2025年3月30日日曜日

紅蓮の禁呪157話「禁術始動・四」

 



 まる四日眠っていた、と医者から告げられたときは自分の耳を疑った。

 診察の結果、医者は紅子をまったくの健康体だと請け合って、彼女の身体に取り付けられていた管やセンサーを外してくれたあと、

「今夜一晩様子を見て問題なければ、明日の午後退院しましょう」

 と言って、看護師を連れて病室を出て行った。

 入れ替わりに父と祖父、それに虎光が入ってきたので、紅子は竜介と鷹彦、白鷺家の二人、それに黄根老人の安否を尋ねた。

 三人が一瞬、微妙な表情になったので不安になったものの、なぜかなんとなく彼らの返答を予測できた。

 そして彼らは、紅子が直感した通りのことを言った。


 五人のうち四人は無事で、元気にしている。

 ただ、黄根老人だけが亡くなった、と。


 紅子は、なぜ、とも、いつ亡くなったのか、とも尋ねなかった。

 それより、父親以外で母や祖母のことを知っている親族がいなくなってしまったことが、ただ残念で悲しかった。

「そう……」

 と言ったきり、悄然と黙り込む彼女の目の前に、虎光が気まずい空気を変えようとして差し出したのが、例のギフトバッグだった。


「兄貴から、紅子ちゃんに渡してくれって預かったんだ。直接渡せてよかったよ」


 虎光はそう言って、開けてみるように促した。

 父親と祖父もいる前で、どう見ても特別感あふれるギフトバッグを開けるのは照れくさかったが、自分も中を見てみたい気持ちが勝って、紅子はベッドの上に起き上がると、紙袋の口の部分を閉じている小さなテープを剥がした。


 これまでの自分の人生で、開封の瞬間にこれほどドキドキしたプレゼントがあっただろうか、と思うくらい、それは胸の高鳴る一瞬だった。


 袋の中身は、電話会社のブランドロゴが印字された化粧箱。

 それと、水色の封筒に入った手紙が一通添えられている。

 箱を開けると、中にはパールが入った臙脂に金属部分がゴールドというおしゃれなフリップ式携帯電話が収まっていた。


 電話をかけろってこと?


 周りの視線を忘れて、紅子は急いで封筒を開けた。

 封筒と揃いの水色の便箋が四つ折りになって入っていたが、それを開くのももどかしい。 紺色のインクを目で追いながら、そういえば竜介の肉筆を見るのはこれが初めてだと思う。

 男性らしいカチッとした文字で、そこにはこう綴られていた。



  一色紅子様


 今、君は目を覚ましてこれを読んでくれていることと思います。

 本当はこの手で渡したかったけれど、用事で日本を離れることになり、虎光に託しました。

 俺は君のそばにいられないのがとても残念ですが、君はどうかな?

