2024年2月11日日曜日

紅蓮の禁呪142話「凍える世界で・九」

 

 夢を見た。
 紅子の夢だ。
 夜で、月が出ていた。
 紺野家の庭で、二人して夜空を見ている。

 二人で月を見上げた、あの夜のように。

 あの日と違うのは、二人とも、何も話さなかったことだ。
 竜介が隣にいる紅子に視線を遷すと、彼女もこちらを見た。
 彼女はたしかにそこにいる。
 よかった。
 竜介は胸に安堵が広がるのを感じた。

 どうして失ってしまったなどと思ったのだろう。
 彼女はここにいるじゃないか――

 彼の安堵を察したように、紅子は微笑む。
 言葉など要らない――そんな気がした。
 白い月の光に浮かぶ彼女の輪郭には、確固とした陰影があり、それは重量を持つ実体のはずだった。

 だが――

 紅子の存在を確かめるように伸ばした彼の指先が、柔らかな頬に触れようとした、その瞬間。
 彼女の姿は、文字通り霧散した。

 目を覚ますと、見慣れた自室の天井が滲んで見えた。
 夢を見て泣くなんて、いつぶりだろうか。
 彼は寝間着の袖でしずくを拭うと、苦笑しながら起き上がった。

 夢が甘ければ甘いほど、現実が苦い。

 泰蔵の寺で黄根老や日可理たち姉弟と会ってから、すでに一週間近くが経とうとしていた。
 明日は新月。
 黒帝宮に向かう、運命の日が眼の前に迫っている。



 顕化を持つ者が使えるという究極の秘術、「雷迎」。
 それを龍垓と同じように使えるようになれ、と一週間前、黄根は竜介に厳命した。
 日可理から共有された龍垓の記憶をなぞれば、理屈の上では、竜介も難なく雷迎を使えるはずだ。
 ところが、黄根の言葉に難色を示した人物が、その場に一人だけいた。
 日可理である。

「雷迎については、龍垓でさえ、一生に何度も使うべきではないと考えています。それほど負荷が大きい術を、なるべくならわたくしは竜介様に使っていただきたくありません」
 それに、と彼女は言った。
「それに、まだ封印から目覚めたばかりの今の彼が使うとは、わたくしには思えないのです」
 伺候者に実体を与えるために黒珠の力を使っている今、龍垓は確かに、自分の力の回復を後回しにしている。
 竜介は龍垓の全身から発する底冷えのするような力の気配を思い出し、あれでまだ未回復なら、完全に回復した彼はどれほどの強さなのかと、今更ながら暗澹とした気分になった。
 一方、朋徳は日可理の反論を苦い顔で否定した。

「わたしは見たのだ」

 儀式のとき、龍垓が雷迎を使うところを、「見た」のだ。


 会合の明くる日、竜介は早朝から、例の結界石がある広場へ来ていた。
 日可理は否定的だったが、黄根が「見た」と言う以上、最悪の事態に備えて、龍垓と同等ではないにしても、雷迎術を起動できるようなっておくに越したことはない。
 龍垓の記憶から鑑みるに、雷迎は名前の通り、かなり爆発的な稲妻を発する術らしい。
 そんな危険な術を試すには、人家から離れたこの場所はうってつけだ。

 紺野家に伝わる文書にある、顕化を持つ者だけが使えるという伝説の術、それはおそらく雷迎のことで間違いないだろう。
 文書のほうには、龍に化身して空を飛ぶことができた、などという表現があるが、天地の気を自分の身に集中させるという術の過程で、その集中した気の流れが天地を結ぶ光の柱となるため、それが龍に見えたのかもしれない。
 空を飛ぶ云々は単なる誇張としか思えないが。

 ところで、賢明なる読者諸氏はすでにお気づきと思うが、彼らが扱う術には、法円――いわゆる「魔法陣」のようなもの――を必要とする術と、不要の術とがある。

 竜介が使う雷撃、鷹彦が使う「かまいたち」――風撃、などなどは法円を必要としない。
 一方、朋徳が竜介を紅子の意識界に送ったときの術などは法円を要する。
 法円は術の発動において気の流れや力の収束、効果の大きさを調整するパラメータの役割を果たすものだ。

 ちなみに白鷺家の姉弟が使う呪符は、いわば術のプリセットで、法円を必要とする複雑な術であっても速やかな発動が可能になる。

 雷迎術がどちらに属するかというと、法円を必要とする術、それもかなり複雑な調整を必要とする術だった。

 そしてその術を試してみた結果だが、結論からいえば術は失敗し、その上、彼はその後ほぼまる一日寝込むことになってしまった。

 あの龍垓が一生に何度も使うべきではないと考えるほどの術である。
 身体にかかる負荷を少なくするため、竜介も慎重に慎重を重ねて術を起動したつもり、だったのだが――

 術のパラメータを調整しようにも、なにぶん龍垓の記憶しか参考になるものがない。
 同じ顕化を持つ者とはいえ、むこうは人の姿をした異形である。
 その異形の者が自分用に組んだパラメータを、人間である自分にほとんどそのまま適用したのだから、術が失敗するのは当たり前といえばその通りで、むしろ死ななかっただけ幸いというべきなのかもしれなかった。

 文字通り這うようにして泰蔵の寺に戻り、玄関先で慌てふためく師を見たと思ったら、そのまま意識を失ってしまった。
 気がついたときには翌日の日暮れ、寝間着姿で客間の布団に寝かされていたというわけだ。

 前日着ていた服がどうなったかというと、見るも無惨に焼け焦げていて、とくにコートはポケットに入れていた携帯電話が燃えたらしく、大きな穴が空いていた。
 もし薄着の季節だったなら、ひどい火傷を負っていたかもしれず、怪我がないのが奇跡といえた。
 寝込んだ理由も単なる過労だったようで、次の日には問題なく起き上がって動けるようになった。

 しかしながら、時間が潤沢にあるわけでもないこの期に及んで、一日のロスは痛い。

 ようやく起き上がれるようになって彼が最初にしたのは、白鷺家の二人に電話で雷迎術を発動する呪符を作れないか相談することだった。
 つまり、竜介用にカスタマイズされたパラメータを設定した呪符ということだが、日可理は電話口で、申し訳なさそうに言った。

「調整する時間が、どう考えても足りません」

 雷迎術ほどの複雑で危険な術を、自分ではない誰かのために一から微調整して呪符に落とし込んでいくには、あと数日では無理だという返事だった。
 しかし、意気消沈する竜介を気の毒に思ったのか、彼女はこう付け加えた。

 具体的に法円を調整する手伝いなら、できるかもしれない、と。

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