2023年10月6日金曜日

紅蓮の禁呪135話「凍える世界で・二」


  志乃武と電話で話した結果、彼ら姉弟の来訪は、明日の午後一時に決まった。

 竜介は泰蔵のところで夕食を済ませると、本邸にもどって鷹彦の姿を探した。

 明日のことを伝えるためだ。

 本邸での夕食の時刻もすでに終わっているから、おそらく鷹彦は自室にいるだろうと思っていた。

 ところが、見当たらない。

 闇雲に探すよりはと、台所へ行き、滝口と夕飯の片付けをしていた英梨に尋ねてみた。


「鷹彦さんなら、この時間は駐車場で体術の練習をしてたと思うけど」


 外は思いのほか、寒かった。

 玄関を出て前庭を抜けた奥にある、テニスコート二面程度の広場。

 それが紺野邸の駐車場である。

 広場の大半を占めるのはシャッター付きの大型車庫で、日が落ちたあとでも車の出入りに支障がないよう、照明が完備されている。

 玉砂利が敷かれた庭と違い、舗装が行き届いて足元の安定もいいので、来客の車がない限り、ここは子供の頃の竜介たち兄弟にとって格好の遊び場だった。

 竜介が来てみると、英梨が言った通り、照明が煌々とともって人の気配がしていた。


「鷹彦」


 明かりの中の人影に声をかけると、闇の中で吐息が白く凍えるのが見えた。

 人影はそれまでやっていた動きを止め、こちらを振り返る。

 明かりの中に入ると、影法師が鷹彦の姿に変わった。

 鷹彦も兄の姿を認めたらしく、


「竜兄、お帰り」


 と、荒い呼吸を整えながら言った。

「母さんからここだって聞いて……邪魔したかな」

「いや、ちょうど休憩しようと思ってた」

 淡々とそう答える鷹彦の全身からうっすらと湯気が立ち上っている。

 彼は少し離れた植え込みに向かうと、枝に引っ掛けてあったスポーツタオルを取って汗を拭い、足元の水入りペットボトルを拾い上げて中身を飲んだ。

 ボトルを勢いよく傾けたせいで、口元から水がこぼれると、それをタオルで汗と一緒に無造作にぬぐう。

 そんな仕草の一つ一つがこれまでの鷹彦とは別人のように男っぽく、竜介は奇妙な焦燥を感じた。


「毎日ここで鍛錬してるのか?」


 訊くともなく訊いてみる。

「師匠にも稽古をつけてもらったって聞いたけど」

「まあな。他にやることもないし」

 鷹彦はちょっとはにかんだように笑う。

 その笑顔は間違いなく竜介が知っている鷹彦のものだ。

 だが、彼が少しほっとしかけたそのとき、鷹彦はふと真顔になり、

「……俺さ」

 と、続けた。


「黄根のじいさんが言った通り、ほんとにこのあと紅子ちゃんを助け出すチャンスが巡ってくるなら……その役目は、俺がやりたいんだよね」


 そこにいたのは、鷹彦の顔をした知らない男だった。

 当惑する竜介の脳裏に、なぜだか遊んでくれとつきまとってきた小さい頃の鷹彦の姿が蘇り、無性に言動をからかってやりたいような、茶化してやりたいような衝動を覚えた。

 何なのだろう、これは。

 足の裏がムズムズするような、この居心地の悪さは。


「それより、なんか俺っちに用があって来たんじゃねーの?」


 そう言われて、竜介はようやく我に返った。

「実は、明日のことなんだが……」

 白鷺家の二人が来ることと、黄根も同席することを伝えると、鷹彦の顔に喜色が広がる。

「そっか……俺たち、やっと動き出せるんだ」

「じゃ、お前も明日、一緒に来るんだな?」

「当たり前だろ!行かねえ選択肢なんかねえよ」

 鷹彦はそう言うと、両拳を夜空に突き上げた。

「よし、断然やる気が出てきた!稽古再開すっか!」

「怪我に気をつけてな」

 と、竜介が立ち去りかけたそのとき。


「ええっ、なんだよ。久しぶりに竜兄も付き合ってくれるんじゃないのかよ」


 不満げな鷹彦の声が、彼の足を止めた。



 鷹彦と稽古なんて、何年ぶりだろう――

 竜介はそんなことを思いながら、腕を交差させて鷹彦と互いの左右の拳を軽くぶつけ合う。

 紺野家ならではの組み稽古開始の挨拶。

 だが、それが終わった途端、鋭い正拳の連打が襲いかかってきて、思い出を懐かしむ気持ちなど一気に吹き飛んでしまった。

 相手の勢いに押されるように、やや後退しながら、左右に拳を弾くように払う。

 続く二段蹴りはさすがに避けきれず、竜介は後ろにトンボを切って、一旦大きく間合いを取った。

 楽しくなってきた。


「力に頼りきりかと思ってたのに……驚いたぜ」


 彼が拳を構え直しながら言うと、鷹彦も同じ構えを取り、ニヤッと笑う。

「男子三日会わざれば、ってヤツさ」

 その言葉が終わらないうちに、鷹彦は再び踏み込んだ。

 しかし、今度は竜介も同時に間合いを詰める。


 激しい拳と蹴りの応酬。


 時折互いの口から漏れる鋭い気合いと、筋肉がぶつかり合う重い音が、夜暗に吸い込まれていく。

 自主練である程度ウォームアップが済んでいた鷹彦と、いきなり組み稽古に入った竜介とで、最初のうち、やり取りはほぼ互角だった。

 が、しばらく動くと竜介も身体が温まってくる。

 勝敗は、どちらかが「待った」をかけるか、地面に倒れたときに決する。

 ちなみに、大きな怪我をする恐れがあるため、力は使わない。

 だから、今この場を照らすのは、人工照明だけ。


 ひやりとする場面が増えてきた鷹彦は、この照明を利用する作戦に出た。


 攻撃を躱しながら照明を背にすると、思った通り、竜介は――心持ち、ではあるが――眩しそうに目を細めた。

 その瞬間を逃さず、連続ハイキック。

 が、その渾身の攻撃は空を切り――


「甘いぜ」


 そんな声が聞こえたと思った、そのときにはもう竜介の顔と拳がすぐ目の前に迫っていた。

 蹴りに使った右足に急ぎ重心を移し、相手の打拳を鷹彦は胸の前すれすれで躱す。

 間合いを取ろうと左足を引いた、次の瞬間、左の膝裏に何かが引っかかった。


 やばい。


 そう思ったときには、彼はすでに地面に仰向けに倒れていた。

 夜空を見上げて呆然としていると、竜介の顔が遠慮がちに上から覗き込んできた。


「勝負あったってことでいいか?」


 と尋ねられ、鷹彦はアスファルトに寝転がったまま、口を尖らせ答えた。


「へいへい。負けましたぁ」


 兄が差し出してくれた手につかまって立ち上がる。

 服についた砂埃を払いながら、

「ちぇっ、最後のハイキックは絶対決まったと思ったのに」

 などとぶつぶつ不平を鳴らしていたが、最初と同じ左右の拳を交互にぶつけ合う挨拶が終わると、なぜか気分がすっきりして、気がつくと笑いながら兄にこう言っていた。


「でも、久しぶりに楽しかったぜ。付き合ってくれてありがとう」


「うん。俺も楽しかった」

 と、竜介もにっこり応じる。

 だが、すぐに彼は真顔に戻ると、言った。


「鷹彦。……俺、お前に謝らなきゃいけないことがあるんだ」

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