玄蔵は抗弁した。
「しかし黄根さん、魂縒のあとには昏睡があります。第一、今の紅子の身体は普通の状態じゃ……」
ところが、当の紅子はいつの間にかすっくと立ち上がっている。
「紅子?大丈夫なのか?」
ついさっきまでふらついていたのにと訝しみながら玄蔵は声をかけるが、彼女は焦点の合わない目で前を見たまま、返事もしない。
ただ引き寄せられるように紅子が黄珠に歩み寄る。
玄蔵はもう一度紅子を呼ぼうとしたそのとき――
凄まじい金色の光輝が辺りを満たした。
閉じたまぶた越しに目を射る、あふれる光。
その場にいた誰もが、あまりの眩しさに耐えきれず、目を閉じ顔をそむけたり手で光を遮ったが、それは文字通りほんの瞬きの間の幻のように過ぎ去った。
紅子の様子が気になっていたものの、今の自分にできることをしなければと、眼前で復活しつつある龍垓と迦陵に意識を集中していた鷹彦も突然の光に驚いて、思わず背後を振り返った。
だが、そこにはただ、もとの薄明の世界に、弱々しい輝きを放つ黄金の宝玉と、その前に立つ紅子の姿があるだけだった。
今のは黄珠の……?
頬に血色が戻ってはいるものの、顎から下を血まみれにした彼女の姿は、お世辞にも「無事」とはいえないし、さらにさっきの光が魂縒だとすれば、あとには呪的昏睡と御珠の力の減衰が待っている。
だとしたら、ここは一旦退いて、また出直すということになるのか、と鷹彦は思った。
実際、紅子は目を閉じたままみじろぎしない。
黄珠の輝きも衰えている。
彼女の最も近くに控えている玄蔵も、娘がいつ倒れてもいいように身構えているようだし、竜介と、彼に傷を癒やしてもらった志乃武、それに付き添っていた泰蔵・日可理も、心配そうに成り行きを見守っていた。
しかし、驚いたことにまもなく黄珠は輝きを取り戻し――
紅子の閉じていたまぶたが、開いた。
それは、実に四千年ものあいだ、彼ら御珠の一族が切望し続けた瞬間だった。
五つの御珠すべての力を授かる神女がこの世に現れたのだ。
その場の誰もが、目の前の奇跡に言葉を失っていた。
だが――そう、これで終わりではない。
彼らにはまだ片付けねばならない勤めが残っていた。
禁術起動という、命を賭した勤めが。
そして、その時までは、もう一刻の猶予も残ってはいなかった。
巨大な生き物の咆哮を思わせる、地鳴りのような轟音が周囲を震撼させたかと思うと、青白い鬼火のような稲妻が、彼らの周囲を取り巻いたのは、そのときだった。
日可理が悲鳴をあげ、思わず耳を塞いで身体を低くする。
残る七人も、何事かと身を固くした。
通常なら目に見えない、鷹彦の造った超高密度の「風撃の壁」が、一瞬、青白いドーム状に浮かび上がる。
生臭いオゾン臭が鼻を突き、静電気が彼ら八人の髪を逆立てた。
稲妻が消えたとき、「壁」の向こうに浮かび上がったのは、巨大な竜だった。
硬質な漆黒の鱗に青白い稲光をまとったその竜は、巨大な蛇体をくねらせて彼らのいる円形舞台の周囲にとぐろを巻き、大きく裂けた口からまた一つ、咆哮した。
空気が、ビリビリと震える。
「鷹彦、大丈夫か!?」
竜介が叫ぶと、
「今のところはね!」
という返事が来た。
「けど、あと二回、今みたいな直撃をくらったらわかんねえ!」
「あの怪物は、今までどこにいたんだ?」
玄蔵が誰にともなくつぶやくと、それを聞きとがめた黄根が答えた。
「あれは龍垓だ」
確かに、迦陵はさきほどと同じ場所にいるが、隣にあったはずの龍垓の姿は消えている。
そして巨大な竜から感じる、圧倒的な力の気配は、龍垓のものと同じだ。
雷迎術、という言葉が皆の脳裏をよぎった。
迦陵はすでに首が元通りになって、目に見えない「壁」に向かって何度か斬りつけたものの、文字通り刃が立たないとわかった今は間合いを取って様子を見ているようだ。
一方、龍垓――もとい、彼だった竜のほうは、空に向かって巨大な口を開け、まるで辺りにわだかまる闇を吸い込んでいるように見えた。
おそらく、次の雷撃のために力を溜めているのだろう、その鱗と背びれには不気味な青白い光が脈打ち、少しずつだがその輝きは増してきていた。
「時間がない。坊主」
黄根が鷹彦に向かって早口で言った。
「一瞬だけ壁を消せ。お前の兄と師匠を外に出す」
わかりました、と答える鷹彦の声を聞きながら、紅子が竜介を目で探していると、すぐとなりで声が聞こえた。
「紅子ちゃん」
「竜介」
紅子が少し驚きながら向き直ると、彼は少しだけはにかむように微笑み、言った。
「俺、あとできみに話したいことがあるんだ」
その言葉に、鷹彦の
「竜兄、師匠、カウントスリーで消すから出て!」
という声がかぶる。
「三!」
「うん」
紅子は強くうなずく。
「二!」
「うん、あたしも」
「一!」
竜介は頷き返すと、彼女から視線をはずした。
脳裏をよぎる「今生の別れ」、という言葉を振り払いながら、泰蔵とともに円形舞台の縁へ向かう。
ゼロ、の声とともに周囲の景色の暗色が、心持ち深くなったようだった。
「壁」が消えたのだ。
そのとたん、タイミングを図っていたらしい迦陵が、間髪入れず竜介たちの間合いに入ってきた。
彼らが押されて後退すれば、迦陵を「壁」の内側に入れてしまうことになる。
だが、
キィン!
という硬質な音が薄明の世界に響き渡り、青い火花が散った。
泰蔵が喚び出した、日可理の式鬼氷華(ひょうか)と雪華(せっか)の剣が、迦陵の刃を受け止めた音だ。
続けて、竜介の隣にいた泰蔵の姿が消えたと思った、次の瞬間。
迦陵の小さな身体が後ろ向きに吹き飛び、まるで入れ替わるように泰蔵の姿が現れた。
竜介たちの背後の空中に、かすかなモアレ模様が現れたのは、そのときだった。
「壁」が無事に復活した印だった。
(※挿絵はAIにより作成しました)