 もし少しでも残念だ、寂しいと思ってくれるなら、この手紙に同封した携帯電話で連絡をください。


 あの夜の月を、また一緒に見られることを願って。


 愛しています。


  紺野竜介



 文字通り、本当に顔から火が出るかと思った。

 最後の一文に目を通すや否や、紅子は電光石火の早業で便箋をベッドの上に裏返しに伏せた。

 顔を上げると、祖父も虎光も、わざとらしく明後日のほうを向く。

 父だけがなんとも複雑な顔で自分を見て、何か言おうとしたのか口を開きかけたが、


「えーと、そういえばそろそろ、面会時間も終わりだな。玄蔵、虎光くん、帰ろうか」


 という、なんだか妙に上ずった泰蔵の言葉で遮られてしまった。

 虎光も調子を合わせて、

「あ、ですね。じゃあ俺、車だから送っていきますよ」

 だが、


「えっと、待って待って」


 紅子は慌てて呼び止めると、まだ電源が入っていない携帯電話のフリップを開いて見せて言った。


「虎光さん、すみませんが使い方を教えてもらえますか?」


 携帯が入っていた箱には使い方を書いた小さくて分厚い冊子も同梱されていたが、そんなものを読み込む時間が惜しかった。


 電話でもメールでもいいから、今すぐ使いたい。


 虎光は快く、さしあたって必要と思われる機能を手短に教えてくれた。

 その間、玄蔵が直ぐ側で

「携帯電話なんてまだ早い」

 だの、

「退院してからでもいいだろう」

 だのぶつくさ言っていたが、聞こえないふりをした。

 電源を入れてみると、メールの着信が一件あった。

 中身は、竜介の名前と携帯電話の番号だけ。


「兄貴はまだ国内にいるから、電話したら喜ぶと思うよ」


 虎光に言われるまま、紅子は恐る恐る、画面の番号に電話をかけた。


 電話を耳に当て、緊張した面持ちで呼び出し音を聞いている紅子を残して、泰蔵と虎光は狼狽する玄蔵をなだめつつ、その背中を押すようにして廊下に出た。

 電話はまもなく繋がったようだ。

 紅子が小さな声で、電話の相手に何事か話しかけるのが聞こえた。

 その後、嬉しそうに何度も頷き、目尻に浮かんだ涙を指で拭う様子を肩越しに確かめると、虎光は病室の引き戸を後ろ手にそっと閉めたのだった。


 * * *


 それから約二ヶ月以上経って、紅子はようやく東京に戻った。

 三月も半ばになろうかという頃である。

 なぜそんなに時間がかかったかといえば、端的にいうと、家が住める状態ではなくなってしまっていたからだ。


 黒珠が引き起こした未曾有の大寒波は、大量の積雪と寒さによって、送電や上下水道などのライフラインを傷つけたほか交通網を寸断し、古い家屋などを破壊した。

 のみならず、気温が年明けとともに平年並みに戻ったあともなお、大量の融雪水による浸水が起き、人々の生活に甚大な被害をもたらした。


 そしてその被害は、一色家にも及んでいた。


 政府が発した緊急避難指示は、二月には全面解除となったので、東京の本社まで様子を見に行くという虎光に頼んで、玄蔵と紅子も彼の車で同行させてもらったことがあった。

 一色家は倒壊こそしていないものの、もともと古かった建物は、屋根が雪の重みで素人目にもわかるほどたわんでいたし、家の中も、雪によるものか浸水のせいかは定かではないが、一階部分はとても人が住める状態ではなくなってしまっていたのである。

 そして、例の土蔵に至っては、ただの瓦礫の山と化していた。


 幸い、玄蔵が「一色流練気柔術」の道場として借りている建物は無事で、中にはシャワールームもあり、手狭だが当面の生活ができる程度の設備はあるので、自宅の改築が完了するまではそこに住むことで一応の解決を見た。

 それでも不便な生活はできるだけ短期間であるに越したことはない。

 道場の再開をしなければならない玄蔵は二月半ばには東京に戻っていたが、紅子は学校が始まるギリギリまで泰蔵のところにとどまっていたのだった。


 とはいえ、一色の家を建て直すかどうかについては、玄蔵はかなり悩んだようだ。

 深夜、泰蔵と相談しているのを、紅子は何度か見かけた。

 泰蔵の家から通える高校への編入手続きを促す書類が役所から届いているのを見かけると同時に、東京の高校からも、四月に授業再開の見通しが立ったという連絡が来ていたが、どちらがいいかと訊かれれば、紅子にとっては後者がいいに決まっている。

 玄蔵にとっても、新しい場所で一から道場の経営を始めるよりは、すでに弟子たちがいる東京に戻って、完全に元通りとまでは行かずとも、道場を再開するほうがずっと楽なはずだ。

 残る問題は先立つものだったが、玄蔵が自分の生家の名前を出すと、驚くほどすんなり銀行の融資が通ったそうで、それが最後の決め手となったのだった。

 泰蔵だけは、息子や孫といっしょに暮らせる当てが外れて、少し落胆したらしいけれど。


 東京に戻った紅子は、改築が始まる前の更地になった自宅跡地を見に行ってみた。

 築地塀はなくなり、代わりに周りを囲っているのは仮説された蛇腹式の横引きシャッターで、その向こうに広がる空き地は驚くほど広かった。

 植栽もほぼ取り除かれ、隅の方に真新しい建材がいくつか置かれているほかは本当になにもない。


 土蔵があった辺りの地面も、それらしい穴の跡はない。


「何もないぞ」


 出かける前、家の跡を見に行ってくる、と言う紅子に、玄蔵は言った。

 それに先んじて、彼は他にも、「去年の冬至と新月は重なっていない」ことを新聞などの月齢カレンダーで調べて教えてくれていた。


 そう、世界は変わったのだ――御珠の存在しない世界に。



※挿絵はAI画像です。

2025年3月19日水曜日

紅蓮の禁呪156話「禁術始動・三」

 


 禁術が起動した後のことはよく憶えていない。

 凄まじい術圧と目の前の碧珠の強すぎる輝きに思わず目を閉じた次の瞬間、玄蔵は不意に身体が軽くなり、同時にまぶた越しに突き刺すようだったまばゆさが消えていることに気づいた。

 そういえば、耳を聾する龍垓の咆哮も、紅子が発していた、全身の細胞一つひとつが震えるようなあの「音」も、いつしか聞こえなくなっている。

 静かだった。


 黒珠は封じられたのだろうか?

