2024年9月22日日曜日

紅蓮の禁呪150話「竜と龍・七」


 「わたしがお前の力を増幅させる」


 黄根は宣言した。


「この娘の――紅子の命を、取り戻すんだ」


 彼と、紅子を抱えてうずくまる竜介を囲み、金色の法円が黒大理石の上で回転している。

 虫の羽音のようなかすかなハミング音に合わせて、その幾何学模様を複雑に変化させながら。

 竜介は視線を上げて黄根の顔を見た。

 正面にひざまずいている黄根と、間近に目が合う。

 こんなに近くで、この老人の顔をかつて見たことはなかった。

 金色の光輝に包まれているそれは、彼がよく知っているとおりに、威圧的で険しく厳しい。


 しかし――


 今はそれが、不思議なほど、この上なく頼もしく思えた。

 老人の口調が、自信に満ちているからだろうか?

 できるかもしれない。

 そんな気持ちが、ふつふつと湧き上がる。


 たとえ自分の命に替えても、彼女を取り戻す。


 竜介は答えた。


「わかりました。やります」



 ――寒い。


 闇の中に、彼女はいた。

 時の流れさえ凍てつく寒さと、永遠の闇。

 その中で、固く目を閉じ、膝を抱え、小さく小さく丸まっている。


 寒さをしのぐため――だけではない。


 彼女は何かをその胸に抱え込んでいた。

 その「何か」を守るために、ひたすら丸くなっている。


 それは、小さな炎だった。


 胸の奥の、小さな熱と光。


 いつからこうしているのかも、もうわからない。

 自分が何かを待っていたような気がするけれど、いったい何を待っていたのかすら思い出せない。

 それでも、この炎だけは、これだけは守らねばならない。

 これだけは、消してはならない。

 たとえその理由さえもはや思い出せなくても。


 そんな彼女に、闇がささやく。

 無駄だ、と。


 無駄なことだ。

 お前が忘れてしまったように、お前が待つものも、お前を忘れてしまった。

 もうすべてを手放してしまえ。

 楽になれ。


 闇にとって、彼女の炎は目障りなのだ。

 この炎のせいで、彼女を凍えさせ、完全に取り込むことができないのだから。

 彼女は闇の邪悪さを本能的に感じ取っている。

 だから、守りをさらに固くする。


 けれど――


 炎は少しずつ、その勢いを失いつつあった。

 それは今や小さな灯火(ともしび)となり、吐息のささやかな一吹きで消えてしまいそうだ。

 同時に、押し寄せる絶望が、心を蝕んでいく。


 なんだか、疲れたな……。

 手放してしまおうか……。


 そんな彼女の気持ちを鋭く感じ取り、闇が邪悪な歓喜に震える。

 それさえ、彼女はもうどうでもいいと感じ始めていた、そのとき。


 何かが――「だれか」が、彼女を呼んだ。


 聞いたことのある声だった。

 ずっと待ち望んでいた声だった。


「紅子」

 それはたしかにそう言った。


 炎がにわかに勢いを取り戻し、その熱と光が彼女の心をほどいていく。

 膝を抱えていた腕を解き、ゆっくりと起き上がる。


 闇が怯む。


 固く閉じていた彼女の双眸は今、開かれ、赤く燃えている。

 戻りたい。

 戻らなければ。


 周囲は上下すらわからない無限の闇だ。

 だが、彼女はふらつきながらも立ち上がった。

 闇はそんな彼女を威嚇するかのように、恐ろしい咆哮を響かせる。

 凍てつく吐息とともに針のような氷のつぶてが、彼女に襲いかかる。


 しかし、その攻撃はどれも彼女を傷つけることはできなかった。


 次の瞬間、彼女の足元から、オレンジ色の花びらのような炎が勢いよく燃え上がり、彼女の全身を繭のように包んだからだ。


 炎は灼熱の盾となって、闇が繰り出すあらゆる残忍な殺意の具象を防ぎ、さらには金色の火の粉を吐きながら、その赤い牙と舌で、見る間に闇を切り裂き駆逐していった。


 たった四つの御珠だけで強行された禁術で力尽きたはずの彼女の、どこにそんな力が残っていたのだろう?


