同じ頃。
竜介は泰蔵の寺に来ていた。
留守中のことは鷹彦から聞いているが、泰蔵と直接連絡のやり取りはしていない。
昨晩遅くに新たな連絡事項も一件できたため、ご機嫌うかがいを兼ねて顔を見せておこうと思ったのだ。
――というのは建前で。
電話でも済ませられそうな用件のためにわざわざ足を運ぶのは、とりあえず何かをしていないと落ち着かないから、というのが、一番大きな理由だ。
一色家で玄蔵の手伝いをしていた三週間は、毎日何かしらするべきことがあった。
現実逃避だとわかっていても、紅子を救い出す術がないという焦りを目の前の雑事で紛らわすことができた。
なのに、自宅では暇を持て余すほか何もない。
「我々は待たねばならぬ」
黄根翁はそう言った。
――だが、いったいいつまで?
「東京までご苦労さんだったな」
訪れた竜介を居間に通すと、泰蔵はにこやかにそう言って労った。
彼は息子である玄蔵と十四年ぶりに親子の再会を果たしたわけだが、そのわりには特に浮かれた様子もなく、三週間前よりさらにしぼんだようにすら見えた。
「鷹彦はお役に立てましたか」
竜介は尋ねた。
鷹彦には、自分の留守中、本邸での用がない限り、なるべく毎日泰蔵のところへ行って寺の仕事を手伝うよう言ってあった。
本人からもメールで日々報告は受けていたけれど、念のためだ。
すると泰蔵は頬を緩めて、
「おう、おかげさんでいつもより早く年末の準備が終わったよ。とくに本堂の大掃除は毎年悩みのタネなんで、本当に助かった」
「それはよかった」
竜介も微笑する。
「本人の希望で、空いた時間に久しぶりに稽古をつけてやったよ」
初耳だ。
「それは……珍しいですね」
幼少期、稽古嫌いで逃げ回っていた鷹彦の姿を思い出しながら彼が言うと、泰蔵も大きくうなずく。
「なまった身体を叩き直したいんだそうだ。紅子ちゃんの一件で、あいつなりに色々と考えるところがあったんだろうて」
泰蔵の言葉を聞きながら、竜介は昨日の夕食の席で久しぶりに見た鷹彦の顔を思い浮かべていた。
頬から顎にかけての輪郭や、身体の線が以前よりどことなく鋭さを帯びて見えたのは、そういうわけだったのか。
あいつはあいつなりに、紅子ちゃんを本気で――
そう思った途端、胸の奥に不快な痛みを覚え、竜介は憮然となった。
が、泰蔵は、不意に黙り込んだ竜介をとくに気にするふうでもなく、
「それはそうと、黄根さんから何か連絡はあったかね」
と、尋ねた。
その言葉で竜介は我に返り、泰蔵親子に相談したいことがあったのを思い出した。
「いえ、黄根さんからは何も」
彼の返事に泰蔵は一瞬、顔に落胆の色を浮かべたが、続く言葉でそれは消えた。
「ですが、白鷺家からは昨晩、電話がありました。日可理さんが、黒珠に操られていた間のことで憶えていることを我々に話したいそうで」
日可理の体調に配慮しながら東京の別宅から関西へ拠点を移したため、けっこうな日数を要してしまったとのことで、志乃武は連絡が遅くなったことを竜介に詫びた。
とはいえ、タイミング的には悪くない。
竜介と玄蔵が紺野家に戻ってきた今、こちらには関係者がそろっている。
日可理と志乃武は今、滋賀県の琵琶湖の湖畔北東にある白鷺家所有のリゾートホテルに滞在しており、紺野家までは、高速道路を使えば三時間前後で来れる、とのことだった。
「それで、白鷺家の二人を招く場所なんですが……」
竜介が言いかけると、泰蔵はうなずき、
「この寺で会うのがよかろうな」
と、言った。
涼音は現在、本邸の自室で謹慎生活を送っている。
反省の意味もあるが、本人の身の安全を図るためでもある。
黒珠が再び彼女に接触してこないとも限らないからだ。
本人は意外としおらしく母や鷹彦の指示に従っているようだが、それでも、もし日可理が本邸を訪れたとして、涼音がそれを知ったら、どんな行動に出るかわからない。
トラブルの種は未然に防ぐのが吉だ。
「それで、二人はいつ頃来れそうかね」
泰蔵が尋ねる。
「こちらの都合さえ良ければ、明日でもかまわないとのことです」
竜介の答えに、泰蔵は少し驚いたように眉を上げたが、
「こういうことは早いに越したことはないからな。わしは明日でかまわんよ」
と、答えた。
「それじゃ、あとは玄蔵おじさんの返事次第ですね」
竜介がそう言った、まさにその時、玄関のほうから玄蔵の
「ただいま」
という声が聞こえてきた。
続けて、
「お客さんだよ」
客?
泰蔵と竜介は顔を見合わせると、二人して玄関まで、件の「お客」を迎えに出た。
そこに玄蔵といたのは誰あろう、たった今噂に上っていた黄根朋徳その人だった。
玄蔵は泰蔵の隣に竜介の姿を認めると、
「おう、竜介くん、来ていたのか。ちょうどいい。お茶の準備を手伝ってくれ」
そう言って、泰蔵と朋徳をほぼ置き去りに、台所へと竜介を急き立てた。
「ここは俺がやりますから、おじさんは客間へ行ってください」
台所に着くと、竜介は言った。
黄根の用件といえば、紅子の件に決まっている。
そう思って、黄根と話をしたいであろう玄蔵を気遣ったのだが。
「いや、それが、今日は別件だそうだ」
玉露の茶葉を棚から取り出しながら、玄蔵が言った。
黄根は泰蔵に折り入って話があるらしい。
「師匠に?」
朋徳は娘の日奈の死を予見していたがために、泰蔵・玄蔵父子を避けていたという経緯があり、決して親しい間柄とはいえない。
それが、折り入って話があるとは――?
竜介は少しく好奇心を刺激されたが、何か尋ねる前に茶の準備が整い、さて客間へ運ぼうとなった、その矢先。
「黄根さん、帰ったぞ」
泰蔵がひょっこり台所へ顔を出した。
ええっ、と驚く玄蔵と竜介を尻目に、彼は
「白鷺家の姉弟が来訪予定だという話をしたら、自分も明日また来るとさ」
と続ける。
次いで、台所に準備されていた二人分の茶わんを一瞥し、
「すまんが、これは二人で飲んでくれるか。わしは片付けねばならん用事を思い出したから、部屋に戻るよ」
それだけ言い残し、足早に台所を出て行ってしまった。
まるで、こちらからの質問を避けるかのように。
「いったい何の用だったんですかね」
遠ざかる泰蔵の足音が消えるのを待って竜介は言ってみたが、玄蔵はやっぱり首を傾げ、
「さてなぁ」
と言うばかり。
結局、我々に関わりのあることなら、そのうち向こうから話すだろう、という結論に落ち着いた。
その後は、
「ところで、明日、白鷺家の二人が来るという話、わたしは初耳なんだが」
と玄蔵が言い出し、話題はそちらへ遷ってしまった。
何か、朋徳のプライベートに関わる用件だったのでは?
などと思っていた竜介だったが、志乃武と日可理の来訪が急に決まった経緯を玄蔵に説明したり、志乃武に予定を確認する電話を入れたりしているうちに、そんな好奇心を言葉にする機会はなくなり、いつしか記憶の片隅に追いやられてしまったのだった。
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