 禁術はそんなに一瞬で終わるものなのか?


 訝りながらも目を開ける。

 そこには、饕餮文が刻まれた柱と、黒大理石の舞台、そして薄明に沈む黒珠の宮殿と廃園――があるはずだった。


 ところが、まず玄蔵の目に入ったのは見慣れた山門だった。


 小鳥の声と山間を渡る風の音、遠くから聞こえる街の喧騒が耳に届く中、彼は慌てて視線を巡らせた。

 どこもかしこも一面の雪で照り返しがまぶしい。

 けれど、目を細めていても見違えるわけがない。


 そこは自分の生家――泰蔵の寺の前庭だった。


 キンと冷えた風が頬に触れ、雪に埋もれた足先は氷のように凍え始めている。

 夢ではない。

 黒珠の宮城で最後に見たのと同じ場所に泰蔵や鷹彦、日可理の姿もあった。

 彼らも玄蔵同様、目に見えて当惑している様子だったが、互いの姿を認めるや、安堵の表情を浮かべる。

 新雪のあちこちに志乃武、竜介そして紅子の三人が倒れているのもすぐに見つけた。


 しかし、黄根老人の姿だけは、どこにもなかった。


 神出鬼没のあの老翁のこと、きっと自分の力を使って帰宅したのだろう――

 その場では互いにそう言い合って納得し、黄根家にはあとで連絡を入れることにして、彼らはとりあえず目の前の三人を目の前の家に運び入れ介抱することにした。


 家の時計は朝の八時をすぎたところだった。

 冷凍庫のように冷え切っていた屋内が暖房で温まると、ほどなくして竜介が意識を取り戻した。

 紅子の安否を気にする彼に、そばで志乃武の服――右袖がなく、血まみれの――を着替えさせていた玄蔵が、娘は無事だと伝えていると、別室でこちらも紅子の血だらけの服を着替えさせていた日可理が、当惑した様子で彼らのいる客間に入ってきた。

 紅子に何かあったのかと玄蔵が尋ねると、彼女は頭を振り、

「紅子さまのお着替えは問題なく終わりました。ただ……」

 と、続けた。


「実は、わたくしの力が使えなくなってしまったのです。式鬼も、法円も呼び出せなくて……。皆様はいかがですか?」


 玄蔵と竜介は驚き当惑して顔を見合わせる。

 日可理の質問に彼らが答えようとしたそのとき、再び襖が開いて、今度は鷹彦が顔をのぞかせた。

「竜兄、気がついたんだ!よかった~!」

 彼は兄の顔を見るなり、一瞬、嬉しそうにそう言ったが、すぐに伝えなければならないことを思い出したらしく、神妙な顔に戻り、

「……っと、それで、師匠が今、うちの母屋(おもや)――紺野家の本邸――に電話しておふくろさんと話してるんだけど、今さっき黄根家から母屋に連絡があって」

 と、少し早口になる。

 黄根家からの電話によると、と彼は言った。


「黄根さん、亡くなったんだと」



 その日は思いの外、長い一日になった。

 紅子と志乃武の容態が不明なため、当初は救急車を呼ぼうという意見もあったが、泰蔵から連絡を受けた英莉が紺野家と古馴染みの病院に話を通してくれ、彼女の車でそこの救急外来まで二人を運べることとなった。

