2023年10月24日火曜日

紅蓮の禁呪136話「凍える世界で・三」

 


 謝りたいこと――

 そう聞いたほんの一瞬、鷹彦の顔から笑みが消えた。

 兄が言おうとしていることを、彼がどれほど察していたかはわからない。

 ただ、竜介が言葉を続けようと息を吸い込んだとき、待ったをかけるように片手を上げて、鷹彦は言った。

 その顔には、再び笑みが戻っていた。


「とりあえず、風呂行かね?汗で冷えてきちゃったよ」



 以前にも書いたが、紺野邸の浴室は、大人三人が余裕で同時に入浴できるくらい広い。

 話の続きは風呂の中でもできるだろ、と鷹彦が言うので、むさくるしい男二人で一緒に入ることになった。

 自宅の風呂に兄弟の誰かと入るのは、子供の頃以来だ、などと思いながら、彼は末弟と一緒に浴槽に身を沈めた。

 冷えた身体が湯の中でゆるむと、二人同時、まるで申し合わせたように変な声が出て、思わず顔を見合わせて笑う。

 その後、沈黙が訪れた。

 いつもなら何か冗談を言うだろうはずの鷹彦が、静かだった。

 無言のうちに話の続きを急かされているような気がして、竜介は少し緊張しながらおもむろに言った。

「白鷺家で、お前に言ったよな。紅子ちゃんは、涼音と同じだ、って」

 鷹彦は首肯した。

「言ったね」

「あれ、撤回させてくれ」

 竜介は、隣にいる鷹彦の顔を見ず、まっすぐ前を向いたまま、言った。

 全身から汗が吹き出しているのは、湯が熱いせいだけではないだろう。


「お前に同意するよ。紅子ちゃんは、涼音とは違う」


 沈黙を恐れるように、言葉を続ける。

「俺は最初、本当にお前の恋愛を応援するつもりだった。でも……彼女を失ってみて、自分の気持がやっとわかったんだ。俺は、紅子ちゃんとのことではお前にもう協力してやれない……すまない」

 鷹彦は今言われたことを吟味するかのようにしばらく沈黙してから、言った。

「ガキをどうこうする趣味はねえ、とか言ってたのにな」

 反論の余地はなく、苦笑するしかない。

「別に今もそういう趣味はねえよ」

 竜介は額から落ちてくる汗を、両掌で顔を覆うようにして拭いながら言った。

「矛盾してるのはわかってる。でも、自分に嘘をつくのは、もうやめたんだ」

 鷹彦はふうん、と鼻を鳴らして、

「竜兄、覚えてる?」

 と尋ねた。

「ガキの頃、俺が欲しがったら、竜兄は何でも譲ってくれたよな……自分が大事にしてるおもちゃでも、好きなお菓子でも、何でも」

「そうだっけ」

「そうだよ。俺、お袋さんに怒られたもんな。『竜介お兄ちゃんのものを何でもかんでも欲しがっちゃいけません』て」

「そういや、俺も『鷹彦に少しは我慢ということを教えたいから、甘やかさないで』って言われたな」

 竜介は埋もれていた記憶を懐かしく思い出しながら言った。

「我慢は虎光が教えてるから大丈夫だよ、って言い返したら、『そういうことじゃありません!』て怒られたっけ」

「それ、お袋さん言いそう!」

 二人の笑い声が、湯気で白く煙る浴室に響く。

 笑いがおさまってから、鷹彦が言った。

「竜兄が譲らないなんて、初めてじゃん?俺、正直びっくりしてるんだ」

「譲るも何も、紅子ちゃんはおもちゃでもお菓子でもねえし」

「わかってるよ」

 鷹彦は、ヘヘっ、と笑った。


「ただ、竜兄とやっと対等になれた気がしてさ、今、ちょっと嬉しいんだ」


 竜介が怪訝な顔をすると、鷹彦は

「うーん、どう言えばいいかな」

 少し考えてから、こう続ける。

「譲ってもらうのはそれはそれでありがたいよ。こんなに甘えさせてくれる兄貴はそうそういないし、俺、竜兄のことは本当に好きだし尊敬してる」

 けど、と彼は言った。

「この歳になってもソレだと、ガキ扱いされてんだなって思うこともあるわけさ。だから、自分の欲しい物は自分で取りに行けるんだぜってところを見せたいって、ずっと思ってたんだよ」

 今度は竜介が驚く番だった。

 まだ学生で、子供だと思っていた鷹彦がそんなふうに思っていたとは。

 彼は頭を掻いた。


「すまん。俺、余計なことしてたんだな……」


 すると鷹彦は慌てて片手を顔の前で左右に振り、

「いやいや、俺も竜兄に甘えてたから」

 と言った。

「それにしても、俺っち人生で初めて竜兄に譲ることになりそうなのが、まさか恋愛沙汰とはね」

「お前に譲ってもらおうなんて微塵も思ってねえよ」

「おや、じゃあ俺っちも本気で取りに行くぜ」

「望むところだ」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 いつしか、鷹彦を牽制したい気持ちは消えていた。

 鷹彦はそれを知ってか知らずか、笑いをおさめると、言った。


「冗談抜きでさ、紅子ちゃんは竜兄のこと、好きだと思う」


 竜介は、日可理に小さな黒珠の怪魚を飲まされそうになったときのことを思い出しながら、

「どうだろうな」

 と曖昧に笑った。

 あの場面を紅子が誤解していても――

 彼女の気持ちは、まだ俺の手の届くところにあるだろうか?


 * * *


 翌日午後。

 日可理と志乃武が泰蔵の寺に到着してみると、客間にはすでに玄蔵と竜介・鷹彦兄弟のほか、黄根老人もそろっていた。

 玄蔵及び朋徳とは初対面の日可理たちは、彼らに改めて挨拶をした後、今回の不手際に対する詫びを口にしようとしたが、朋徳が片手を挙げて二人を制した。


「気遣いはありがたいが、時間が惜しい。紺野家のかたがたに異存がなければ、わたしとしては早速本題に入ってもらいたいのだが」


 どうだろう、と彼が紺野家の四人に視線を投げると、泰蔵が鷹揚にうなずき、

「わしもそれで構わんよ」

 と同意したため、他の三人もそれにならう。


「かしこまりました。では――」


 日可理は一礼すると、何かを投げるような仕草をした。

 すると、その手から放たれた白い光が、彼らの囲む座卓の上に、ふわりと浮き上がり――

 次の瞬間、卓上全面を覆うほどに大きく膨らむと、広い庭園に囲まれた、瀟洒な宮城へ――より正確に表現するなら、その廃墟――へと姿を変えた。

 かつての栄耀栄華をそこここにしのばせる、異形の棲まう城。

 その幻を前に、彼女は言った。


「わたくしが知り得た黒珠に関することすべて、皆様にお話しさせていただきます」




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※筆者注※

画像はBingAIにより作成しました。

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