっぱりクルマ、頼めばよかったかなぁ」

 彼は、延々と続く塀を前に、ため息をついた。

 道は知ってるから、歩いていけると思ったんだけどな~。

「景色が変わってて道に迷うは、日は暮れるは……」

 そのとき、まるでタイミングを計ったように腹の虫が豪快な音を立てた。

「……腹は減るは」

 彼の記憶が正しければ、今いる場所から玄関まで、徒歩でゆうに五分はかかったはず。

 もう一度ため息をつくと、彼は恨めしそうに塀を見上げた。

「いっそ、こいつを乗り越えちまおうかな……そうしたら、早く晩飯にありつけるかも」

 晩飯。そう口に出したとたん、彼の頭の中からは、家人を驚かせてしまうかもしれないとか、第一、礼儀を欠いているとかいった理性的な考えは吹き飛び(いや、全く考えなかったわけではないのだが)、あとには食欲だけしか残らなかった。

 塀の高さは二メートルちょっと。

 仏閣などの和風建築でよく見かけるような板と漆喰でできた塀で、上に瓦がのっている。

 古ぼけて、今にも崩れそうに危なっかしいという点をのぞけば、越えられなくもないといった感じだ。

「ふむ」

 彼は無精ひげの生えたあごに手をあてて塀をためつすがめつ眺め、瓦の具合を確かめる。

 周囲を見れば、幸い、辺りに人影はない。

 普通の人間なら、この後、勢いをつけて「よじ登る」という格好になるのだろうが、彼の場合はまるで違っていた。

 持っていたボストンバッグを脇に抱え込み、二、三歩下がる。

 と、次の瞬間、わずかな助走をつけただけで、背中に羽根でも生えているように、軽々と塀の上に飛び乗ったのである。

 庭木に引っかかって音を立てるような失敗もなく、向こう側に着地を決めると、彼は小さくガッツポーズをした。

 楽勝だぜっ♪

 夕食へのショートカットに成功――と思いきや。

 すぐ近くに人の気配を感じ、彼はその場にうずくまったまま、あわてて自分の気配を絶った。

 相手が玄蔵おじさんでなきゃ、気づかれることはないだろう。

 などと楽観しながら。

 ところが。

「だれっ!?」

 少女の鋭い声が、明らかに彼めがけて飛んできた。

「そこで何してんのよっ、出てきなっ!!」

エジプト旅行2026⑥~カイロ歴史地区観光!そして帰国

カイロ歴史地区観光 エジプト滞在最終日 です~! 本日のお土産屋さんタスク😂はカルトゥーシュのお店だったんですが、ガイドさんによると 「オーナーが寝坊したので11時過ぎないと開かない」 というホントかウソかわからない理由で後回しになりました😂 この日の行き先は旧カイロ地区。 ...