 ちなみに紅子と志乃武が意識不明になった理由については、

「早朝、本邸から寺のほうへ山伝いに移動しようとして雪で道を見失ったらしく、到着が遅いので探しに行った泰蔵が倒れている二人を見つけた」

 ということにしておいた。

 早めに出勤してきた滝口と斎に留守を任せて、泰蔵の寺までやってきた英莉の車は普通のセダンだが、後部座席とトランクがつながるようになっている。

 彼女はフラットにした後部座席に紅子と志乃武の二人を寝かせ、助手席には志乃武の家族である日可理を乗せて、病院へ出発して行った。

 玄蔵は義父の生家である黄根家に悔みの電話を入れ、葬いの日取りなど聞いたりしてから、ようやく一息入れる時間ができた。

 台所で竜介と鷹彦が作ってくれた多めの朝食を泰蔵と平らげたあと、彼ら四人はしばし仮眠を取ることにしたが、その眠りはそれから二時間ほどで遮られることとなる。

 それは病院に行った英莉からの電話で、連絡が早かったのは、紅子も志乃武も命に別状がなかったからだ。

 二人とも軽い脱水症状と貧血、過労のほかは健康状態にとくに異常がないということで、報告を受けた四人は全員、安堵した。

 医師は言った。

 念のため一晩、様子を見ますが、明日には目を覚ますでしょう――などなど。

 そして、志乃武はまさしく医師の見立て通り、翌日の昼近くに意識を取り戻した。


 しかし――紅子の場合は、その見立てははずれてしまった。


 * * *


「玄蔵おじさん、こんにちは。あ、師匠も来てたんですね」

 そう言って病室に顔を出したのは、虎光だった。

「やあ、虎光くん。いらっしゃい」

「おう、来たか」

 ここは本来二人部屋だが、今は片方のベッドは空いているので、気兼ねなく話せるのがありがたい。

 それぞれに挨拶を返す玄蔵と泰蔵の表情が、思いの外明るいことに虎光は少しホッとしながら、消毒の匂いがする白いベッドに仰臥する紅子の顔を伺う。

 白い顔がいつもより少し血色よく見えるのは、窓から差し込む暖かな午後の日差しのせいだろうか。

 ベッドの傍らにはバイタルや輸液をモニターしている機器が、規則正しい電子音で彼女の命の音を刻んでいた。

 紅子が眠り続けて、今日で五日目になる。

 CTやMRIなど、できる検査はすべてやったが、どこにも異常は見つからなかった。

 医師の説明によると、彼女はただ「眠っている」のだ。

 それなら、目覚めるのをひたすら信じて待つしかない。

 落ち込んでいても事態は変わらないなら、せめて明るく過ごすのだというのが、泰蔵・玄蔵父子の考えらしいが、それでも不安に駆られることもあるだろう。

 だから、連日、紺野家本邸の誰かが見舞いに行くように気を配っていた。

 特に竜介は毎日来ていたのだが、五日目の今日、彼の姿はここにない。

「兄貴が、師匠とおじさんによろしく伝えてくれと言ってました」

「そういえば今日出発だったな」

 泰蔵が思い出したように言うと、玄蔵が、

「送って来たのかね?」

「はい、ついさっき駅まで」

 虎光は続けて、竜介から預かってきたと言って、小さな紙袋を取り出した。

「紅子ちゃんが目を覚ましたら、渡してほしいそうです」

 玄蔵は無言だったが、泰蔵は

「なんだ、菓子類か?」

 と興味津々で紙袋を受け取ると、ためつすがめつ眺めた。

 それは黒くて張りのある厚手の紙でできていて、イタリック体で書かれたブランド名か何かが小さく箔押しされ、持ち手に赤いリボンが結ばれている。

 一見して、ちょっとした気軽なプレゼント、という雰囲気ではない。

「なんだ、意外に重いな。腕時計かな」

「まあヒントとして言えるのは、昨日、兄貴が自分のといっしょに買ってたってことくらいですかね」

 虎光が思わせぶりに言うと、それまで黙っていた玄蔵の頬がぴくりと動いた。


「まさか……指輪……!?」


「いやいや、そんな大げさなものじゃないですって」

 虎光が慌てて否定すると、泰蔵も

「それはさすがに気が早すぎるだろう。鷹彦じゃあるまいし」

 と呆れ顔で言う。

 だが玄蔵は納得しない。

「でも、見るからに高そうだし……念のため中身を確認したほうが」

 などと言い出すので、泰蔵はやれやれと言わんばかりに額を押さえ、虎光は苦笑とともに泰蔵の手から紙袋を取り返して玄蔵から遠ざけた。

「困ったな。紅子ちゃん宛てなんですってば」

「紅子はまだ未成年なんだから、親のわたしが確かめる必要が」

 ある、と玄蔵が言いかけたそのとき。

 かすかに、「うーん」と誰かがうめいた。

 三人は顔を見合わせ、自分たちでないと目で頷き合うと、紅子を見た。

 彼女は大きく伸びをすると、眠そうに目をこすりながら、言った。


「んー……もう、うるさいなぁ……よく寝てたのに、枕元で騒がないでよ」


※挿絵はAI生成です。

紅蓮の禁呪157話「禁術始動・四」

   まる四日眠っていた、と医者から告げられたときは自分の耳を疑った。  診察の結果、医者は紅子をまったくの健康体だと請け合って、彼女の身体に取り付けられていた管やセンサーを外してくれたあと、 「今夜一晩様子を見て問題なければ、明日の午後退院しましょう」  と言って、看護師を連れ...