 否、これは彼女「だけ」の力ではなかった。

 彼女に「戻ってこい」と呼びかける、その声の力。

 彼女を待つ人達の、心の声の力だった。


 そして――


 そして、彼女は戻ってきた。


 現実に戻ってきた彼女が最初に感じたこと、それは口の中の金気臭い血の味と、寒さと、そして強く抱きしめられている温もりだった。


 知っている匂いだった。


 目を開くと、懐かしい青い光の向こうに、確かに彼がいた。

 心配そうにこちらを覗き込んでいる。


「竜……介」


 血が乾いて動かしにくい口で、そう呼んでみる。

 涙があふれた。


「紅子……!紅子ちゃん!」


 闇の中で聞いた声。

 それが潤んで聞こえたのは、気のせいではないようだ。

 竜介の頬にも、涙の筋が光っている。


「これ……夢じゃない、よね?」


 紅子がかすれた声で尋ねると、竜介は泣き笑いの顔になって、強く頭を振った。

「夢なもんか!君は、戻ってきたんだ」

 そうして、彼は紅子を抱きしめると、その耳元で言った。


「君は、帰ってきた……もう、どこへも行かないでくれ」



※挿絵はAI生成です。

2024年9月11日水曜日

紅蓮の禁呪149話「竜と龍・六」


 龍垓は、己の腹心の首がその胴を離れても、目もくれなかった。

 その代わりというように、竜介と黄根の間合いにより一層深く踏み込む。


 そのとき、鷹彦の起こした風撃の余波が彼らを襲った。


 激しい風に思わず目をかばう竜介。

 と、その瞬間、あのぞっとするほど強大な力の気配が消えた。

 慌てて視界を確保すると、すぐそこにあった黒い壁のような鎧がない。


 否。


 それは移動していた。

 十メートルばかり遠くに――つまり、法円の中央に。


 風で剥ぎ取られたフードから現れた、白い顔に、彼の目は釘付けになった。

 血の気はなく、目は落ちくぼんでいるけれど、それはたしかに紅子だ。


 そして、その背後には、龍垓の姿があった。

 小柄な紅子に比べ、その巨躯はまさにそびえるが如くだったが、今、それは更に大きく見えた。


 なぜなら、長剣を振りかざしていたからだ。


 ぎらつく長剣の切っ先が、スローモーションのように、紅子の頭頂へ吸い込まれていく。


 竜介は叫ぼうとした。

 駆け出そうとした。

 これが悪夢なら今すぐ醒めてくれと願った。

 せっかくここまでたどり着いたのに。

 目の前に彼女がいるのに。


 これで、終わりなのか――やはり、遅かったのか。何もかも。


 ところが。


 龍垓の剣が、少女の髪に今にも触れるというとき、突然ぴたりと止まった。


 次の瞬間、龍垓の足元に金色の法円が現れたと思うと、その姿は消え、再び現れたのは、竜介の目の前、元いた場所。

 大剣がいきなり頬をかすめるほどの距離に出現し、竜介は思わず飛び退る。

 が、龍垓は動かない。

 その喉元から偃月刀の切っ先が飛び出していることに竜介が気づくのに、さほど時間はかからなかった。


 龍垓の巨躯が前のめりに崩れ落ち、黒大理石に打ち付けられた鎧が、ガシャーン!と驚くほど大きな音を立てる。

 その後ろから姿を現したのは、黄根だった。

 彼は足元の巨大な黒い金属の塊を見下ろし、独り言のように言った。


「これでしばらくは動けまい」


 黒珠の王は――少し離れた場所で首と胴体がばらばらになって倒れている迦陵もそうだが――彼の言う通り、ぴくりとも動かない。

 驚くべきは、血や体液の類が一切、流れ出ていないことだ。

 彼らが人間どころかこの世界の一般的な「生物」ですらないのだ、と竜介は改めて思う。


「全員、早く舞台に上がれ」


 黄根が呼びかける。

 龍垓も迦陵も、炎珠の神女に焼かれたわけではないから、影にはならない。

 しばらく経てばまた動き出すだろう。


「立てるかね」

 泰蔵は、床に座り込んだままの志乃武に手を貸して立たせてやると、舞台の階段を上がるのを支えた。

 そばには日可理が付き添っているが、彼女では弟の体重を支えきれなかったのだ。

「ありがとうございます」

 二人がユニゾンで礼を言う。

 日可理は弟の切り取られた腕を傷口にぴったり押し当てている。

 力が復活した今、止血はできているようだが、痛みを完璧に消したり、もとに戻すのは、彼らでは無理のようだ。


「坊主、お前はこの舞台の周りに風で壁を作れ。破られるなよ」


 黄根に坊主呼ばわりされた上にそう念押しされて、鷹彦は一瞬ムッとした顔をする。

 が、


「紅子!?」


 玄蔵の悲鳴のような声が、和らぎかけた空気を再び凍りつかせた。

 円形舞台の中央。

 そこでは紅子が、糸の切れた人形のようにくたくたと崩れていくところだった――大量の、血を吐きながら。

 玄蔵が駆け寄り、竜介と鷹彦、それに黄根が続く。


「紅子、紅子……!!」

 娘を抱え起こしながら呼びかける父親の悲痛な声。

 竜介がそばに膝をつくと、玄蔵は今まで見たことのないすがるような目で言った。


「竜介くん、助けてくれ。君なら、できるだろう!?」


 そう言われて、差し出された紅子の身体を受け取る。

 しかし――


 その身体は、凍っているのかと思うほど冷たかった。

 薄く開かれた目に光はなく、紙のように白い顔に、乾き始めた血糊だけが、禍々しく赤い。

 それは、死者の顔だった。


「紅子ちゃん、助かるよな?なあ、竜兄?」

 鷹彦の声が、どこか遠くから聞こえるようだ。


 絶望、という言葉が竜介の脳裏をよぎる。


 ここまで来たのに。

 やっと……やっと会えたのに。

 遅すぎた。全部、何もかも、遅すぎたんだ。


 視界がゆがむ。

 全身の力が抜けていく。


 と、そのとき。

 いきなり視界が明るくなった。

 黒大理石の床に、竜介と紅子を囲む小さな金色の法円が広がっている。

 気のせいだろうか、ほのかに温かい。


「坊主、玄蔵さん、悪いがあんたらはこの法円から出てくれ」


 黄根老人が言った。

 二人が金色の法円の外に出るのを確かめると、竜介に向き直る。


「しっかりしろ、小僧」


 老人はぎょろりと左目で彼をにらみつけ、言った。


「今、このときのことを、わたしは何度も何度も見てきた。そしてこのときのために、ここまで来たのだ」


 まだ間に合う。


 黄根老人は、たしかにそう言った。



※挿絵はAIによって作成しました。

紅蓮の禁呪152話「竜と龍・九」

 玄蔵は抗弁した。 「しかし黄根さん、魂縒のあとには昏睡があります。第一、今の紅子の身体は普通の状態じゃ……」  ところが、当の紅子はいつの間にかすっくと立ち上がっている。 「紅子?大丈夫なのか?」  ついさっきまでふらついていたのにと訝しみながら玄蔵は声をかけるが、彼女は焦点の...